2010年6月13日(日曜日)
昨日とは打って変わって、気温がさがり、
午後からは予報どおり、雨がぱらつき始めた・・・
夕方には半袖では肌寒いぐらいの気温になり、
風も強くなってきた。
低気圧が上空を覆うと、体調がとたんに悪くなる・・・
頭痛に悩まされ、体がだるくて、力も入らない。
明日の朝までに頭痛が治まっていますように・・・
さて先週の火曜日から中日新聞で
「介護社会のこれから~上野千鶴子さんに聞く」の
連載が始まったけれど、WEBには見当たらない・・・
かわり(?)に載っていたのが
「上野千鶴子さんロングインタビュー」
これをまとめたのが紙面の記事になっていた。
ぜんぶアップすると1万字を超えるので
2回に分けて掲載します。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/kaigo/list/201006/CK2010060702100012.html
世界的にも例のない超高齢社会に突入した日本社会。
介護をめぐる問題には、人と人とのきずなが薄れた
日本社会のありようが、根底にある。
今、過去から何を学び、新たなきずなを
どこに求めればよいのか。
「介護社会」を築くための道筋を
「おひとりさまの老後」著者の東京大教授、
上野千鶴子さんに尋ねた。
(聞き手・秦融、後藤厚三)
発言は▽が上野さん、▼が本紙
▼なぜ家族間の介護をめぐる殺人・心中事件が
増え続けているのか。
▽まず、現在のお年寄りは非常に問題を抱えている。
これまでの高齢者は家族依存のなかで老後を迎えてきた。
ところが本人の予想を超える超高齢化が進み、
今は予期しない長期の老後と要介護期間を迎えている。
昔も高齢者問題はあったと言われるが、
量、質とももっと少なかった。
これほどまでに介護期間が長期化したのは、
医療、衛生、栄養、介護の水準が上がったから。
超高齢化が本人の予想を裏切るほどだった。
これが第一。
次に、1980年代までは、日本は
「家族は福祉の含み資産」と言われてきた。
年金制度等が確立するまでは、
高齢者は家族に経済的に依存しており、
別居していても仕送りに頼ってきた。
現在は家族依存度が高いにもかかわらず、
家族のキャパシティーが非常に小さくなっている。
理由はまず子どもの数が少ない。
そして家族の安定性も著しく損なわれた。
結婚も一生ものではなくなった。
子世代そのものも高齢化しており、
子どもが生きているとは限らない。
▼いわゆる逆縁。
▽そう。高齢逆縁ともいう。
首都圏近郊の高齢者を調査したデータでは、
生存子がいる高齢者は全体の5割を切っている。
今の高齢世代は、自分たちは多産少死、
生んだ子どもは少産少死という時代の転換点にいる。
この調査によれば、高齢者が頻繁に往来している相手は、
子どもが生きていれば子どもの家族、
息子よりは娘の家族。
子どもがいない人は兄弟姉妹。
何が分かるかというと、今の高齢者の人間関係が、
親族関係の中で閉じているということ。
今後、家族はますます脆弱(ぜいじゃく)に
なっていくのに、家族に代わる代替ネットワークがない。
ここに一番の問題がある。
かつては家族のないお年寄りが一番不幸だった。
「おひとりさま」の老後は悲惨だった。
措置時代の高齢者福祉は、家族からはみ出したり、
不幸にして家族を失った高齢者が対象だった。
家族がいれば行政は何の手も打たなかった。
▼家族の安定性が損なわれている、という点を詳しく。
▽婚姻の安定性がなくなり、結婚がかつてのように
一生ものではなくなったということ。
2005年の国勢調査によると、配偶者がいる
男性の割合は60代後半がピーク。
死別の可能性が高まる70代に低下するのは分かる。
ところが60代より下の世代でも
男性有配偶率は低下している。
40代男性非婚者の4人に1人、30代の非婚者の
3人に1人は生涯結婚せずにいるだろうと予測されている。
離婚率だけでなく、結婚しない「非婚率」が
上がっているからだ。
家族頼みの福祉が、高齢者側の「超高齢化」と
家族側の「家族の脆弱化」という二つの事情で
持ちこたえられなくなった。
追い詰められた人たちが「姥(うば)捨て」
「介護殺人」に至る事情は、責められない。
▼戦後の家族の解体が背景にあるか。
▽2点申し上げたい。
「かつて家族の介護力が高かった」というのは
神話でしかない。
これは多くの専門家の共通認識だ。
そもそも昔はお年寄りが今のように長生きできなかった。
高齢期を迎えるお年寄りがこれほど多くなかった。
これが第一。
それから、要介護期間がもっと短かった。
昔は介護水準も低く「床ずれをつくらない介護」
なんてなかった。
感染症で簡単に亡くなった。
「昔は良かった」なんて、安易に言ってもらっては困る。
▼現実に対応していかなければならない。
▽そう。家族研究の経験から、
はっきり分かったことがある。
危機が起きたとき、家族は結束するより
壊れる傾向がより強い。
家族の結束が美談になるのは、
それがめったにないことだからだ。
変わってしまった社会や家族の現実から
目を背けてはいけない。
冷静に認識して対応策を考えていくしか、解決の道はない。
◇ ◇ ◇
▼介護保険を「家族革命」とおっしゃっている。
▽10年前に介護保険制度が生まれたのは、
こうした流れの中で非常に大きな意味を持つ。
私はこの介護保険が実現したことを「家族革命」が
起きたと言ってきた。
「介護は家族の責任」という常識にずっと支配され、
寝たきりの高齢者を世間の目から隠すような社会で、
「介護は家族だけの責任ではない、
第3者の手を借りていい、高齢者福祉には
公的な責任がある」ということを、
国民的に合意することでこの制度ができたからだ。
これを革命と言わずして何だろうか。
その革命を快く思わなかった保守派の人たちが
たくさんいることは分かっていた。
今でもたくさんいらっしゃるだろう。
ただ、意識は現実の変化にあとから追いついた。
介護保険のスタート当時、訪問ヘルパーは
「家の前に車を止めるな」と言われたものだ。
介護の人手を家に入れるのは恥だという意識があったから。
今はどうだろう。この10年で人々の意識は確実に変わった。
もう一つ、介護保険の前に年金制度の確立があったが、
これが日本の親子関係を変えたと思う。
なぜかというと、稼得能力を失った高齢者はこれまで、
子どもの家計に統合されるか、
仕送りに依存するしかなかったから。
私は年金のことを「社会的仕送り」と呼んでいる。
個人的仕送りが社会的仕送りに変わった。
ポケットは同じ息子の税金であっても
公的なお金として再分配され、
それがお年寄りの所得になる。
自分のおカネがあれば、年寄りが孫に小遣いを
あげることもできる。
高齢者の同居世帯で、世帯分離が起きていない
場合でも、年金の効果で家計分離はすごく進んでいる。
ポケットは複数になっている。
▼年金制度が先行した。
▽問題は、無年金、低年金者の多さ。
特に現在の後期高齢者の世代は雇用者比率が低く、
国民年金だけの人が多いからだ。
▼家族にかわる手だて、介護していく手だてが
必ずしも十分ではない現状で、
今後そのモデルはどのようなものが?
▽友人カテゴリーのネットワークを持っている
高齢者の幸福度が高いことが、
研究結果から分かっている。
私はそれを「選択縁」と名付けた。
選択縁は脱血縁、脱地縁、脱社縁のネットワーク。
加入脱退が自由で、強制力がなく、
まるごとのコミットを要求しない。
「地域コミュニティーの復権」を言っている人がいるが、
大きなお世話だと言いたい。
地域は近隣共同体、居住の近接をもとにした
共同性を指すが、選択性の高い
友人というカテゴリーとは違う。
私は都市社会が悪いとは思わない。
都市とは、プライバシーのまったくない
息の詰まるような相互監視のムラ社会から
逃げてきた人たちが、望んでつくりあげてきたものだ。
関西弁で言うと「気の合わん隣と
仲良うせんかてよろしい」という社会だ。
最近「無縁」という言葉がはやっているが、
中世史家の故網野善彦さんがご健在なら、
さぞお怒りになっただろう。
ベストセラーになった著書の『無縁・公界・楽』
(平凡社、1978年/平凡社ライブラリー、1996年)
にあるように、土地に縛り付けられた村落共同体とは
離れたところ、例えば公権力が及ばない市の立つ場所や
神社仏閣の中などで、中世の人たちが築いた関係、
それが無縁という名のえにしだ。
字面通り「縁が無い」ことを意味するわけではない。
無縁の反対語は有縁。
わけあってつくる血縁、地縁、社縁などのえにしは、
降りるに降りられない。
今、それに変わるえにしができつつある。
それが「選択縁」というものだ。
▼選択縁に先立つ「女縁」があった。
▽選択縁を持ち、老後をソフトランディングしている
高齢者は圧倒的に女性が多い。
先行的に選択縁を作りあげたのは女性たち。
私はその集団を「女縁」と名付けて調査した。
ソフトランディングの女性は、
老後への準備期間が長いから、その間にそれぞれ
ネットワークをつくる。
力量のある人とない人がいるが、やれば身につく。
改めて事例を見てみたら、PTAや生協といった
活動をきっかけに実践力をつけ、血縁・地縁に
代わるネットワークを構築していった。
それが老後に切れ目なくつながっている。
詳しくは私の著書『女縁を生きた女たち』
(岩波現代文庫、2008年)を見てほしい。
◇ ◇ ◇
▼若いころから意識的にネットワークを作るのか。
▽調査して分かったのは、ニーズのある人しか
取り組まないということ。
孤立して追い詰められているからネットワークをつくる。
選択縁づくりのキーパーソンで一番多いのは、
転勤族の妻だった。
彼女たちは地域社会の「まれびと」(=よそ者)で、
本人は地縁、血縁の根っこを引き抜かれた人。
夫は社縁にコミットしているからニーズがない。
女性でも、地縁、血縁のネットワークに
組み込まれている人にはニーズがない。
選択縁のような代替ネットワークは、
このニーズがあるうえで、人間関係をつくる力量のある人、
両方が組み合わさった人が実践している。
▼条件に応じて、必要な努力の形が違う。
▽関係性のつくりかたは男性と女性で違う。
女性は社縁にコミットさせてもらったことがなく、
女性がつくった選択縁には社縁とは違う
つきあい方のルールがある。
そこに男性がうまく参入できない。
多くの男性に選択縁のニーズが生まれるのは定年後。
準備期間が少ない。
しかもそれまで属してきた会社組織のように、
タテ関係の強い軍事組織的な目的遂行型集団と、
選択縁とは社会化のしかたが違う。
男性が持っているノウハウとスキルが
なかなか通用しない。そこに難しさがある。
▼「おひとりさま」で生きていくのには、
相当の心構えと準備が必要な側面がある。
▽超高齢化がマクロトレンドになっていけば、
老後に対して予期ができると思う。
今は過渡期。本人たちの予想を裏切る超高齢化が
「死ぬに死ねない老後」を生んでいる。
結婚してもしなくても、長生きすれば最期は
「おひとりさま」、と予期しなければならない。
だが、私たちはすでに高齢期を生きている
「おひとりさま」をお手本として、学習できる。
このことは大きい。
この選択縁のネットワーキングが、
高齢者の幸福度を高めることは確かだと思う。
しかし、そのことと介護資源とは別。
友人に下の世話まではさせられない。
「介護はプロに、愛情は家族に」と言われてきたように、
家族が果たしてきた機能、つまり「世話や依存」と
「情緒的な満足」という二つの機能を
分離していく必要がある。
コミュニケーション欲求が高い度合いで充足されている
高齢者は、ヘルパーに話し相手を求めないという
興味深い事例がある。
今は高齢者がひとり世帯であることが
イコール孤立につながっているが、例えばしょっちゅう
家族が出入りしていたり、友達とのやりとりが
あったりしてコミュニケーションニーズが
充足されている人は、ヘルパーに話し相手を求めない。
▼家族や友達を大切にしていかないといけない。
▽あたりまえのこと。
あたりまえだが、人間関係は自然現象ではないので、
関係を保っていくためには、つね日ごろからの
努力を怠ってはいけない。
▼「看取(みと)りビジネス」のように、
制度のすき間をついた事業が問題になっている。
▽金もうけだけを考え、志のある先進モデルに
追随する業者はいっぱいいる。
すき間を狙えばどんなビジネスだって出てくる。
介護分野では事業者間格差や地域格差が非常に大きい。
今流行のケアハウスもピンからキリまである。
賄い付き高齢者下宿にすぎないところもある。
入居者も初期は要介護度が低いが、
要介護度が重くなっていった時、介護が外付けだから、
だれも責任を取らない。
近い将来、棄民状態が起きるのは火を見るより明らかだ。
医療と介護が切り分けられ、連携していないことも問題だ。
介護の地位が医療に対して低く、暮らしを支える
はずだったケアマネジャーの権限がものすごく弱い。
ケアマネの制度は制度の設計趣旨としては
すごく良かったと思うが、実態は全くそれに追いついてない。
ケアマネが事業所に対して独立性を持たないこととか、
独立しようにも報酬が低すぎることとか、
医療に介入できないとか、当初から予想できた問題を
抱えたままなので。
制度設計上ケアマネが独立性を保てないような、
事業者所属を認めたことがすべて尾を引いている。
私は介護、医療、そして資産管理などの
専門家らが連携し、ケアマネがリーダーシップをとる
「トータルライフマネジメント」という
制度の確立を提唱している。
ポイントは情報共有と相互監視。
裁量権を1人に持たせれば、変節や暴走を止められない。