「私はシャルリー」というのがパリで流行っているらしい。
イスラム教盲信者を風刺する週刊誌の会社へのテロに対しての抗議活動で生まれたらしい。
そのニュースを見るとどうも落ち着かない。
暴力はいけない、というのはよくわかるし、本当にそうだなぁと思う。
表現の自由を!とフランス人やいろんな人が叫んでいるけれど、
何のための表現の自由なんだと思ってしまう。
表現の自由を守るために戦争になってもいいんだろうか・・と思っちゃう。
戦争になってもかまやしない・・・そんな自由なんだろうか。
相手のことなど眼中にないその自由を行使することで、
相手に何が生まれるのか、世界がどうなっていくのか、
考えているのかなぁ・・と思ってしまう。
テロをする人にもそれは同じことだけど。
でもそれをやめてもらうのに、その方法では無理と思うよ。
世界が自由なるものになるために、風刺し、
私はシェルリーと叫ぶことが有効なんだとはとても思えない。
本当の自由は勝ち取るものじゃない、元々人間に備わっているものと思う。
それを自分の中にみつけさえすればいいのかと思う。
・・・これは脱線だけれども。
風刺漫画というのものは、ヘイトスピーチというこの頃よく聞くものと、
対象を否定しているという点で、一緒なんじゃないかと思う。
風刺を洒落た表現だなんていう風潮があるみたいだけど、
風刺ははっきり言って、からかいだ。
それを書く人、見て喜ぶ人は、
その絵に出ている人より自分の方が偉い、程度がいいと高みに立って居る。
その絵に出ている人たちがどうしてそういうことをするのか、なんて考えてみようともしない。
“自分が正しい”に決まっているから。
それこそがテロや戦争の元だよねぇ。
表現の自由なんてそういう本当のことを曇らせるんちゃうかなぁ。
イスラム教盲信者を風刺する週刊誌の会社へのテロに対しての抗議活動で生まれたらしい。
そのニュースを見るとどうも落ち着かない。
暴力はいけない、というのはよくわかるし、本当にそうだなぁと思う。
表現の自由を!とフランス人やいろんな人が叫んでいるけれど、
何のための表現の自由なんだと思ってしまう。
表現の自由を守るために戦争になってもいいんだろうか・・と思っちゃう。
戦争になってもかまやしない・・・そんな自由なんだろうか。
相手のことなど眼中にないその自由を行使することで、
相手に何が生まれるのか、世界がどうなっていくのか、
考えているのかなぁ・・と思ってしまう。
テロをする人にもそれは同じことだけど。
でもそれをやめてもらうのに、その方法では無理と思うよ。
世界が自由なるものになるために、風刺し、
私はシェルリーと叫ぶことが有効なんだとはとても思えない。
本当の自由は勝ち取るものじゃない、元々人間に備わっているものと思う。
それを自分の中にみつけさえすればいいのかと思う。
・・・これは脱線だけれども。
風刺漫画というのものは、ヘイトスピーチというこの頃よく聞くものと、
対象を否定しているという点で、一緒なんじゃないかと思う。
風刺を洒落た表現だなんていう風潮があるみたいだけど、
風刺ははっきり言って、からかいだ。
それを書く人、見て喜ぶ人は、
その絵に出ている人より自分の方が偉い、程度がいいと高みに立って居る。
その絵に出ている人たちがどうしてそういうことをするのか、なんて考えてみようともしない。
“自分が正しい”に決まっているから。
それこそがテロや戦争の元だよねぇ。
表現の自由なんてそういう本当のことを曇らせるんちゃうかなぁ。