日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

人として生きる核。

2016-08-03 21:55:44 | 発達応援
 早朝の積込みの仕事の段取りが変わって、3週間目。
変わった部分はほんの一部なのですが、
その分の体の使い方が変わり、初めて、右の腰の辺りが痛くなってきています。

 自宅で寝転がって、ああでもない、こうでもないと体を動かしていると、
右に比べると左側が、足も腕も背筋的な力も弱くて、
全てにおいて、右側だけでがんばり、踏ん張っているような体の使い方をしていることに気がつきました。

 左側をもっと使えるように意識してみようと思います。

 今年も以前勤めていた学校の教え子からの新米が届きました。
もう、3年も送り続けてくれていて、食べること、中でもお米が大好きな私は、
夏の暑いさなかにむっちり、もちもちな新米がいただけて、
食事のたびににんまりしています。

 送ってくれる教え子には、こんなにおいしい新米以上に送るものもないのですが、
その地では採れない果物や私が行った先でおいしかったものを送り、
その後、「おいしかったよ〜」「ありがとう〜」などというやり取りを続けています。

 初めてその子からの新米が送られてきたとき、超早場米を作っているその子の親御さんが、
転勤した私を気遣って送るようにその子に言ったのだろうと、私は思っていました。

 だから、お礼の電話をかけたときに親御さんが、
「○○が先生に送るって、言ってですね。自宅で食べる分でそんなにね…」と謙遜して言われるのをきいて、
米好きとして、新米が嬉しいし、おいしいし、と語ったのを覚えています。

 電話を切ってから、学校でも細やかに色々なことに気がついて、
気が利く子だったけれど、それはこういう細やかな思いやりにもつながっているのだなぁ、と
感心もし、嬉しくもなることでした。

 そして、まだ、中学生だったその子が、
毎日、離れて暮らすお婆さまに電話をかけて、ちょっとした話しをして、
それをお婆さまが楽しみにしてる、というようなことを親御さんが話していたのを思い出しました。

 学習の面では辛いこと、悔しい思いもした子でした。
でも、目の前の人たちが必要なことに気がつき動き、
目の前にはいない人たちのことにも思いを馳せる気働きのできる子でした。

 そんな気働きは、一朝一夕で形成されるものではありません。
きっと、その子が育った、まわりの大人がそういうことができる人たちで、
その子もそういうことができることを求められて厳しく育てられ、
また、その子自身もそういう目を養って育っていったのだと思います。

 今は就職して、はたらくその子は、
「仕事はきついときもあるけれど、やりがいもあります。がんばります」と、
短い言葉で伝えてくれたことがありました。

 学校のお勉強は、学校の中では大切だし、
それを足がかりに、知的好奇心を満たすためのステップアップにしていくことができます。
また、書店などでよく見かけるように「大人の中学数学」的な本があることが示すように、
本人がやりたければ、いくつになっても学校の勉強はできるものです。

 ただ、この子が見せてくれるような気働きは、
大人になって、急に本を読んで付け焼き刃的にできるものではなく、
小さい頃からの育ちや環境がものをいうもののように私は感じています。

 このような人としての核を持っている子は、生きていく上で本当に幸せだなぁと思います。
そういうふうに育てられた親御さんにも本当に頭が下がります。

 これから私が出会う子どもたちも、学習面はもちろんですが、
それぞれがそんな人として生きる核を持てくれるとよいなぁ、と思います。

コメント
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