ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

知らぬが仏 ★

2012-09-17 18:36:05 | 言葉
「知らぬが仏」という言葉の意味は本来どんなことなのか、知らないでいた。

広辞苑を見たら、

「知ればこそ腹が立つが、知らなければ仏のように平穏な境地でいられる。

転じて、当人だけが知らずに平気でいるさまをあわれみ、

あざけっていう語」だそう。ということは・・・?

“知らない方が幸せ”という幸せは完全な幸せと言えないと広辞苑は云ってる・・・?

この言葉はこう使われています、というのが辞書なんだろうから。

謂わば、辞書にあるのは経験知。経験則。

知らないで平穏でいるさまを嘲けなくてもいいと思うけど、

知っても知らなくても平穏で居るのが真の仏だと昔の日本人は知っていた、と言える。

知って腹が立つ、知らないから腹が立たない、というのは相対的境地で、

知っても知らなくても腹立たない、というのは絶対的境地だと、

この言葉は云ってるのかと思った。


お釈迦さま、という言葉があるけど、

「釈迦」は古代インドの一種族の名前で、

釈迦牟尼(しゃかむに)とか、ゴータマ・シッダールタという名前の人のことを

通称、釈迦と云ってるようだ。

そのシッダールタが35歳の時、菩提樹の木の下で悟りを開いたという。

その悟りを開いたことを、

『仏陀になった』とか、『覚者(梵語buddha 仏陀の訳)になった』とか云うわけだ。

(ヘッセの「シッダールタ」という本、あれもすごく面白く読んだ)

覚者の意味は「自ら覚り(さとり)他を覚らせ、覚も行も完全な者をいう。」だという。

この広辞苑の意味からすると、

仏陀・覚者とは絶対的境地にならんとしてなった者・・

24時間(完全)そういう境地(覚)で行為をする(行)人のことを云っているということか。

『覚も行も完全な者をいう』・・

ようするにこれは彼の云う十人のメンバーのことじゃないか。

彼が釈迦と気が合うといったのもホント、ガッテンだ。

10年ちょっと前、天外伺朗という人が書いた本を古本屋で見て、

ちらっと立ち読みしたことがあって、(題は忘れた)

それには世界が幸福状態に成るのは人が覚ることによってだ、

とかいう文章があって、すごくそれに同感した覚えがある。

その本は買わなかったけど、他の本を何冊か読んだことがある。

この人はソニーのロボット、アイボを開発した人のようだ。


ジョージ・スミスさん

2012-09-17 14:55:24 | ひとの幸福
アメリカのユタ州に住んでるジョージ・スミスさんのこと知ってる?

と聞かれて、「知らない」「わからない」と言う。

知らない、わからないことについてなんの屈託も無い。

罪の意識も、知らない自分は『ダメなんじゃないか』『いけないんじゃないか』も無い。

わからないことはわからない。

わかるときまでわからない。

そのことをわからないでいるのも知らない。

そういうことは無限にある。

知らない、わからない事の方が、知ってることよりずっと多い。

知ってること、と言ったけど、それも本当に知っていると言えるのか、

っていったら、言えない。

反日 と 戦争反対

2012-09-17 09:09:04 | ひとの幸福
反日運動 と 戦争反対 とでは比べようがないといわれるかもしれないけど、

反という考え方である、ということは同じだ。

或るものをダメだとして、反対している限り、それは続く。

反や抗という考えが在る間は世界に紛争戦争は絶えない。 

これははっきりしてる。

饅頭

2012-09-17 08:42:02 | 日々の暮らし・思い出
昨日友人とその娘と孫1才の3人とがうちに遊びに来た。

彼女の家に行くと、1才はいつもキャッキャと笑って玄関に立つ。

友人の娘は仕事をしてるので昼間は居ない。

昨日はその娘さんが小さな饅頭を私たちに持って来てくれた。

敬老の日だからといって。

誰の事かと思ったら私たち夫婦のことだった。

そうか、敬老の日というので物を頂いたのは人生初!

いつも1才と遊んでくれて・・というようなことを彼女は言っていた。

その時、これは『お付き合いの寄進』じゃないな、と思った。

寄進というのはお寺の改装とか、これから何かをするために寄付をするということであって、

してもらってありがとうというものじゃない。

お付き合いの、という言葉がそれに付いているのはどういうことか・・・

もし、その饅頭が『お付き合いの寄進』だったとして考えると、

この饅頭をやるので、これからも1才と遊んでほしい、

という“袖の下”みたいな心持が含まれているということだ。

謂わば、下心。賄賂。収賄。贈賄。

袖の下によって動くのが人間だ、というような人間観がそこにある。

勿論、昨日はそんなことは微塵も感じなかったので、美味しく頂いた。

これをやるから、お前はこうしろ。

これを貰ったから、こうしなくちゃ。

こういう収賄や贈賄は今の法律で禁止されている。

こういう法律があるということは、

そういうことを人間はするものだという人間観に基づいている。

人間観が先か人間が先か・・ということになるけど、

この世の中がもっとよりよきものに“なる”ことを描けば、

そしてそうなるようにしたいと願うなら、

目の前の人間がどうで在れ、

その人をそんなことをするような人じゃないと観ることから始まるのかと思う。

教育学のピグマリオン効果と同じだ。

相手を心底『A』として扱うと、相手は『A』になる、というもの。

量子力学は意識力学なので。