ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

出て来るもの・・・

2015-01-22 16:40:51 | 日々の暮らし・思い出
午前中に訪問看護のナースが来てくれ、

訪問診察のドクターの指示で造血剤入りの点滴を又してくれた。

この点滴は5回やるそう。

昨日ここに書いた「点滴に十二指腸潰瘍の薬」というのは私の勘違いでした。

ここに訂正し、お詫びします。(まぁ、ちょっと言ってみた)

血が混じったものを大量に吐いたので、貧血になっているはずということで、

造血剤なんだそうだ。

午後には訪問診療のドクターも来てくれた。

熱もなく、顔色もよく、酸素濃度も問題なし、血圧もよし、腸の調子もよし、でした。


夫から聞いたんだけど、

十二指腸は昔から弱かったらしく、酒やコーヒーは控えてくださいと言われていたそう。

亡くなった義母は「もう年なんやから好きなもん飲んだらええ」と言っていたらしく、

それを私たちも踏襲していたわけなんだけど、

そのツケが回ってきたのかもしれない。

持病がこの時期一気に開花?してしまったのかもしれない。

倒れたキッカケは骨折だったけど、

そのキッカケで今までのいろいろが表に出て来たということなんだろうな。

なるべくして、なっている、ということなんだろうと思う。

こういう体験を見ると、自分も死の近くになったとき、

何が出て来るのだろうと思う。

死の近くでもない、明日、来月、来年、と私の身体はどんなことが起こってくるんだろうか。

起こってほしくないことが起こらないで済むように、

やって行くことがあるのかと思った。


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ひとに『振り回される』ということ

2015-01-22 16:10:49 | ひとの幸福
ひとの言動に『振り回される』という表現がある。

自分の考えをしっかり持ってないからそういうことになるんだ・・とかも聞くことがある。

ここで言う、自分の考えをしっかり持つってどういうことなんだろうか・・・


Aさんが優しくしてくれると、嬉しがり、

そのAさんが優しい態度をしないとき、心が乱れる・・・

それの繰り返し。

「Aさんに『振り回されている』」という心理はこういうことかと思う。


どういう意識の仕組みで、

『ひとに振り回される』という心の状態になるのかと考えると、

その人の優しそうな様子を見て、無意識的に“Aさんは優しい人”というラベルを付けてしまう・・・

だから、そうではないAさんを感じると、

混乱してしまう。

何故って、その人の中では“Aさんは優しい人”に決まってる。

丸だった物が次見たら四角い物になっていたりしたら、

驚いてしまうように。


それがしょっちゅうだったら混乱するのは当然だ。

今は丸に見える、となっていたら、混乱はない。

次に見た時には 今は四角に見える、だけの話だ。


心は動くから。固定してないから。


人の色々な面に振り回されない人は、

Aさんが優しい態度の時、優しいな、 今、こんなふうなんだなと思い、

Aさんがそうでないとき、ふーん、今、こんなふうなんだな、と思う・・・

そんな、「あぁ、そう」的な心でいつも居るということなんだろうな。

ひとは周りとのそのときどきの相互関係や、

虫の居所具合(それも、相互関係でなったもの)で優しくなったり、

そうでなかったりすることがあるからねぇ。


それが「自分の考えをしっかり持っている」と言えば言えるかな。

でもそれは無意識的な心の状態なんだろうな。

「観察はするが判断しない」という。
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「あんたも幸せになってな」

2015-01-22 13:02:37 | 日々の暮らし・思い出
昨夜は義父も私たちもぐっすり寝たな、という感じ。

私も朝8時近くになって目が覚めた。昨夜8時頃に寝たんだよ。

よく寝るわ、ホント。一回も目は覚まさなかったよ。

義父も今朝はいい顔つき。

ボケっぽい時と顔つきがまるで違う。

しゃきっと正気の顔は穏やかでいい顔。

新聞を見てもらい、私が今日の日付を指して、

「退院してちょうどひと月経つよ」と言ったら、遠くを見るような目つきをして、

「そうかぁ~」と。

レースのカーテンを開けて庭と前の道を見てもらう。

それを見ながら「わしは幸せや。・・・あんたも幸せになってな。・・・・

人生まだまだこれからや。・・・呆けた時もあった。」と彼は言った。

それを聴いて感動してしまった。

すごく嬉しかった。

『人生まだまだこれからや』

義父の98才という年齢から見れば年齢的にそうだ、ということを言ったんじゃなくて、

私のこれからの人生に大きなエールを送ってくれている感じがした。

おとうさんがいつか亡くなった後でも、

おとうさんは私を見ていて応援してくれている、と思える気がした。


最後の“呆けた時もあった”は多分最近の自分の様子を自分でわかったんだろう、と思う。

私のことを言ってくれたその後だから、私が呆けたこともあった、ともとれるけれど。

まぁ、それも言えることだけどね。

でも、きっと自分のことだろうと思うんだ。

亡くなった義母も倒れてからの日で、天皇陛下がなんたらとか、

普通の会話ではないようなことを話したことがあって、

その翌日だか二、三日後だったかに、「わし、へんなこと喋ったろう・・」と言っていたことがあったし。

自分の意識がおかしくなったことが正気の時にはわかるのだ。

私も9才の頃だったか、高熱が出たことがあり、その時、

「足の指がこんなに大きくなっちゃった~」と何度も何度も

傍にいた母に言った記憶がある。

その時、母が心配そうな顔をしながらも、

そうかそうかと言って見てくれてたことも思い出す。


義母や義父の例も私の思い出もみな、、

自分の心を観ている、もう一人の自分が居るってことだ。

なんの判断もせず、ただただ観ている、観察しているだけの存在が

誰の心にも在る。









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