幾つか前に「失敗を恐れることなく・・云々」と書いた。
「失敗する恐れ」という言葉がこの世に堂々とあることが、
この世の状態をよく表わしている。
失敗と恐れは本来別のことなんだけど、
失敗と恐れがセットになっているかのような風潮がある。
子供の頃、いや、子供の頃だけじゃない、何かのことを失敗したり、間違えると・・・・
たいてい怒られた。恐い顔して怒られたという体験をした人は多いと思う。
ちょっと間違うとすぐに訂正され、
ちょっと変なことを云うとすぐに白い目で見られ・・・そんなふうに、
失敗するたびにそれを否定されたら、失敗と恐れがセットのプログラムが出来るのも当然だ。
そうか、そういう失敗をしたんだね~ニコニコ・・という対応の記憶が殆ど無い。
そうされた来たので、そうするようになった。
悪循環という奴だ。
この循環を断ち切るのは、怒られて恐かった、白眼視されて辛かったという記憶を、
相手が未熟だったので、そういう対応を受けただけのこと、
という記憶にすることかと思う。
記憶とはその時の心の状態が新たにつくるものだから。
そして、人や自分の失敗にそのように行為することかと思う。
ひとつずつひとつずつ。
気付くのは瞬間的なことで、急速という言葉(彼も使っている)が相応しいけど、
行為はひとつずつひとつずつ、じわじわと・・・
涵養という言葉のように、自然に水がしみこむように徐々に養い育てること・・
「失敗する恐れ」という言葉がこの世に堂々とあることが、
この世の状態をよく表わしている。
失敗と恐れは本来別のことなんだけど、
失敗と恐れがセットになっているかのような風潮がある。
子供の頃、いや、子供の頃だけじゃない、何かのことを失敗したり、間違えると・・・・
たいてい怒られた。恐い顔して怒られたという体験をした人は多いと思う。
ちょっと間違うとすぐに訂正され、
ちょっと変なことを云うとすぐに白い目で見られ・・・そんなふうに、
失敗するたびにそれを否定されたら、失敗と恐れがセットのプログラムが出来るのも当然だ。
そうか、そういう失敗をしたんだね~ニコニコ・・という対応の記憶が殆ど無い。
そうされた来たので、そうするようになった。
悪循環という奴だ。
この循環を断ち切るのは、怒られて恐かった、白眼視されて辛かったという記憶を、
相手が未熟だったので、そういう対応を受けただけのこと、
という記憶にすることかと思う。
記憶とはその時の心の状態が新たにつくるものだから。
そして、人や自分の失敗にそのように行為することかと思う。
ひとつずつひとつずつ。
気付くのは瞬間的なことで、急速という言葉(彼も使っている)が相応しいけど、
行為はひとつずつひとつずつ、じわじわと・・・
涵養という言葉のように、自然に水がしみこむように徐々に養い育てること・・