太陽黒点の数は年により増えたり減ったりするが、それにはほぼ11年の周期がある事を発見したのはドイツのジュワーペである。19世紀の前半のことである。その後、イギリスの天文学者ウオルト・マウンダーは黒点活動をくわしく調査し、1645-1715年までの70年間にこれが異常に低下していることを明らかにした。この時期が、いわゆる中世のマウンダー極小期(ミニマム)と呼ばれるものである。通常であれば4-5万個も見られるはずの黒点の数がわずか30個しかみられなかった。
この期間、地球は全般に寒冷な気候に見舞われた。ヨーロッパ、北米大陸や他の温帯地域の冬は酷寒で夏も冷夏が続いた。黒点の減少は太陽活動の低下を表すが、これにともなって太陽風と磁場が弱まる。地球には宇宙放射線が降りそそいでおり、それが雲核を形成する。太陽風はこの宇宙放射線を吹き飛ばす役目をしている。太陽風の低下は、結果として地球の雲の量を増加し気温を低下させる。これが太陽黒点の少ない時期は気候が寒冷で湿潤な理由である。それ故に、この期間は「中世の小氷期」と呼ばれている。
マウンダーミニマムは、気候の寒冷化とともに当時のヨーロッパにとんでもない試練を与えることになった。ペストの流行である。黒死病と呼ばれたこの病気が都市を中心に蔓延してヨーロッパの人口は半減したといわれる。何故ペストが流行したのか?その原因は、太陽活動の低下による寒冷化と湿潤な気候により穀物の収穫が激減しネズミが餌を求めて都市部に入り込み、ノミを媒介にしてペストをはやらしたからである。
この中世の小氷期において、人々は暖房のために森林を乱伐したので木材が枯渇した。そのために代替エネルギーとしての石炭の採掘と利用がさかんになされるようになった。まさに必要は発明の母といえる。これによりイギリスにおける産業革命の基盤の一つが成立したのである。
この話をまとめると、太陽活動の低下→黒点の減少→太陽風と磁場の低下→地球の宇宙放射線の増加→雲の増加→地上平均気温の低下→作物収穫の減少と森林破壊→ネズミの移動→ペストの流行と中世社会の崩壊→農村から都市への人口移動と石炭の利用→産業革命→現代文明の興隆となる。なんだか「風が吹けば桶屋がもうかる」といった話のようだが、いずれもまともな学説として出されている。
人類の歴史において気候が社会の仕組みをかえた例は多い。太陽活動は約200年の周期で変動しているといわれる(ただそれほどはっきりした周期ではない)。いつか来るであろう極小期における世界の経済や政治に及ぼす影響はいまのところ予想できない。ただ地球温暖化よりも深刻であることは確かだ。この場合、冬場はいたるところ凍りついた世界となる。
補遺:中世の寒冷期の一方で、「中世の温暖期」(Medieval Warm Period)というのもある。これは、およそ10世紀から14世紀にかけて続いたヨーロッパが温暖だった時期を指す。この時期にはイングランドの南部地方でもブドウ畠が広がり、グリーンランドは文字どうり「緑の島」であった。一方、モンスーン地方では洪水や干ばつが続いた。地球の気候というのは安定したものではなく平均気温も上がったり下がったりしていた。この一世紀の温度上昇の一部はCO2によることは間違いないが、それが主因かどうかは確かでないと思える。
参考図書
坂田俊文 『太陽を解読する』 ー環境問題の死角を探る 情報センター出版局 1991年
桜井邦明 『夏が来なかった時代-歴史を動かした気候変動』 吉川弘文社 2003
追記(2022/02/24)
太陽活動と疾病との関係を研究したのはソ連時代のロシア人アレキサンダー・レオニドビチ・チジェフスキイであった。彼は地上の生態的現象の多くを太陽黒点の出現周期(11年周期)と関連ずけて論じた。彼の研究には「とんでもない科学」にかたずけられる話ようなもあったが(例えば赤血球の連銭状態)、因果律に合理的な説明がされる現象もみられた。彼の業績は、フェリックス・ジーゲリ著「太陽のバイオリズム」(東京図書:浦川よう子1976)に詳しく述べられている。