日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

とろろ汁 自然薯擂って 作ります

2016年11月22日 17時25分14秒 | グルメ
 鞠子宿(まりこしゅく、まりこじゅく)は、東海道五十三次の20番目の宿場である。丸子とも書く。現在の静岡県静岡市駿河区丸子。

 東海道中でもっとも小さい宿場。天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったという。となりの岡部宿(藤枝市)との間の宇津ノ谷(静岡市駿河区)には昔の街並が残る。また、付近には源氏・今川氏・徳川氏ゆかりの史跡がのこる。名物はとろろ汁で、広重が描いた「丁子屋」で現在も食することができる。広重の鞠子宿の浮世絵はクロード・モネの連作「積みわら」に構図やグラデーションの使い方など影響を与えた。

 丁子屋の歴史は、今から400年ほど前の慶長元年にさかのぼれる。東海道五十三次の20番目の宿場「丸子宿」として栄えたこの地は、自然薯が成育して薬や食料として用いられ地元の人々の栄養源となっていた。



 1596年(慶長元年)この宿場町の茶屋として丁子屋平吉が【丁子屋】を開いた時から現在の当主13代目、柴山馨氏まで伝統の味は受け継がれてきた。店内は安藤広重の大作「東海道五十三次」が並ぶ大広間「広重」をはじめ、ゆかりのある人物の名前をつけた和室が広がる。看板料理は土つくりからこだわった、自然薯を使った滋味豊かな『とろろ汁』である。

 松尾芭蕉の『梅若菜丸子の宿のとろろ汁』の句は元禄4年正月、江戸に出発する門人乙州に与えた餞<はなむけ>の吟。この句を、発句として歌仙が巻かれた。句意は新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ汁もおいしい季節を迎えていることだろう。

 乙州の旅立ちへの激励が込められた餞の吟。餞別吟として古来最高の句ではないだろうか。土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「工みて云へる句にあらず。ふといひて、宣しとあとにてしりたる句なり。梅、若菜と興じて、鞠子の宿には、といひはなして当てたる一体なり」と記されている。作者自身もどうしてこの句が脳裏に湧いたか分からないと言いたいようである。

 山芋の葉が黄葉してそろそろ自然薯掘りの季節になった。私が元気だったころには自然薯掘りやとろろ汁を作ることを最も得意としていたのである。

安倍川の餅は石部屋吉五郎

2016年11月22日 16時09分55秒 | 日記
 私が住んでいる静岡市葵区桜町というところは安倍川の河口から丁度八キロ上流の左岸に位置する。蛇足だが川の左岸というのは上流から下流を見て左側ということである。

 安倍川は山梨と静岡の県境、大谷嶺、八紘嶺に源を発し、途中で安倍山脈(富士川との分水嶺)と白峯山脈(大井川との分水嶺)から流れ出る多くの中小河川と合流して駿河湾へと注ぐ全長五三キロメートル余りの一級河川である。川の長さに比べて標高差が大きいこの川は姫川や常願寺川に続く日本屈指の急流でもある。流域に人口密集地が無く、水系に一基の貯水ダムも無いので水質も良く清流として常に高ランクに評価されている。

 源流の一つ大谷嶺(標高二〇〇〇m)の南斜面は「大谷崩れ」と呼ばれ、長野県小谷村の「稗田山崩れ」、富山県立山連峰の「鳶山崩れ」とともに日本三大崩れと言われる大規模な崩壊地である。

 静岡市街は安倍川のデルタ地帯に開けた都市で「登呂遺跡」は弥生時代の大規模な稲作遺跡であり、万葉集の歌に残る「安倍の市」の昔から交易や交通の要衝として栄えた歴史を持っている。そして、安倍川や静岡のことはよく知らないまでも「安倍川餅」の名によって広く人口に膾炙しているのである。

 安倍川餅は、「名物に美味いものなし」などという俚諺を吹き飛ばすほどに味が良く、諸国の名物番付ではいつも大関格の名物であった。

 安倍川餅の由来は口碑によれば遠く慶長の昔にさかのぼる。徳川家康公が天下の権を握ったのち、駿府城にあって幕府三〇〇年の基を築いた時代、家康公は安倍郡井川村笹山金山を御用金山とし、海野弥兵衛を奉行として盛んに金鉱を採掘させた。この山は大日嶺に連なる高山で、山中に小屋を建て、何千人となく坑夫を送り込み、数年間働かせたので、坑夫を慰めるため駿府二丁町の遊女を出稼ぎさせたほどである。笹山金山からは四斗樽三〇〇杯ほどの収穫を得たが、あるとき家康公がこの鉱山を検分に出向いた際、ある男が餅を搗き、豆の粉を塗して献上した。食べてみると非常に美味かったので大層喜んで、献上した男を招き寄せ、餅の製法を訊ねたところ、その男は、「この餅は当金山から産出する金の粉が、安倍川へ流れるのを掬い上げ、餅にまぶして作るので、金な粉餅と申します」と即座に答えたので、家康公はその奇知を賞し、男に褒美を与え、改めて安倍川餅と命名したと伝えられる。

 また一説に、慶長のころ、弥勒町にあった弥勒院の山伏が、ふとしたことから駿府二丁町の遊女に迷い、とうとう法師の勘気をうけて破門されたので、還俗して源右衛門と称し、安倍川原で餅をひさいだのが初めだとも伝えられている。

 しかし、安倍川餅の起源の本当のところは五郎右衛門餅であろうとされている。五郎右衛門餅は安倍川向こうの鞠子にあったもので、附近の東新田の米で作り、なかなか風味がよかった。公卿衆なども江戸下向の往き還りには必ず五郎右衛門方へ立ち寄って餅を食べ、京にも稀な美味い味であると讃めたという。


現在の安倍川餅、つまり黄な粉に砂糖を添えたものは、殖産を奨励した八代将軍吉宗公の頃に駿府近郊でも砂糖黍の栽培が盛んになってからだとされ、吉宗公も安倍川餅をことのほか好んだそうである。

 因みに、現在も弥勒町にある安倍川餅の老舗「石部屋」の創業は文化元年(一八〇四年)であり徳川十一代将軍家斉の治世である。

 蛇足であるが、石部屋吉五郎こと橋本岩吉は文化11年(1814年)生まれ、安東屋辰五郎の若衆で28人衆の一人、安東一家貸元であったことが知られている。この吉五郎は多分二代目ではないかと思われます。