ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

諦める

2012-09-27 17:48:05 | ひとの幸福
諦めるなんてダメだよ・・・か?

今の時代、『諦めない』が流行っている。

私はアンチエイジングは諦めてる。

美人じゃないのはトウの昔から諦めている。

足が太いのも諦めている。

何の副作用も無いという保証付きの薬で、それを一粒飲んだら、

足がきゅっと引き締まる、なんてのがあったら買うかもしれない。

でも何百万円もしたら、買わないなぁ。

3万円くらいなら買うかもしれない(^^)

でも効果があるのは1年ですなんていったら買わない。

美人顔になる薬があれば10万円でも買うかもしれないな。

けど、みんなが買ったらみんな美人になるから、

どうってことなくなる・・・

えーっと何を考えようとしたんだっけ???

そう、諦めていることは多い。

諦めると楽だ。諦めきれないでグズグズしてるより、

見切りをつけるとすっきりする。

そういうことはある。

諦めるというのは事実を知ること、とも言えるな。

決して変わらない事実に限るのか・・?

私の太い足や美人じゃない顔みたいに。

正解・不正解

2012-09-27 17:17:44 | ひとの幸福
迷うのは正解を探しているから。そう今朝書いた。

その時離婚するのがいいか、しないのがいいか、

どっちが正解なんてその時点でわかるのか・・・??

離婚という言葉は一つだけど、それぞれの離婚はそれぞれの味がある。

ひとつひとつ全部違う。

その離婚が正解か不正解か、わかるのは死ぬ時なんだろうか?

それともわかることなんてないんだろうか?

わかる人もあればわからないまま終わる人もあるのか。

そんなこと考えない人の方が多いのか。

そもそも正解なんて無い・・・のかもしれない。

正解だったのか?という問いがもしあるとして、そう問われたら、

私の離婚は正解だった、と今は思う。

その選択が正解だったか、不正解だったかは、

その後の人生の送り方で決まるんじゃないかと思う。

これより後の人生でまた違う展開になる可能性も無いわけじゃないことはわかる。

けれど、今までして来たどんな事も、

してきてよかったと思えるのがいいなぁと思う。

今までいろんなこと間違ったし、本当に反省することばかりだけど、

そのどれもを、して来てよかった、と今、思っている。



不調

2012-09-27 09:02:41 | ひとの幸福
高校生の私が自分の暗さを、あー、私は今こうなんだ、と受け入れられた時に、

一気に楽になった。

そのことはさっき書いた。

それともうひとつ、暗いのは良くない、という判断が当時の自分に無かった。

当時、後ろ向きの思考をしていたのかもしれない。

そうそう急に劣等感を持ったせいかもしれない。

でも、暗い自分で居ることが苦痛ではなかった。

誰からもそんなんじゃいけないよ、って言われなかったし。

楽しくってたまらなかったわけじゃないけど、

いま、そうなんだもん。しょうがないよ・・・

そういう自分だった。


病名がわかって、身体が不調な肉体的なわけがわかって安心できる。

その後で悩むとしたら・・・何を悩むんだろうか・・?

治るんだろうか?こんな病気になって生活はどうなるんだろうか?

お金はどのくらいかかるんだろうか・・

会社を首にならないだろうか・・

治らなかったどうしよう・・


そうなったとしても、しょうがないよ、っていうのが無いからかな。

それは覚悟なのか・・な・・


「なんでこんなに身体が不調なのか???」

2012-09-27 08:49:36 | ひとの幸福
娘と話していると、いろいろなことが思い出される。

1年くらい前、お母さんは~こんなことを言った・・とか。

「どうして風邪をひいたんだろう、あーしたからじゃないか?こーしたからじゃないか?・・」

って、娘が言ってた時に、

そんなふうな原因探しをしていたってしょうがないよ、

いろんな要因が一緒になってそうなっているんだから・・・なんて、

説明ばかりしていた。解説ばかりしていた。

そういう自分だった。


私は高校生になってから急に暗くなった。

クラスで一番笑わない人になった。

以前に書いたことがあると思うけど、中学までは本当に明るく元気な子供だった。

その時、悩んだ。なんでこんなふうになっちゃったんだろう???

或るとき、こんな思いが自分にやって来た。

(母は明るくて開放的な人で、父は言葉数も少なく、

何を考えているのか、わけがわからない暗い人。

中学までの自分は母の気質が出ていて、今は父の気質が出ているんだ!)

って。暗い自分になったそのわけがわかったと思い込んで、

凄くすっきりした。

今、思うと、そういうわけで自分が暗くなった、とは思えないんだけど、

その当時はそういうわけでそうなったんだ、と凄く納得した。

納得って、そういうわけでそうなったのか、とガッテンすること。

その“わけ”が事実と違っていたって、一向に関係ない。

だって、当時の私はそれで全然悩まなくなったのだから。

在るがままの私(暗い私)をそのまま受け入れることが出来た。

こうなってるのも当たり前なんだ。どうしようもなくこうなんだから。

こういう私でいい。その納得がどんなに私を楽にしたろう。

その納得が間違った納得だとしても、

「それでこうなったのか」という意識の動き(ガッテン!!)で、ひとは楽になる。


身体の不調で何処の病院へ行っても原因がわからず、病名がつかないと、

人は落ち着かない気持ちになるのも、同じことなんじゃないのか・・・

こうなったわけがわからない、納得出来ない、なんでこうなのか・・??

そのガッテンが無いと人は悩んだり、苦しんだりする。

何十軒目かの病院で、医師からやっと、あなたはこういう病名で、

ナンタラ器官がナンタラしてこういう症状が出ているのですよ、

なんて言われると、そうだったのか!と納得する。

そういうわけが在ったのか!というガッテン。

ナンタラ器官がナンタラして・・というような説明は理解できなくても、

関係ない。

とにかく何らかのわけがあって、自分は今、こうなっているのだとガッテンできると、

ひとは安心できるものなのかと思う。

私が高校生の時悩んで、その悩みがなくなったのと同じ意識の働きかと思う。

在るものが在るのは何らかのわけ・プロセスが在ると納得できた時、

ひとは深く納得する。あー、在る。在った。

そういう“成り行き”で在るのかぁ!という深い納得がそこにある。