ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

2012-09-02 17:02:30 | 日々の暮らし・思い出
さっき広場に漁協だと思うけど、魚を売りに来た。

今日は鯵と小鯖とシイラ。

鯵は1キロ300円。まだそれほど大きくはないけど、小鯵というほどでもない。

小鯖は15センチくらいのもの。1.3キロで100円。

シイラは体長40センチ位の2尾で100円。

ホント、バカ安といっていいくらい。

鯵は夫が皮をはぎ、身だけにした。この料理法を鯵の皮剥きという。

半身のまま切りもせず、酢味噌か生姜醤油でぺろっと食べる。

1キロくらい3人で食べてしまう。

小鯖は私が二枚におろして骨のない方を醤油と酒を混ぜたのに漬けた。

今日、竜田揚げにして少しは食べて、あとは冷凍しようと。

骨付きは味噌煮。鯖は煮過ぎるとすぐに硬くなるので、さっと煮た。

今日一日でそんなに食べられないけど、鯖はすぐに鮮度が落ちるので煮てしまった。

シイラは近所のTさんに聞いたら、二枚におろして、

切り身にし、塩をして朝1時間くらい干すといいという。

それを冷凍しておくといいに~と教えてくれた。

その準備をした。明日朝干そう。

いま、食卓はオクラ、かぼちゃ、キュウリ、茄子、つるムラサキ、

ミニトマト・・とみんな我が家の畑のもの。

料理っぽい料理は殆どせず、かっこよく云うと素材を生かした生の料理ばかり。

かぼちゃはチンするか、煮るか、くらい。

つるムラサキはお浸し、胡麻和えくらい。

料理にこだわりがない3人なので、これでよしよし。

でも東京にいた頃に比べると豊かな食卓だなぁと思う。

申し訳ないくらい。

さぁ、もうじき夕飯。うちは5時半にはいただきまーすだ。

今日はこの夏初めての揚げ茄子の味噌和えを造る。

ではでは。




かつてない新しい在りよう

2012-09-02 16:39:58 | 本を読んで
やはりこれは多くの哲学者が云っている、

善悪の観念を超えたところにある愛の世界が現象化される、実践される、

心の状態を云ったものと思う。

「これは私として、未だ他に行なわれている事を知らない社会実態であり、

現在私の周囲に行なわれている殆どの現実が、

根本的に変わることで、人倫・道徳・経済・社会・政治機構も

形質共に大転換される事は当然で、

今日の世界中の紛争等は、児戯に等しく、・・・

・・実に愚劣な行為であった事が判明します。」とある。


いろんなことが根本的に変わること、とは心の在りようが変わることによって以外に無い。

それも絶対変わらぬ一つ限りのものになること以外には無い。

そして、そう“なる”のに、闘争も犠牲も、他に迷惑を掛ける事も無い、

と彼は云っている。

「・・同じ考え方の人達と率先協力して、

案外短期間に実現することを確信するものです。」

私もそう思う。

真実のこころ

2012-09-02 13:45:06 | 本を読んで
心の状態・在りようから行為が起こるもので、

行為は行動になり、それが多く集まり所謂、社会になる。

心が基で、目に見える言動やその集積である社会はその結果のもの。

「仮や、ごまかしや、空想のものでなく、

絶対変わらない一つ限りのものを目指しています。」とある。

絶対変わらない・一つ限りのもの・・・

絶対変わらない、というのは相対的ではないということかと思う。

こうだから幸福、こうじゃないから不幸、というのは相対的なものといえる。

お金があるから幸福、ないから不幸、

健康な身体だから幸福、病体だから不幸、

良いから幸福、悪いから不幸、

・・と、こういうのは(こういう思考は)絶対変わらないものじゃないのは確か。

一つ限りのもの・・・これも相対は二つの世界で、

絶対は一つの世界ということを云っているんだろうか・・・

上に書いたような相対的な幸福を幸福感と呼んでいるのかと思う。


元々万人が生まれつき持っている在りようとしての真実、

(真善美を希求してしまうもの・共に在ろうとしてしまうもの)を、

各々が知り、それぞれがその在りように“なる”ことで、

その結果としての行為をすることになるのは当然。

そういう行為がいっぱいあるのが真実の社会。

エレベーターでにっこり(^^)

2012-09-02 10:19:44 | ひとの幸福
この前書いたけど、欧米人がエレベーターで視線が合ったり、

ちょっとぶつかったりした時に、すぐににっこりとするのは、

私はあなたの敵ではないですよという表明だという。

フランス人なんかの挨拶でハグというのも、

あれは両手に武器を持ってないことの証明だという説も読んだことがある。

そういう行為の元はと考えると、

人間は性悪な者であるという人間観を持っているということかと思う。

「性善説・性悪説」の「性悪説」が欧米人の頭にはプログラムされてあるんだろうか・・

日本の挨拶には会った時に頭を下げるというものがある。

頭を下げたら相手は見えないし、無防御な姿勢といえばそうだ。

こういうのは「性善説」、そういう人間観から来るものなのかもと思ったりするよ。

そういう挨拶と違って、会った時ににっこりするという行為の元は、

性善説的な心から発するのか、性悪説的な心から発するのか、

ひとから見てもわかるもんじゃないと思うけれども、

当人はよくわかる。

性悪説の心の時は落ち着かず、いつもヒヤヒヤ安心できないものだし、

性善説の心の時は快適なものだ。

心地いいか、心地悪いかでその行為の元がわかるというのも本当に面白い。

それに性悪説から権利義務観念は生まれたというのもなるほどと思う。


人間は罪深きものという人間観が出発の、理想的心になる行き方は、

当然、忍耐とか犠牲が付き纏うもの。

・・・というようなことをこの前書いたけど、

真善美を希求してしまうものである人間は、他者の行為を良くないものと観れば、

良くないことは良くしようと思い、それが出来ないとなった時には、

それに“耐えよう”という思考になるのも当然かなと思う。