<
建穂神社(たきょうじんじゃ)。祭神:保食神。
場所:静岡市葵区建穂271。
国道362号線(通称:藁科街道)沿い、「陽光堂」(株式会社西村商店)という仏具店のところの交差点を北に入る。交差点から直進、約800m。この道が当神社参道で、社殿は正面にある。
社号の「建穂」は、タケホともタキョウとも読むらしいが社前案内板の「建穂寺」の説明には、「タキョウ」と書かれていた。
かつては、馬鳴(まなり)大明神とも称されていた神社。
元は、藁科川に近い羽鳥の明神森に鎮座していたともいい『式内社調査報告』では、羽鳥の宮は、当社の里宮であり、現社地の宮は、奥宮ではないかという。
当地には、天平年間に建穂寺が建てられており、建穂寺が当社の別当であったとも考えられ、寺社一体の信仰形態であったのだろうと思われる。
当神社の創建時期は不明。当神社については、長く神仏混淆が続き、「建穂寺」抜きには語ることができない。元々、この地区は帰化人秦氏の一団が入植し、特に養蚕や機織に深い関わりがある土地であった。現在、「建穂」の南は「羽鳥(はとり)」という町名になっているが、本来は「服織」で、小中学校や郵便局にはその名が残っている。「類聚国史」(寛平4年(892年)成立)によれば、天平7年(735年)に藤原武智麻呂(不比等の長子で、藤原南家の祖)が私田5町歩を建穂寺馬鳴大明神に寄進したとあり、貞観元年(859年)には建穂馬鳴神社に正五位下が授けられた、という記事があるという。延喜式神名帳(延長5年(927年)成立)では、単に「建穂神社」となっているが、いずれも同じ神社とみられている。
秦氏が信奉したのが「馬鳴明神」とも「馬鳴菩薩」ともいう養蚕機織の神で、そこには神仏を分ける意識はあまり無かっただろうと思われる。「馬鳴(めみょう)菩薩」は、古代(2世紀頃?)インドの仏教僧侶で、説法が巧みであった。カニシカ王が深く帰依し、インド以外への周辺諸国に仏教が広がる契機ともなった。王の命により、飢えさせた馬に対して説法したところ、馬でさえ、餌を食べるのも忘れて説法に聴き入ったといい、馬が法を解したときにあげた声から「馬鳴」と呼ばれたともいう。しかし、これでは養蚕機織との関係が明らかでない。実は、馬と蚕が結びついたのは中国においてであり、詳述はできないが、日本の「オシラ様」のような伝説が中国にあり(「捜神記」など)、中国の俗信として「馬鳴神」は養蚕機織の神となったらしい。仏像としての「馬鳴神(菩薩)」は、二臂または六臂で、桑の木の枝や生糸の束を握り、白馬に乗っている形に作られる。そこでは、(超人的ではあるが)生身の人間ではなくなり、神として祀られることになったのである。
こうして、当神社も、神仏渾然一体とした社であったはずが、仏教の隆盛とともに「神」の部分が次第に衰退していった。しかし、「吾妻鏡」(1300年頃?成立)の承元4年(1210年)の条に、駿河国建穂寺の鎮守である馬鳴大明神が戦乱を予言したという記事が見え、都にもその名は知られていたようである。
建穂神社(たきょうじんじゃ)。祭神:保食神。
場所:静岡市葵区建穂271。
国道362号線(通称:藁科街道)沿い、「陽光堂」(株式会社西村商店)という仏具店のところの交差点を北に入る。交差点から直進、約800m。この道が当神社参道で、社殿は正面にある。
社号の「建穂」は、タケホともタキョウとも読むらしいが社前案内板の「建穂寺」の説明には、「タキョウ」と書かれていた。
かつては、馬鳴(まなり)大明神とも称されていた神社。
元は、藁科川に近い羽鳥の明神森に鎮座していたともいい『式内社調査報告』では、羽鳥の宮は、当社の里宮であり、現社地の宮は、奥宮ではないかという。
当地には、天平年間に建穂寺が建てられており、建穂寺が当社の別当であったとも考えられ、寺社一体の信仰形態であったのだろうと思われる。
当神社の創建時期は不明。当神社については、長く神仏混淆が続き、「建穂寺」抜きには語ることができない。元々、この地区は帰化人秦氏の一団が入植し、特に養蚕や機織に深い関わりがある土地であった。現在、「建穂」の南は「羽鳥(はとり)」という町名になっているが、本来は「服織」で、小中学校や郵便局にはその名が残っている。「類聚国史」(寛平4年(892年)成立)によれば、天平7年(735年)に藤原武智麻呂(不比等の長子で、藤原南家の祖)が私田5町歩を建穂寺馬鳴大明神に寄進したとあり、貞観元年(859年)には建穂馬鳴神社に正五位下が授けられた、という記事があるという。延喜式神名帳(延長5年(927年)成立)では、単に「建穂神社」となっているが、いずれも同じ神社とみられている。
秦氏が信奉したのが「馬鳴明神」とも「馬鳴菩薩」ともいう養蚕機織の神で、そこには神仏を分ける意識はあまり無かっただろうと思われる。「馬鳴(めみょう)菩薩」は、古代(2世紀頃?)インドの仏教僧侶で、説法が巧みであった。カニシカ王が深く帰依し、インド以外への周辺諸国に仏教が広がる契機ともなった。王の命により、飢えさせた馬に対して説法したところ、馬でさえ、餌を食べるのも忘れて説法に聴き入ったといい、馬が法を解したときにあげた声から「馬鳴」と呼ばれたともいう。しかし、これでは養蚕機織との関係が明らかでない。実は、馬と蚕が結びついたのは中国においてであり、詳述はできないが、日本の「オシラ様」のような伝説が中国にあり(「捜神記」など)、中国の俗信として「馬鳴神」は養蚕機織の神となったらしい。仏像としての「馬鳴神(菩薩)」は、二臂または六臂で、桑の木の枝や生糸の束を握り、白馬に乗っている形に作られる。そこでは、(超人的ではあるが)生身の人間ではなくなり、神として祀られることになったのである。
こうして、当神社も、神仏渾然一体とした社であったはずが、仏教の隆盛とともに「神」の部分が次第に衰退していった。しかし、「吾妻鏡」(1300年頃?成立)の承元4年(1210年)の条に、駿河国建穂寺の鎮守である馬鳴大明神が戦乱を予言したという記事が見え、都にもその名は知られていたようである。