夏彦翁と古森義久氏&産経
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」130/通算562 2023/1/26/木】山本夏彦翁は生きている人と死んでいる人を区別しない。「気に入った人は生死にかかわらず私の友である」と。小生にとって翁は今でも友であり、師匠であり、憧れの人である。
小生は小学生の頃から週刊新潮の愛読者だったことは先日にも報告したが、山本夏彦翁に傾斜するようになったのは28歳、現役バリバリの記者・編集者の頃だった。その頃に記者・編集者・社長・文筆家で当時64歳の夏彦翁が週刊新潮にコラムを書くようになった。
<1979/昭和54年『週刊新潮』に「夏彦の写真コラム」連載開始(初回は「かわいそうな美空ひばり」)>(WIKI)。以来、翁は小生の師匠になった。
先日、翁の息子、山本伊吾さん著「夏彦の影法師 手帳50冊の置土産」を再読していたら次の日記(1993年)紹介があり、びっくりした。( )内は伊吾氏の補足・解説。
<平成5年5月23日 古森義久、スーザン夫人と来る。28日のスピーチのため。チョコみやげに(産経新聞ワシントン支局長、古森さんが日本記者クラブ賞を受賞した。その授賞式が)
5月28日 古森祝うパーティ、出席。スピーチ社長のすぐあと、上出来。あとの客、皆々夫人をほめる珍しき会
(古森さんは、元毎日新聞の記者だった。ベトナムのサイゴン特派員をしていた時、ほとんどの新聞社が反米に染まっている中、ひとり日本中の大新聞を敵に回す報道を送り続けた。父はこう書く。
「大新聞は北ベトナムの味方で、北の兵士は共産軍だと承知しながら、人民解放軍といつわった。サイゴン陥落して北ベトナム正規軍、即ち共産軍が入場したのを見ても、まだ解放軍だと言った。戦前『日米防共協定』を結べと書けばデスクが喜ぶから書いた特派員に似ている。そしてあとで恥じないことも似ている」/「オーイどこ行くの」
しかし古森さんは一貫して独自の報道を送り続け、昭和57/1982年、産経新聞に招かれた。日本記者クラブ賞はその報道と姿勢を評価されてのものである。古森さん夫妻は、父に式のスピーチを頼みに来たのだ。
「六年前、私は古森のおそい結婚の披露宴に出た。アメリカは広い。日本で披露せよ、しなければ日本人の妻になったことにならないぞと厳しく言う古風な親があってのこの披露宴だと仄聞した。そのとき始めて私はスーザン夫人に会った。長身痩躯、夫人は緊張のあまり老けて見えた。無言でいつも亭主を立てているように見えた・・・
今回の受賞を祝う会に出るため、二人はワシントンから急遽上京して、私に会いたいという。これから訪ねるという。たまたま私は病を得て入院中だったが、枕もあがらぬほどではないので来てもらったが、スーザン夫人は六年前よりはるかに若くなっていた・・・聞けば去年、古森の八十を越えた母堂が亡くなる前後、スーザンはふた月余りつききりで姑の死水を取った」/同
遺された著しい手紙類の中に、父がスーザン夫人に宛てたものがある。父は手紙の下書きをすべて保管、遺していたのである。
「お手紙を読んで私はほとんど感動しました。私のスピーチを認めてくれたのは産経新聞の石井英夫ひとりでしたが、あなたがそのすみずみまで理解してくださっていると知ってこんな嬉しいことはありません・・・立派なアメリカ婦人を知ったこと、それが友人古森の細君であることを私は嬉しく思わずにはいられません」)>
古森義久氏と夏彦翁は友・・・知らなかったなあ。小生が古森氏を知ったのは1991年頃、若くして亡くなった産経記者の近藤紘一(1940-1986)の遺稿集「目撃者 近藤紘一全軌跡1971~1986より」を通じてだったと思う。同書の編集にあたった沢木耕太郎によると、「膨大な原稿の中からどれを選ぶかという作業を進める中で、近藤紘一の友人である古森義久氏には極めて大きな力添えをしていただいた」と編集後記に書いている。同書の近藤年譜によると近藤と同年代の古森(1941~)の交際は1963年から始まったようだ。
<1963/昭和38年/22歳 3月、早稲田大学仏文専修を首席で卒業。サンケイ新聞社入社。10月、毎日新聞・古森義久氏と知り合う。
1971/昭和46年/30歳 8月、サイゴン支局長として赴任。毎日新聞古森氏とも再会。
1984/昭和59年/43歳 6月、古森義久氏と共著「国際報道の現場から」刊行>
小生が古森氏の記事・論稿を知るようになったのは2003年頃から産経新聞を通じてだった。WIKIから抜粋する。
<古森義久(1941/昭和16年3月11日 - )は、日本のジャーナリスト。産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。
1941/昭和16年 東京府に生まれる。1963/昭和38年、慶應義塾大学経済学部を卒業後、ワシントン大学ジャーナリズム学科留学、毎日新聞社入社。毎日新聞記者として静岡支局、東京本社社会部、外信部を経る。
1972/昭和47年 南ベトナム、サイゴン特派員。1975/昭和50年 サイゴン支局長。1976/昭和51年 ベトナム戦争終結時のサイゴン陥落報道により、ボーン国際記者賞受賞 同年、ワシントン特派員
1978/昭和53年 著書「ベトナム報道1300日」により、講談社出版文化賞ノンフィクション賞受賞。1981/昭和56年 米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員
1982/昭和57年 「ライシャワー核持ち込み発言報道」により日本新聞協会賞受賞。1983年(昭和58年) 毎日新聞東京本社政治部編集委員。1987/昭和62年 外信部副部長 同年産経新聞に移籍、ロンドン支局長>
毎日新聞は1977年から1985年あたりまで会社再建で大変だったから、46歳、働き盛りの古森氏はリストラに応じたのだろう。以後は産経においてワシントン支局長、「ロンドン・ワシントンからの6年間にわたる国際報道」により日本記者クラブ賞受賞、中国総局長(31年ぶりに産経新聞北京支局再開)、ワシントン駐在客員特派員として82歳の今も健筆を振るっている。72歳の小生もそう在りたいものだ。
昨年、小生は古森氏と門田隆将氏の共著「米中“文明の衝突”崖っ淵に立つ日本の決断」を読んで、「古森氏は絶対的な自信がないと予測を公表しない記者・論者なのだなあ」と感心したが、以下の産経2023/1/22「古森義久 あめりかノート バイデン政権に衝撃波」は政権交代を示唆していた。
<バイデン米大統領がこの20日、就任から2年の折り返し点を越えた。この2年の実績の評価はコップに半分まで注がれた水の部分をみるか、空の部分をみるかで当然、異なる。この点、トランプ前大統領の政権との比較が意外と客観性があるかもしれない。
日本側でも最も気になる対外政策では、バイデン政権の「国際協調」をほめる向きが多いが、他方、ロシアのウクライナ侵略という戦争はトランプ政権下では起きなかった。米国の歴代政権が民主化に努めたアフガニスタンはバイデン氏による大混乱の撤退で完全な喪失となった。
中国の無法な膨張に初めて正面から対決したのはトランプ政権だった。バイデン政権もその基本を継ごうとはしているが、対中協力をも模索し、軍事面での対決を避けがちである。中国はその間隙を突くかのように台湾などへの軍事攻勢を強める。(以下要旨、敬称略)
トランプ政権下では北朝鮮はトランプとの接触を懇願し、核やミサイルの挑発をやめたこともあるが、バイデンに対しては傲慢な軍事挑発を続ける。イランも革命防衛隊の司令官を殺害したトランプ政権には牙を向けなかった。
バイデンの内政では記録破りの高インフレになった。不法入国者は急増している。機密文書の持ち出し疑惑もある。バイデンと繋がりのある大学が中国系企業から71億円の寄付を受けていたという「疑惑」もある。AP通信の世論調査では「米国は誤った方向へ進んでいる」が71%に達した。バイデンへのこの衝撃波が今後の国政をどう変えるか。
私自身は「米国政治の激変も基本は保守とリベラルの振り子のような攻守の揺れ」という認識だが、その認識が正しいかどうか、行方を眺めたい>(以上)
日本を経済封鎖して罠を仕掛け戦争に引きずり込んだFDRルーズベルト、原爆2発をオタメシで落としたトルーマン、ヘタレのクリントン、オバマ、バイデン・・・
小生が「隠れアカ」と嫌悪している米国民主党の上記大統領は日本にとって「禍」で、これからもそうだろう。共和党トランプと安倍氏はWinWinで実に馬が合った。産経はトランプ&安倍を大いに支持していたが、バイデン政権になるとトランプを蛇蝎のように貶めるようになった。
産経は次期大統領選にトランプが再選したら再びヨイショするのか? 強者や軽薄な流行に寄り添う事大主義、ダッチロール・・・産経購読者のコアは50代以上の保守独立派だと小生は思っているが、姿勢がブレまくっていると読者の信用をなくす、まあお仕舞だろう、と警戒警報を鳴らしておく。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」130/通算562 2023/1/26/木】山本夏彦翁は生きている人と死んでいる人を区別しない。「気に入った人は生死にかかわらず私の友である」と。小生にとって翁は今でも友であり、師匠であり、憧れの人である。
小生は小学生の頃から週刊新潮の愛読者だったことは先日にも報告したが、山本夏彦翁に傾斜するようになったのは28歳、現役バリバリの記者・編集者の頃だった。その頃に記者・編集者・社長・文筆家で当時64歳の夏彦翁が週刊新潮にコラムを書くようになった。
<1979/昭和54年『週刊新潮』に「夏彦の写真コラム」連載開始(初回は「かわいそうな美空ひばり」)>(WIKI)。以来、翁は小生の師匠になった。
先日、翁の息子、山本伊吾さん著「夏彦の影法師 手帳50冊の置土産」を再読していたら次の日記(1993年)紹介があり、びっくりした。( )内は伊吾氏の補足・解説。
<平成5年5月23日 古森義久、スーザン夫人と来る。28日のスピーチのため。チョコみやげに(産経新聞ワシントン支局長、古森さんが日本記者クラブ賞を受賞した。その授賞式が)
5月28日 古森祝うパーティ、出席。スピーチ社長のすぐあと、上出来。あとの客、皆々夫人をほめる珍しき会
(古森さんは、元毎日新聞の記者だった。ベトナムのサイゴン特派員をしていた時、ほとんどの新聞社が反米に染まっている中、ひとり日本中の大新聞を敵に回す報道を送り続けた。父はこう書く。
「大新聞は北ベトナムの味方で、北の兵士は共産軍だと承知しながら、人民解放軍といつわった。サイゴン陥落して北ベトナム正規軍、即ち共産軍が入場したのを見ても、まだ解放軍だと言った。戦前『日米防共協定』を結べと書けばデスクが喜ぶから書いた特派員に似ている。そしてあとで恥じないことも似ている」/「オーイどこ行くの」
しかし古森さんは一貫して独自の報道を送り続け、昭和57/1982年、産経新聞に招かれた。日本記者クラブ賞はその報道と姿勢を評価されてのものである。古森さん夫妻は、父に式のスピーチを頼みに来たのだ。
「六年前、私は古森のおそい結婚の披露宴に出た。アメリカは広い。日本で披露せよ、しなければ日本人の妻になったことにならないぞと厳しく言う古風な親があってのこの披露宴だと仄聞した。そのとき始めて私はスーザン夫人に会った。長身痩躯、夫人は緊張のあまり老けて見えた。無言でいつも亭主を立てているように見えた・・・
今回の受賞を祝う会に出るため、二人はワシントンから急遽上京して、私に会いたいという。これから訪ねるという。たまたま私は病を得て入院中だったが、枕もあがらぬほどではないので来てもらったが、スーザン夫人は六年前よりはるかに若くなっていた・・・聞けば去年、古森の八十を越えた母堂が亡くなる前後、スーザンはふた月余りつききりで姑の死水を取った」/同
遺された著しい手紙類の中に、父がスーザン夫人に宛てたものがある。父は手紙の下書きをすべて保管、遺していたのである。
「お手紙を読んで私はほとんど感動しました。私のスピーチを認めてくれたのは産経新聞の石井英夫ひとりでしたが、あなたがそのすみずみまで理解してくださっていると知ってこんな嬉しいことはありません・・・立派なアメリカ婦人を知ったこと、それが友人古森の細君であることを私は嬉しく思わずにはいられません」)>
古森義久氏と夏彦翁は友・・・知らなかったなあ。小生が古森氏を知ったのは1991年頃、若くして亡くなった産経記者の近藤紘一(1940-1986)の遺稿集「目撃者 近藤紘一全軌跡1971~1986より」を通じてだったと思う。同書の編集にあたった沢木耕太郎によると、「膨大な原稿の中からどれを選ぶかという作業を進める中で、近藤紘一の友人である古森義久氏には極めて大きな力添えをしていただいた」と編集後記に書いている。同書の近藤年譜によると近藤と同年代の古森(1941~)の交際は1963年から始まったようだ。
<1963/昭和38年/22歳 3月、早稲田大学仏文専修を首席で卒業。サンケイ新聞社入社。10月、毎日新聞・古森義久氏と知り合う。
1971/昭和46年/30歳 8月、サイゴン支局長として赴任。毎日新聞古森氏とも再会。
1984/昭和59年/43歳 6月、古森義久氏と共著「国際報道の現場から」刊行>
小生が古森氏の記事・論稿を知るようになったのは2003年頃から産経新聞を通じてだった。WIKIから抜粋する。
<古森義久(1941/昭和16年3月11日 - )は、日本のジャーナリスト。産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。
1941/昭和16年 東京府に生まれる。1963/昭和38年、慶應義塾大学経済学部を卒業後、ワシントン大学ジャーナリズム学科留学、毎日新聞社入社。毎日新聞記者として静岡支局、東京本社社会部、外信部を経る。
1972/昭和47年 南ベトナム、サイゴン特派員。1975/昭和50年 サイゴン支局長。1976/昭和51年 ベトナム戦争終結時のサイゴン陥落報道により、ボーン国際記者賞受賞 同年、ワシントン特派員
1978/昭和53年 著書「ベトナム報道1300日」により、講談社出版文化賞ノンフィクション賞受賞。1981/昭和56年 米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員
1982/昭和57年 「ライシャワー核持ち込み発言報道」により日本新聞協会賞受賞。1983年(昭和58年) 毎日新聞東京本社政治部編集委員。1987/昭和62年 外信部副部長 同年産経新聞に移籍、ロンドン支局長>
毎日新聞は1977年から1985年あたりまで会社再建で大変だったから、46歳、働き盛りの古森氏はリストラに応じたのだろう。以後は産経においてワシントン支局長、「ロンドン・ワシントンからの6年間にわたる国際報道」により日本記者クラブ賞受賞、中国総局長(31年ぶりに産経新聞北京支局再開)、ワシントン駐在客員特派員として82歳の今も健筆を振るっている。72歳の小生もそう在りたいものだ。
昨年、小生は古森氏と門田隆将氏の共著「米中“文明の衝突”崖っ淵に立つ日本の決断」を読んで、「古森氏は絶対的な自信がないと予測を公表しない記者・論者なのだなあ」と感心したが、以下の産経2023/1/22「古森義久 あめりかノート バイデン政権に衝撃波」は政権交代を示唆していた。
<バイデン米大統領がこの20日、就任から2年の折り返し点を越えた。この2年の実績の評価はコップに半分まで注がれた水の部分をみるか、空の部分をみるかで当然、異なる。この点、トランプ前大統領の政権との比較が意外と客観性があるかもしれない。
日本側でも最も気になる対外政策では、バイデン政権の「国際協調」をほめる向きが多いが、他方、ロシアのウクライナ侵略という戦争はトランプ政権下では起きなかった。米国の歴代政権が民主化に努めたアフガニスタンはバイデン氏による大混乱の撤退で完全な喪失となった。
中国の無法な膨張に初めて正面から対決したのはトランプ政権だった。バイデン政権もその基本を継ごうとはしているが、対中協力をも模索し、軍事面での対決を避けがちである。中国はその間隙を突くかのように台湾などへの軍事攻勢を強める。(以下要旨、敬称略)
トランプ政権下では北朝鮮はトランプとの接触を懇願し、核やミサイルの挑発をやめたこともあるが、バイデンに対しては傲慢な軍事挑発を続ける。イランも革命防衛隊の司令官を殺害したトランプ政権には牙を向けなかった。
バイデンの内政では記録破りの高インフレになった。不法入国者は急増している。機密文書の持ち出し疑惑もある。バイデンと繋がりのある大学が中国系企業から71億円の寄付を受けていたという「疑惑」もある。AP通信の世論調査では「米国は誤った方向へ進んでいる」が71%に達した。バイデンへのこの衝撃波が今後の国政をどう変えるか。
私自身は「米国政治の激変も基本は保守とリベラルの振り子のような攻守の揺れ」という認識だが、その認識が正しいかどうか、行方を眺めたい>(以上)
日本を経済封鎖して罠を仕掛け戦争に引きずり込んだFDRルーズベルト、原爆2発をオタメシで落としたトルーマン、ヘタレのクリントン、オバマ、バイデン・・・
小生が「隠れアカ」と嫌悪している米国民主党の上記大統領は日本にとって「禍」で、これからもそうだろう。共和党トランプと安倍氏はWinWinで実に馬が合った。産経はトランプ&安倍を大いに支持していたが、バイデン政権になるとトランプを蛇蝎のように貶めるようになった。
産経は次期大統領選にトランプが再選したら再びヨイショするのか? 強者や軽薄な流行に寄り添う事大主義、ダッチロール・・・産経購読者のコアは50代以上の保守独立派だと小生は思っているが、姿勢がブレまくっていると読者の信用をなくす、まあお仕舞だろう、と警戒警報を鳴らしておく。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」