ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

2012-09-16 11:29:51 | 本を読んで
「嫁を家の“道具視女”(はしため)から」というこの一文を読んだ時、

もう何年も前だけど、

この本で云っているのは形の仕組みのことじゃないな、

心の在りようのことだな、と確信したのを憶えている。

女性解放運動なんて呼ばれるものに血道をあげていたことがあるので、

そういう一文にすぐに気が行ったんだろう。

『はしため』は本来『端女』と書くようで、召使の女とか、女中のこと。

それに“道具視女”という字を彼はあてた。

女を道具と視てる気風から女を開放するということだろうと思う。

いくら体制を変えても、形の仕組みを変えても、

女は開放されない。

形だけでは人間を道具視する見方は根本的には変わらない。

性差別反対と旗を振っても変わらない。

女を道具視する男を批判しても変わらない。

理屈をこねても変わらない。


「真に自由な人生に開放する活動」

人生って、それぞれの一人一人が主人公。

実に様々ないろいろなキッカケは他からあるけど、

それを使ってどんな人生を創るのかは人生を送る一人一人がやることで、

人生という劇場のシナリオライターはそれぞれの自分なのかと思う。
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自分勝手に 

2012-09-16 10:19:50 | 本を読んで
報酬を求める気持ち(この前書いた、繕っておいたよと言いたくなるもの)や、

勝手に人に親切にしたくなって勝手にやって、

ありがとうと言われないと気が済まない心の状態など、

そんなものが出てこない心の状態のことを云ってるんだろう、

誰にもたのまれずに、自分勝手に、そうすること自体が自分の喜びで。


良かれと思ってやった行為に対して、相手から不平なんかを云われたら、

自分の行為・行動の出発が間違って在ったということだろうか。

至らなかったものと、反省する用意をしてかかる。

至らなかった、というのは自分の観察が未熟なことによって起こる言動のことかな。

それも、反省する用意をしてかかる・・そういう心の準備が出来ているということ・・

偉そうな自分がほとんど無い状態だと、そうなりやすいのかと思う。

・行為をしてる“間の”・・って、

・・『間の』という表現をどうしても入れたかったんだろうな、

わたしたちにわかってほしくて。
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そういえば・・・

2012-09-16 09:49:00 | 日々の暮らし・思い出
そういえば、あのどよ~んとした腰の不快感が無い。

時々ギクっとするのはあるけれど。

インドのヨガみたいなことをする整体の教室に、

この春、友人に連れて行ってもらったんだけど、そこの先生が私の立ち姿を見て、

そういう立ち方をしてるのは腰に負担がかかる、と言ってくれた。

ピンと姿勢正しく立っていようと思っていた私は、

でっちりはとむね(出っ尻鳩胸)の格好をしていたようだ。

上半身が前に出て、下半身が後ろに行ってるから、

どうしても腰に負担がかかる、という説明に納得した。

腰を前に出して、腹に意識を置いて立つといいと聞いた。

よし、やろう!と思った。

そのせいだと言い切れはしないと思うけど、

多分、意識して姿勢を変えた効果なのかと思う。

そういえば、いつのまにか、あの何とも言えない腰の痛みというか、

腰の悲鳴というか、どよ~んとした感じがない。

とても嬉しい。
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気の毒、可哀想

2012-09-16 09:44:07 | 本を読んで
・・自分流の観方で誤解したり、負け惜しみを云ったり、

一寸都合が悪いと不足に思ったり、疑ったり、腹を立てたりして、

直接よく突いて来ない小人共も沢山いますから、

そうした人を憐憫の情で迎える覚悟が無かったら、

初めから十人のメンバーにならない事です。

・・・なるほど、なるほど、と思う。

周囲からのキッカケによって造られた、観方を絶対として、

(そうとキメツケ、それを正しいと突っ張り・・)

それに囚われている状態で行為してる自他を憐憫の情で迎える覚悟がなかったら、

と云っているのだろうと思う。

それは可哀想な状態だ。経験がたくさんあるからよくわかる。

自分で自分を縛って、身動き取れなくなって、苦しんでいる。

自他がそうなっている、と観えたら、

自然と憐憫の情が湧くものかと思う。

そういう状態の人に、腹を立てたり、批判するのは、

ちょっと見立て違いだったとわかる。


憐憫の情を持てたら、行為も違って来るのだろう。

憐憫とはあわれむこと、の他に、なさけをかけること、という意味がある。
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