ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

認知

2012-02-25 20:03:43 | ひとの幸福
年寄りは環境が変わると呆けるとか、ボケが進むとか聞いたことがある。

95歳の義父が一週間入院して、その間、

それらしき兆候かなと思ったことがあったんだけど、

昨日、退院していろいろ義父の話を聞いたら、

呆けている感じはしない。

論理的に破綻していない。辻褄があっている。

2ヶ月ほど前に転倒したのが原因のようで、脳に血の塊が出来て、

それを手術でとった。

脳が圧迫され、そのせいで少しマヒが出たり、

言葉が出なくなったり、記憶が混乱したりしたようだ。

術前にこういう手術をしてもらうんですよという説明をしたけれど、

その時は既にそれを理解できる意識レベルじゃなかったのだと思う。

術後もすぐには脳が元通りの大きさにはならないそうで、

術後に意識が戻った時は名前を言うことが出来なかった。


知的認識を司る脳が血の塊でその機能を果たせなくなったので、

手術したという事実が彼の認識に無い、ということになったみたいだ。

脳が手術によって改善して、意識が戻った時に、

彼にとって手術という記憶は無いし、

どこも痛くも痒くも無いのに、何で自分はこんな所にいるのだろう!!??

誰も見知った顔が無く、来た事も無い(新築したばかりの大病院)

浦島太郎のような気持ちだったかもしれない。

不安になるのも無理はないと思う。

記憶喪失と同じような体験だったのだと思う。


術前も今も、義父は私と同じように忘れっぽいけれど、

何かを(忘れた)という認識はある。

それは認知症状じゃない。

忘れたことをわかっている。

(忘れた=記憶に残っていない)という意識現象が自分に在ることがわかっている。

・・・続く。

受け入れる

2012-02-25 13:46:48 | ひとの幸福
ガンと宣告され、心は苦しむ。

なんで自分がこんな目に遭うのか。

まだあれもしたいこれもしたい。

まだ死にたくない。

やがて、そういう苦しみを越えて、ガンを受け入れられるようになる。

だいたい誰でもそういうステップを踏むというのを読んだことがある。

どんなことでも、受け入れると気持ちが楽になる。

これは誰でもそうなんだと思う。

嫌いだった人を受け入れられるようになると、

嫌いだから避けていた頃より、気が楽になる。

自分にとって不都合な事を受け入れられると気が楽になる。

ガンがよいものだから受け入れるわけじゃない。

受け入れる、そのことに善悪は関係ない。

在るからそれを受け入れるということだ。

受け入れるという心の状態は善悪を超えているということなんだろ。

在るものは在る、という事実にそった心境ともいえる。

無いものは無い、という事実にそった心境ともいえる。

無いものねだりをしてる時には気が楽じゃないしね。

気楽という心境=善悪を超えている=事実にそった心境=そのままでいいという心境

・・という方程式が成り立つような気がするなぁ。


「さようなら」②

2012-02-25 11:49:33 | 本を読んで
その本にこういう引用があった。

紹介したくて書くね。

アン・リンドバーグ(1906~2001)というアメリカの女性飛行機乗りで、

後に紀行作家になった人だそうなんだけど、

その人が日本に降り立った際に、「サヨナラ」という、

その人には意味のわからない別れ言葉をたくさん聞いて、

そのことについて、彼女はこう書いている。


「サヨナラ」を文字通りに訳すと、

「そうならなければならないなら」という意味だという。

これまでに耳にした別れの言葉のうちで、

このように美しい言葉をわたしは知らない。

ドイツ語、フランス語、英語の別れの言葉のように

別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試みを

「サヨナラ」はしない。

目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げるFarewell(うまくやっていって)のように、

別離の苦い味わいを避けてもいない。

Good-by(語源は God be with you(神があなたと共にいますように))のように、

言い過ぎてもいない。

日本語以外の別れの言葉は、励ましであり、戒めであり、

希望、また信頼の表現であるが、

しかし、それは「その瞬間自体のもつ意味を見落としている。

別れそのものについては何も語っていない。

「サヨナラ」は言い過ぎもしなければ、言い足りなくもない。

それは事実をあるがままに受け入れている。

人生の理解のすべてがその4音のうちにこもっている。

凡ての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、

それ自体は何も語らない。

言葉にしないGood-byであり、

心をこめて手を握る温かさなのだー「サヨナラ」は。

その瞬間の感情は隠され、ごくわずかのことしか表現されていない」


素敵でしょう?


「さようなら」

2012-02-25 10:18:57 | 本を読んで
「日本人はなぜ 『さようなら』と別れるのか」という本を読んだ。

とても面白かった。

いろんな切り口でそれを探っている本だった。

さようであるならば 致し方ない という含みがこの「さようなら」にはある。

そういうことになったのならそれは仕方の無いこと、ということと思う。

これを「諦め」というふうに観ることも出来るけど、

そういうことになった・・とは過去の事について云ってる。

起こったことは既に起こったことであり、

それは起こった事実。

そういう現象が在ったという事実を認めるということであって、

その過去の現象、それに賛成するということとは違う。

賛成だろうが反対だろうが在ったことは在った。

賛成だろうが反対だろうが起こったことは起こった。


日本語の表現で「済んだ事は水に流して」というのがある。

これも「さようならば・・・」と同じニュアンスと思う。

済んだ事・・過去に起きた事は水に流す・・

凄い表現だなと思う。

鴨長明じゃないけど、行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず・・

のようなもんで、

さようならばと、そこに執着しないのは

こういう理ゆえだと日本語は知っているみたい。

「それならそれで」も同じことかと思う。

執着しない、ということは関心を向けないということ。

関心をそこに向けるとそれが又現象化するという量子メカニズムを

日本語は知っているかのようだ。

済んだ事は水に流して というその済んだ事は善き事じゃないみたい。

いろいろあるけれど、今はさようであるならば、

済んだその事は受け入れるっきゃない・・・

無念だけどそれが事実なんだと・・・

けど、その無念さを引きずることが無い感じ・・を受ける。

それでも又前を向いて進むというようなニュアンスを感じる私だ。

ど明るさじゃなくて、静かな穏やかな明るさ・・みたいな。


「道理でそうなのか・・」

2012-02-24 16:13:53 | 言葉
「道理でそうなのか」という言葉がある。

日本語は面白い。凄い。

「道理で」という言葉を結構日常で使ってたみたいだ。

最近は聞かないけど。

「道理」とは「物事のそうあるべき筋道。

人の行うべき正しい道。道義。」

・・あーあーそーですか。はい。

(上のような『行なうべき正しい道』なんてことを聞くと、

ついついこういう口調になってしまうのは私の劣等生根性から来るんだろうな・・)


「道理で」を調べると、

「その原因・理由ゆえに、の意。

事情が分かって不審がなくなった意を表わす語。

なるほど」


「道理で」と「道理」はかなりニュアンスが違う。

道理 は 物事のあるべき筋道だけど、

道理で は 理由ゆえに、の意なので、正しいとかは関係ない。

事情が分かるということは正しくない?事情も入るということだ。

なるほど、ともあるし、プロセスを納得することかと思う。

それが「道理で」かぁ。

うーmumumumu.深い。


脳と心②

2012-02-24 15:16:16 | ひとの幸福
日本は八百万の神の国だそう。無宗教の国。

「鰯の頭も信心から」という言葉もある。

どんな物にも魂が宿るというような考え方もあるようだ。

これを古臭いと一蹴する事も出来るけど、

日本は何故かそういう考え方をする国なんだなぁと思う。

トマトにモーツァルトを聞かせると生育がいい、

なんていう話も聞いたことがある。

そういう話は科学的ではない、鵜呑みにしない方がいい、

なんていう話も聞いたことがある。

亡くなった姑は畑仕事を真面目にやった人らしく、

野菜に自然と声をかけたもんだと言っていた。

心を掛けた分だけ応えてくれるとも言ってた。

私も園芸が好きなので自然と声をかけてしまうというのは実感する。

自然とそうしてしまう、というのは何かそうする基が潜在意識にあるのかと思う。

あそこへ行こうと思えば、自然と歩けるのと同じように。

子供や知人から、うちのグリーンたちは元気だ、

私が可愛がっているからだ、とか聞くことがある。

反対にあまり関心を持てない鉢物は枯れたり、腐ったり、

・・する羽目になってしまってるような感触はもったことある。

そうそう思い出した。

10年くらい前に読んだ本で、

植物、サボテンだったか、それに電極を繋いで、

自分の意志との相互関連を調べた実験のことが書かれたものがあった。

最初は偶然に面白がって繋げたら、そんな現象が起こり、

やった人もびっくり仰天だったらしい。

植物にはっきりとした意志の力があることがわかった。

物凄くびっくりした。

以前のノートを見てみたら、

「あなたの細胞の神秘な力」という本だったかもしれないと思う。

また読んでみようかな。







脳と心

2012-02-24 11:31:33 | ひとの幸福
脳は物。心は物じゃない。

脳と心の関係はどういったものなんだろう。

心はどこにあるか・・脳か心臓か・・・?

脳から心が生まれるのか?

心から脳が生まれるのか?

今の科学では心は脳に在るということは証明されてないそう。

意識や意志も物じゃない。

ごく当たり前に考えて、

物事が起こるのはまず思考の働きが起こるから、と思う。

目に見える現象の元は目に見えない現象から。

そういう意味で意識という目に見えないものが、

物質である脳の働きというものに変換されるんじゃないかと思う。

この宇宙という物質にも目に見えない意志が働いているからこそ、

宇宙がてんでに勝手な動きをする不規則な事態にはならずに済んでいるんだと思う。

脳という物質から心が生まれるなら、

宇宙にある太陽や月や星の動きの“元”も何かの物質でなくてはならない。

太陽や地球という生命体に多分脳といえる部分はないだろうし。

野菜や種や木にも脳はないけど、

他と調和して成長している。

成長する意志を持っているといわざるを得ない。

それは本能だといわれるかもしれないけど、

生命体の一つである人間も本能がある。

本能が物質である脳にあるなら、

脳の無い植物の本能はどこにあるのか、ということにならないかな。

「十戒」 

2012-02-23 16:28:06 | ひとの幸福
必要と欲求は違うと書いたことがある。

必要ってそれが必要な間は必要なのだと思う。

知らない文字を覚えたい間は文字を覚える為の本や教師は必要だけど、

文字を覚えたらその為の本やその為の教師は要らなくなる。

人間社会が今のようになるまで発展成長してきたのには、

今までの歴史(経験)が必要だったんじゃないかと思う。

何一つ不要なものはなかったんじゃないかと思う。

勿論いまの状態がベストというわけじゃないし、

いつも発展途上にあるということだけど。


一人の人間の成長の為の経験とは

それまでの人生に起こったこと全て。

そのひとにとってその時良かったこと悪かったこと全部ひっくるめて。

人類の歴史もそれまでの経験全てが必要だったんじゃないかと思う。

戦争も平和も。

今思えばどんなにくだらないと思えることでも。

やってみてわかって変わってきた歴史。


旧約聖書の中で「十戒」というものがある。

殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ・・・・というような奴。

聖書研究会の人に「十戒」とは本来はどういう意味なのかと聞いたことがある。

聖書の原典ヘブライ語では「養育係」という意味だということだった。

それを聞いた時は本当にびっくりした。

戒・いましめって、やらなくちゃいけないこと、それをしないと罰せられるもの、

・・そんなふうに受け取っていたから。


子供は養育係が必要な間は必要だけど、成長したら要らなくなる。

人間が成長した時にそれらは要らなくなるというもの。

それがわかる目安ということなのか、と思った。

「殺すなかれ」という言葉は「殺したい」という欲求を

持つ人にとっては必要な言葉と言えるかもしれない。

殺したいという欲求の生まれない人には、

「殺すなかれ」という言葉はナンセンスだ。

そんな言葉はもう要らない。

ひとが精神的に成長したら十戒・養育係は脱ぎ捨てるもの。

「戦争反対」なんて言ったら、進化した社会では

気狂い扱いされるかもしれないと書いたことがあるけど、同じことと思う。

いつの日か、人の外側にある細かなたくさんの法律という養育係に

さよならを言う時が来るのかと思う。

その日までは養育係は必要でお世話になるんだろ。

「子供笑うな来た道だもの・・」

2012-02-23 13:46:25 | ひとの幸福
「子供笑うな、来た道だもの。年寄り笑うな、行く道だもの」

・・という言葉がある。

なんか年寄り臭い、あまりカッコよくない言葉だと感じてしまうけど、

なかなかだなぁと思う。

この「笑うな」は愉快に笑うという意味じゃなく、

嘲笑う ということと思う。

嘲笑っている自覚はなかったけど、そういうことしていた記憶はある。

嘲笑うというより、干渉したくなるような・・似たよなもんか。

「また、そんなことしてぇ」・・みたいな。

「ひとのせいにするなんて良くない」こんなキメツケが自分から剥がれた後、

誰かが他人を「ひとのせいにして!」と批判しているのを見た時に、

「そんなことしたってダメなんだけどな」・・

・・みたいな批判的見方をしてる自分に気がついたことがあった。

ちょっと前の自分と同じ姿をしているその人を

干渉しようとしている自分に気づいた。

批判しても、嘲笑っても、干渉しても、その人は変わらない。

そういう目の中では変われない。

ううーん、これも量子メカニズム通りだなぁ。

「傷つきやすい」

2012-02-23 10:35:02 | ひとの幸福
小さな子供が会ったことのない人の前で人見知り(多分)して、

母親の影に隠れている。

人見知りされた若い傷つき易い人はその行為を見て、

「心が傷付いた」と感じたと後で話してた。

子供のその行為を「自分を拒絶している」と、謂わば、

否定されたように受け取ったのではないかと思われる。

子供は多分知らない人に対しての不安感の表れだった・・

ただそういうことじゃなかったのかと思うんだけど・・・


傷つき易い、という言葉は繊細な、感受性の鋭い、というと、

世間ではなんかカッコイイみたいなイメージもあるように感じることあるけど、

ただの勘違いも多いだろうな。


存在と観測

2012-02-22 15:26:17 | テレビを見て
芦田愛菜ちゃんという子役がいる。

出たドラマは見たことないけど、超演技派らしい。

歌も上手い。音痴じゃない。

顔も可愛らしい。

この世の中には愛菜ちゃんに劣らず演技の上手い子供はたくさんいるだろう。

演技、歌、根性、3拍子揃った子供もいるだろう。

でも、親にそういう類の関心がないとその子供は

学校に行ったり、他の子供と遊んだり、して穏やかに暮らしているかもしれない。

存在自体、在るものは在る。

でもそれについての関心次第で存在自体が影響を受けて、

違う存在になる。

芸能界にいない子供もそれなりに親の関心によって、

違う存在になる。

誰だっていつだってそういう真っ只中に居る。

いつの時点も観測され観測し観測され観測し・・の循環に居る。


2012-02-22 11:07:34 | ひとの幸福
欲 というと、金銭欲とか名誉欲とかを

イメージすることが割と多いようだけど、

幸福になりたいのも、不幸になりたくないのも、

平和な社会にしたいのも、

子供がいい子になるようにとの思いも、痩せたいも、食べたいも、

指摘したいのも、注意したいのも、悩みを解決したいも、

みな 欲 といえる。

欲は悪いものじゃない。

欲があるから、世界は進化してきた。


前にも書いたけど、仏陀の言葉で、

「欲を持つから苦しむ。

悩みを解決しようというのもまた、欲である。」

というのがあるという。

また、聖書のマタイ福音書5-17に、

「私は廃止する為に来たのではなく、完成するために来た」

というものがあるらしい。

「廃止するためではなく」・・・というのは

なくそうとする、という思いのことかしらん。

(その文章の前後も知らず、

その言葉からの連想ゲームみたいな私の無責任な思いです)

なくそうとするという思考は量子メカニズムで考えると、

それはなくならない、という結果になる。

欲を廃止する為ではなく、

欲の実現を完成するために来た・・と読んでしまう。

欲自体は悪いもんじゃない。

欲は持つんじゃなく、実現するものである。アーメン。

ホントのこと

2012-02-22 10:52:25 | ひとの幸福
小学1年生に大学生の勉強はわからないように、

天才と同レベルの人でなければ、

天才その人のわかったそのことをわかることが出来ない。

自分の中にあるものしかわかることは出来ないので。

でも、わかる に至るプロセスは小学生にはわからないことでも、

その“わかった”こと自体は誰にでもわかるということはある。


電気が起こる仕組みをわからなくても(私がそうだけど)

このスイッチを押せば灯りが点く、という事は私もわかる。

なんでリンゴが木から落ちるのか、そのことがわからなくても、

リンゴが木から落ちる事は誰でも知っている。


本当の本当の本当の当たり前は誰でもわかる。

簡単なこと。

人間という自然

2012-02-21 19:33:14 | 本を読んで
どんな学問もそうだと思うけど、

自然科学、物理学は人間が自然を知りたいと思い、

そこで法則といわれるものを探って、

世界の幸福に貢献するのが目的なんだと思う。

100年くらい前に明らかにされた量子力学や相対論によって、

この世界の在りようは、絶対的なものじゃないということがわかったということなんだろうけど、

波動関数の収縮ということをとっても、

それを工学的にわかって、いろいろ利用されているんだろうけど、

実際それはなんなんだ?が

科学者に明らかにされてない現状になっている一番の障害は、

人間という意識、観念を持つ存在を

「自然」から除外してしまっているからなんじゃないかと思う。


人間という自然が人間という自然を観測しているのがこの人間界。

いきなりでびっくりする人もあるかもしれないけど、

湯川秀樹という人にある種の関心を寄せる人が少なかったことが、

こういう現状になっている原因の一つなのかとも思った。

天才が存在しても、それを天才と見抜く人がいなかったら、

その天才は居なかったも同じになる。

湯川秀樹はノーベル賞を受賞した以上にもっと大きなことを考えていたよう。

彼の思考は物理学に留まらず、当然のように哲学と心理学に向かったのだと思う。

それを山岸さんはもっと前進させた。

それを具体的に表現する前に彼は逝ってしまった。

彼の言葉の中に(湯川秀樹)という文字があるのを、目が見てから、

心の目で見ることが出来るようになるまで、

30年近くかかった私だ。




なにもしようとしない ★

2012-02-21 16:17:12 | ひとの幸福
人が何かをしたことで世界にいろいろな現象が起こる。

何もしないでいたら、(何も積極的に行動しなければ)、戦争も起こらない。

たくさんろくでもないことを思っても、

態度に出さなければ戦争は起こらない。

喧嘩を売らなければ相手は買うことも出来ない。

「自由でいること」で書いたけど、

やりたいことをやらないでいる自由、

しないという自由意志、(意識がそういう状態になっていること)、

それが戦争や紛争の起こらない元ともいえるかな。

けど、ムッとしてもすぐに態度に出さない、そのことが

「出してはいけない」や「出さないのがいい」という意識状態だったら、

その人自身に無理を強いることになる。

一時の無理は必ず後になって、ひずみを生む。

だけれど、自覚的に「あ、ムッとしたな、でも言わないでおこう」

・・というような意識状態だったら、

自分の意志だということが自分にわかっているので、

(自覚納得してるから)

ストレスにならない。

それは結局自分のやりたいように(しないということを)やっていることなので、

そういうのは後でひずみなんか生まれるわけないな。