ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

失敗する恐れ

2012-09-01 18:35:28 | ひとの幸福
幾つか前に「失敗を恐れることなく・・云々」と書いた。

「失敗する恐れ」という言葉がこの世に堂々とあることが、

この世の状態をよく表わしている。

失敗と恐れは本来別のことなんだけど、

失敗と恐れがセットになっているかのような風潮がある。

子供の頃、いや、子供の頃だけじゃない、何かのことを失敗したり、間違えると・・・・

たいてい怒られた。恐い顔して怒られたという体験をした人は多いと思う。

ちょっと間違うとすぐに訂正され、

ちょっと変なことを云うとすぐに白い目で見られ・・・そんなふうに、

失敗するたびにそれを否定されたら、失敗と恐れがセットのプログラムが出来るのも当然だ。

そうか、そういう失敗をしたんだね~ニコニコ・・という対応の記憶が殆ど無い。

そうされた来たので、そうするようになった。

悪循環という奴だ。

この循環を断ち切るのは、怒られて恐かった、白眼視されて辛かったという記憶を、

相手が未熟だったので、そういう対応を受けただけのこと、

という記憶にすることかと思う。

記憶とはその時の心の状態が新たにつくるものだから。

そして、人や自分の失敗にそのように行為することかと思う。

ひとつずつひとつずつ。

気付くのは瞬間的なことで、急速という言葉(彼も使っている)が相応しいけど、

行為はひとつずつひとつずつ、じわじわと・・・

涵養という言葉のように、自然に水がしみこむように徐々に養い育てること・・

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悪罵讒謗に・・・

2012-09-01 10:32:36 | ひとの幸福
昨日書いた場合のような時にひとのことは心配しない・・というように私の心はなっていた。

けど、自分がそういうふうに在るとの自覚があれば、

自分はそうだけれども、ひとはどうだろう?という発想も浮かぶかもしれない。

けど、自覚がないから、そういう発想が浮かばなかった。

一人一人全く違うプロセスを生きているという、

そのことがデーンと自分にないのかもしれない。

その結果としてのその行為なので、自分勝手と云われて当然のことなんだろうと思った。


どんなことでも、ひとに何らかの不快感を与えるという現象、言動は、

そのどちらかに、または双方になんらかの間違いがある。

こちらがなんの悪意もなく、行為したことでも、

相手側がすぐ怒るというような瞬間湯沸かし器みたいな人は怒ることがある。

(その人にそうなる意識プログラムがあるから)

その人が不快感を示したということは、

その人がそういう場合瞬間湯沸し器になるという観察がこちらに足らなくて、

こちらがその行為をしてしまったということと思う。

最初はそういう傾向の人だとわからず、自然に行為して、

相手側が瞬間的に怒ったという経験があるにしても、

その後の付き合いを観察すれば、その人のそういう傾向というものはある程度わかる。

完璧にはわからないのは勿論だけど。


「・・・誤解する人達(誤解の起こらないよう極力避けますが、

それに洩れた人)からどんな疑いを受けようが、

悪罵讒謗にも怯まず、・・・」(44頁)

・・という文章の、誤解の“起こらないよう”とは、例えていえば、

瞬間湯沸かし器人の怒るという行為が起こる前には、

湯沸かし器人にその行為が起こるプログラムがあることをこちらが知っている、

ことを暗示している。

「ここでは~そうすべきじゃない」とかいうようなキメツケを、

湯沸かし器人は大事に持って、それを正しいとしていることでそれに囚われている・・・

そういう観察を彼はしていたのかと思う。

なので、湯沸かし器人のその行為は納得できるものだったろうと思う。

納得とは「なるほど」ということで、

賛意を持つということじゃない。

悪罵讒謗に怯む、なんてことにはなりようがない境地なのだろうと思う。

そういうキメツケ、トラワレに操られている気の毒な人と、

彼は観ていたのかと思う。
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