バートランド・ラッセル 『人類に未来はあるか』日高一輝訳 理想社刊 1962年
20世紀において人類が総体として危機におちいった大事件が二つある。一つは1918年のスパニッシュインフルエンザ(スペイン風邪)によるパンデミックである。当時、世界人口は約20億弱であったが、5000万から1億人もの人がこれのために亡くなったとされる。推計値に大きな差があるは、アフリカや中国での正確な統計がとられていないためである。いづれにせよ第一次世界大戦 (1914-18)の全犠牲者が戦闘員と民間人あわせて約3700万人といわれているので、これをはるかにこえる数の犠牲者であった。
当時の日本では、人口5500万人に対して約39万人が死亡した。都市部だけでなく農村部でも大きな被害を生じた。北国新聞 (1918年11月21日)は「感冒の為一村全滅」というタイトルで、福井県大野郡穴馬村の約1000人中970人が罹患し死亡者70人と報じている。京都では第三校等学校校長であった折田彦市先生がこれに罹って亡くなっている。
スパニッシュインフルエンザの発生(正確な場所は不明)は自然生態的なものであったが、感染の蔓延には世界大戦という背景があった。感染したアメリカ軍の兵士が船で運ばれ、一緒にウィルスを世界に広げた。1年間でドイツ兵によって殺されたアメリカ兵の何倍もの人数をたった2ヶ月で失った。これはドイツ軍も同様であった。
季節性インフルエンザは老齢者や幼い子供をターゲットにするのに、このときのパンデミックでは、青年の方が罹りやすくまた重症化しやすかった。その頃の生命保険会社のデーターによると、犠牲者の平均年齢は33歳であった。
青年に取り付きやすいウィルスがたまたま発生したのではなく、そうなる必然性があった。大戦中で多数の若者が徴兵されて兵舎や塹壕に詰め込まれていた。すなわち、非衛生的でストレスが多い環境にいた兵士をウィルスは襲った。変異したウィルスで青年に「適応」したものが、そこで爆発的に感染を広げたのである。
この100年前の惨劇は歴史の教科書にはあまり取り上げられていない。アルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房)には「忘れられたパッデミック」という副題がついている。この作者は「人の記憶というもの-その奇妙さについて」という1章題をもうけて、これについて議論しているがすっきりした理由は出てこない。
医療の進歩により、このような事態は再びおこるまいとする慢心があったのだろう。しかし今回の新型インフルエンザ(COVID-19)のパンデミックで、そんな楽観論も打ち砕かれてしまった。
20世紀2度目の全人類的なクライシスは1962年のキューバ危機である。これは前のと違って純粋に政治的な事件であった。
1962年ソ連のフルシチョフがキューバに核ミサイル基地を建設した。それを察知したアメリカ合衆国ケネディ大統領はカリブ海でキューバの海上封鎖を実施し、核戦争の瀬戸際になった。極限の緊張が高まった時に、ソ連の輸送船団は引っ返して世界の破局は間逃れた。庵主はその頃高校生であったが、この日学校で級友と「一体どうなるのだろうか?」と不安げに話しあった記憶がある。
ウィキペディア(Wikipedia)の「キューバ危機」の項目を参考にしてもらうと、この危機の間に両陣営で何度も核兵器の発射ボタンが押されそうになったことがわかる。しかし、この事件の詳細は一般に知られず、また比較的短期間に収束したので、いまでは単なる歴史的なエピソードとして忘れかけらえている。
この事件を予見するようにして出版されたのがラッセルの掲書『人類に未来はあるか?』だ。
バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者、論理学者、数学者、平和運動家である。1950年にノーベル文学賞を受賞している。1955年に核廃絶をうったえる「ラッセル-アインシュタイン宣言」を発表した。以下この著からの抜粋。
『人類は、飢餓、洪水、火山の噴火といったような、たたかうべき危険をもっていた。(中略)そして人類は、こういった危難から抜け出す際、本能的なそして感情的な性格を一緒に新世界に持ち込んだ。それによって人類は前代を生きのびたのである。彼らは生き延びるために、非常な強靭さと情熱的な決心を必要としたものである。彼らはぬけめのない用心、油断のない気づかい、そして危機に際してはそれに立ち向かう勇気とを必要とした。そしてその過去の危難を克服してしまったあとで、彼らはその身につけた習慣と情熱をどのように処理しようとしたか?彼らは解決策を見いだしたが、それは不運にも幸福なものではなかった。彼らは、従来、ライオンや虎に向けていた敵意と嫌疑をその人類の仲間に向けたのである』
ようするに、人類は自然の脅威に対する闘いの本能を他の人類にも向けてきたというのである。このラッセルの語りと現在進行中のCOVID-19によるパンデミックと関連づけてみよう。
各国政府の必死の努力にかかわらず、これに罹る人が罹り、死ぬ人が死んでいつかパンデミックは終焉するであろう。そして全世界で何万何十万(考えたくないが)という犠牲者が出て、残された遺族の怨嗟の声と責任を問う声にあふれるであろう。経済も社会もズタズタにされた多くの国では凶暴なナショナリズムを生むであろう。
これの予兆はすでにある。欧米諸国における、東洋人に対する感情的な差別や迫害が報じられている。コロナウィルスの起源と出所に関して、米国と中国の高官政治家レベルで非難合戦がはじまっている。それぞれの理性が勝利し、これが軍事的なクライシスに発展しないことを庵主は祈る。もし万が一、”米中コロナ戦争”が突発したら、一番に破滅的な戦場になるのは、台湾、韓国、日本であることは地政学的に明らかである。
追記1)(2020/04/02)
ラッセルはアルフレッド・ホワイトヘッドと『プリンピキア・マティマティカ』(1910-1913)を著したことで知られている。この書は1 + 1=2であることを証明するのに379頁を使用している。
ブライアン・クレッグ(「世界を変えた150の科学の本」:石黒千秋訳、 2020、創元社)