週間天気予報の天気が、毎日晴れマーク。
毎日晴れで嬉しいです。
しかも、涼しい。
この前、バリ料理で都城に行ったときは、
帰りの山の中は、カナカナカナカナ~っと蝉が鳴いていました。
ミンミンゼミの声もまだ聞いていないのにな。
世の中では、定型の人々の犯罪や事故や活躍もまた、日々騒がれてはいますが、
発達障害の診断名やその他障害の診断名がついた人が、
活躍したり、反社会的なことをしたり、色々と騒がれることがあります。
学校で支援員をしていたとき、根性や気合いで乗越えさせようとする先生方に、
気合いと根性ではなく、脳の機能の問題として対応策を考えて欲しくて、
保護者の方に療育機関で診断をしてもらうことを勧めたこともありました。
しかし、療育機関では、たとえば、
「自閉症スペクトラムの可能性がないとは言いがたいけれども云々」とか
「もう少し、様子見ましょう」とかでグレーな感じをほのめかされるだけだったりします。
そうすると、保護者の方も「なんか、まぁ、なんもないしですね、いまのとこ」となるし、
学校の先生も「やっぱり、気合いが足りないんだって!やる気よ、やる気!」となってしまうし、
なんだかな、という思いがありました。
何かの犯罪を犯した人が、実はこうでした、と
療育機関で言われるような診断名がつくと、
毎回、世の中ではちょっと騒ぎになっていますね。
逆に、活躍している有名なタレントさんが、
実は、療育機関で言われるような診断名と同じような感じというのも、
なんか、ちょっと騒がれたりしますね。
今の私は、どちらもとても違和感があります。
過去には、私も診断名があれば、水戸黄門の印籠のように、
子どものできるやり方を模索する糸口にならないかな、とか
無駄な気合いと根性論で、頭ではなく手を鍛えるノート写しなんてしなくて済むんじゃないか、とか
考えていました。
でも、大事なのは、診断名ではなくて、
本人の資質なんだな、とここ2,3年くらいでやっと気がついてから、
診断名はどうでもよくなりました。
偏りがある子だと気がついたとき、
周りの大人がそれに気がつかないふりをせず、ごまかさずに向き合う。
本人の資質を伸ばす偏りならば、そこを足がかりに伸ばす方向に!
どうも、1歩間違うと犯罪の匂いがするぞ、と感じたら、
保護者に伝える、その考え方はおかしいと本人にしつこく話す。
その子の周辺の大人にも伝える。
普通の、とてもかわいらしい女の子ですが、
危うい稜線を歩んでいる子どもと出会ったことがあります。
内容は書けませんが、保護者も担任も私も、ことあるごとに、
「今を生きることの大切さ」「年齢を重ねていくことでの考え方の変化」
「あなたはとても大切な子どもなのよ」などなどなどなど、
しつこく、しつこく機会を捉えては話しをしたことがあります。
今、その子は元気に日々を楽しく(きっと!)生きています。
今でも、ふと、その子の危うさをふと、思い出すときがあります。
そんなときは、葉書を出したりしています。
以前、その子にしつこく話しをしたことを思い出してくれるといいな、と。
診断名があっても、なくても、本人のできることを増やしていくのが私の仕事。
診断名があっても、なくても、、それって変じゃん、おかしいよ!と思ったことは伝えるのが私の仕事。
診断名で付合うのではなく、その人自身と付合いたいですね。
で、せっかくお付合いするのだから、お互いにちゃんと向き合いたいな、と思います。
私には診断名は付いていませんが、とんちんかんなところがいっぱいあると思います。
幸せなことに「とんちんかんだね。」と言ってくれる友人にも恵まれています。
そんなに社交的ではないので、友人は多くないと思いますが、
私は、大満足で暮らしています。
診断名があろうとなかろうと、
「余は満足じゃ。」と一日の終わりには、ゆっくり眠れたらいいかな、と思います。
毎日晴れで嬉しいです。
しかも、涼しい。
この前、バリ料理で都城に行ったときは、
帰りの山の中は、カナカナカナカナ~っと蝉が鳴いていました。
ミンミンゼミの声もまだ聞いていないのにな。
世の中では、定型の人々の犯罪や事故や活躍もまた、日々騒がれてはいますが、
発達障害の診断名やその他障害の診断名がついた人が、
活躍したり、反社会的なことをしたり、色々と騒がれることがあります。
学校で支援員をしていたとき、根性や気合いで乗越えさせようとする先生方に、
気合いと根性ではなく、脳の機能の問題として対応策を考えて欲しくて、
保護者の方に療育機関で診断をしてもらうことを勧めたこともありました。
しかし、療育機関では、たとえば、
「自閉症スペクトラムの可能性がないとは言いがたいけれども云々」とか
「もう少し、様子見ましょう」とかでグレーな感じをほのめかされるだけだったりします。
そうすると、保護者の方も「なんか、まぁ、なんもないしですね、いまのとこ」となるし、
学校の先生も「やっぱり、気合いが足りないんだって!やる気よ、やる気!」となってしまうし、
なんだかな、という思いがありました。
何かの犯罪を犯した人が、実はこうでした、と
療育機関で言われるような診断名がつくと、
毎回、世の中ではちょっと騒ぎになっていますね。
逆に、活躍している有名なタレントさんが、
実は、療育機関で言われるような診断名と同じような感じというのも、
なんか、ちょっと騒がれたりしますね。
今の私は、どちらもとても違和感があります。
過去には、私も診断名があれば、水戸黄門の印籠のように、
子どものできるやり方を模索する糸口にならないかな、とか
無駄な気合いと根性論で、頭ではなく手を鍛えるノート写しなんてしなくて済むんじゃないか、とか
考えていました。
でも、大事なのは、診断名ではなくて、
本人の資質なんだな、とここ2,3年くらいでやっと気がついてから、
診断名はどうでもよくなりました。
偏りがある子だと気がついたとき、
周りの大人がそれに気がつかないふりをせず、ごまかさずに向き合う。
本人の資質を伸ばす偏りならば、そこを足がかりに伸ばす方向に!
どうも、1歩間違うと犯罪の匂いがするぞ、と感じたら、
保護者に伝える、その考え方はおかしいと本人にしつこく話す。
その子の周辺の大人にも伝える。
普通の、とてもかわいらしい女の子ですが、
危うい稜線を歩んでいる子どもと出会ったことがあります。
内容は書けませんが、保護者も担任も私も、ことあるごとに、
「今を生きることの大切さ」「年齢を重ねていくことでの考え方の変化」
「あなたはとても大切な子どもなのよ」などなどなどなど、
しつこく、しつこく機会を捉えては話しをしたことがあります。
今、その子は元気に日々を楽しく(きっと!)生きています。
今でも、ふと、その子の危うさをふと、思い出すときがあります。
そんなときは、葉書を出したりしています。
以前、その子にしつこく話しをしたことを思い出してくれるといいな、と。
診断名があっても、なくても、本人のできることを増やしていくのが私の仕事。
診断名があっても、なくても、、それって変じゃん、おかしいよ!と思ったことは伝えるのが私の仕事。
診断名で付合うのではなく、その人自身と付合いたいですね。
で、せっかくお付合いするのだから、お互いにちゃんと向き合いたいな、と思います。
私には診断名は付いていませんが、とんちんかんなところがいっぱいあると思います。
幸せなことに「とんちんかんだね。」と言ってくれる友人にも恵まれています。
そんなに社交的ではないので、友人は多くないと思いますが、
私は、大満足で暮らしています。
診断名があろうとなかろうと、
「余は満足じゃ。」と一日の終わりには、ゆっくり眠れたらいいかな、と思います。