日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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成績はぼちぼちでした俳句会

2016年11月06日 08時31分10秒 | 日記
 もう10年以上も前のことになりますが私は秋山白兎(ハクト)という俳号で日本伝統俳句協会のネット句会に参加していました。

 これが意外に成績が良くて初心者の私にとってはすごくうれしくて句作に励んだものでした。そのころの作品はホームページ『秋山白兎俳句館』に掲載してあります。

 今回、友人の芸術家・おじゃらりんごさんにお願いして墨書していただきましたのでご披露します。



【日本伝統俳句協会19年2月・坊城俊樹氏選】



【日本伝統俳句協会・山本素竹氏選評】

 誰を待つかによって読者の楽しみ方がかなり変ってくるのですが、それは置いといて。
花とは関係のない待ち合わせのようです。その場所にたまたま夕桜。本来なら人を待ったりするのは好みませんが、今日はできるだけ遅れてきてもらいたいくらい…。人を待つという揺れる心を通して、夕桜が美しく描かれています。
 片とき…と軽く、楽し…と言わず愉し、そして夕桜でなく…夕ざくら…。気持の行き届いた句です。ベテランと思いますが、いやみのない叙しぶりに好感が持てます。ステキな女性が目に浮かびます。 



【日本伝統俳句協会19年8月山田弘子氏選】



【日本伝統俳句協会20年5月・奥村里氏選】



【日本伝統俳句協会・岩岡中正氏選評】

 風鈴にかすかな風が来てふれたという、きわめて繊細な情景なのだが、表現は、その思いの丈(たけ)を一気に吐露して力強いものがある。「誰が魂魄ぞ」に切々たる思いがこもっていて、作者の脳裏には誰か具体的に忘れ得ぬ故人や遠方の人がいるにちがいない。その思いの丈は、風鈴「に」と軽く抑えて、「触るゝは」と静かに展開して、「誰が魂魄ぞ」と高らかに宣言する、一句のドラマティックなしらべにも十分現われている。思いが深ければ、しらべもおのずと、これに沿うものなのである。
 この句の楽しさは、従来の「風鈴」の季題一般の趣きを、さらに拡大した点にある。つまり、これまで「風鈴」といえば軒端に吊って季節感を楽しむところに情趣の中心があったが、この句では、風鈴の風を通して思う人の魂が伝わるという、一種のコミュニケーションとしての風鈴の情が詠まれている。
 季題の幅を広く広く試みることがいま必要であり、これこそが写生の本義である。それにしても、この句の「触るゝは誰が魂魄ぞ」と言い放つ元気と若々しさを、心からうらやましいと思う。



【日本伝統俳句協会・大輪靖宏氏選】



【日本伝統俳句協会・栗林眞知子氏選】


日本伝統俳句協会はその後、ネット句会を閉鎖してしまったので残念です。最近では現代俳句協会に入会していますが成績は極めて低調です。
コメント (2)
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