志賀直哉の「暗夜行路」は読んでも、つまらない私小説である。生活力のない時任謙作のとりとめのない日常と、どうでもよい出来事が、ダラダラと続く。人の関係テーマが男女間の「性」だけに絞られており、当時の高等遊民的な文人たちに受けても、我々庶民にはまったく感激のないお話である。
ただ、最後のほうで、謙作が大山登山の最中に倒れ、気をうしないそうになって、カタルシス状態になるシーンだけが、この小説の中で印象的な白眉といえる。この小説はここだけと云ってよい。以下抜粋。
「謙作は疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のようで、眼に感じられないものであるが、その中に溶けてゆく、それに還元される感じが言葉に表現できない程の心地よさであった。なんの不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。大きな自然に溶け込む感じは必ずしも初めての経験ではなかった。一方、実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然の溶込む感じは、必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。
静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全くみえず、見えるものといえば星、その下に何か大きな動物の背のような感じのする北山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、若し死ぬなら此儘死んでも少しも怨むところはないと思った。
彼は膝に肘を着いたまま、どれだけの間か眠ったらしく、不図、眼を開いた時に何時か、あたりは青味勝ちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少なくなっていた。柔らかい空の青味を、彼は慈愛を含んだ色だと云う風に感じた。山裾の靄は晴れ、麓の村々の電燈が、まだらに眺められた。米子の灯も見えた。遠く夜見が浜の突先にある境港の灯も見えた」
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