今日はぶらっと実家に立ち寄りました。
母とお茶しながらまたお互い近況報告会をし合いました。
その中で先日みた「ALWAYS3丁目の夕日’64」の映画の話しになり、
映画のストーリーをこと細かに母に話しているとまたまた映画の感動が蘇ってきて泣きそうになりました。
1964年東京オリンピックが開催された3年後の1967年にてんてんは生まれました。
あの頃はまだスーパーマーケットってなかったように思うのですが・・(てんてん家の近所だけかな?)
毎日の買い物は阪急西京極駅のすぐ近くににある「主婦の市場」というところに母といつも行ってました。
野菜屋さん・果物屋さん・豆腐屋さん・お菓子屋さん・味噌屋さん
漬物屋さん・お肉屋さん・お魚屋さん・化粧品屋さん
市場の中でそれぞれのお店が独立していて、レジとかはなくて、お店の人がザルの中で
お金の管理をしてましたね。
てんてんは味噌屋さんとおつけもん屋さんの前を通るのが毎回楽しみでした。
すべて量り売りだったので店の前にずらり~と数種類のお味噌やお漬物が樽に入って
並べてあり、通りざまに人差し指でぺろ~んと味噌をとってなめたり、漬物をこっそりつまんで
食べるのが密かな楽しみだったのです。
母に毎回「これっ!!」って叱られてましたけど・・・母も叱りながら笑ってました。
てんてんの実家の真裏にある西京極西小学校はてんてんが3年生の時に西京極小学校の
分校という形で建てられました。
学校が建つまではそこの敷地は広大な野原だったのです。
レンゲ畑ではいつも髪に飾るレンゲの花輪を作って遊びました。
いろんな草をとってきて、「お母さんごっこ」とかいって、料理の真似事をしてたっけ・・・
大きな石をいっぱい集めてきて、隠れ秘密基地も作りましたよ~
地蔵盆ではその野原で盛大に盆踊りが行われていました。
てんてんは「缶けり命!!」でした。
今のようなアルミ缶ではなくてどっしりとした感のある缶をスコ~~ンと蹴る時の爽快感はたまりませんでしたね。
缶けりだけじゃなく、ゴム飛び、へのへのもへじ、どろじゅん、ゴザをひいてお人形ごっこ、
着せ替えごっこ、歌ごっこ、
夏休みや冬休みは朝から夕方母が「ご飯やで~~帰っておいで~~」と呼びにくるまで
近所の様々な年代の子と遊びまくってた。
てんてんは幼いときからわんぱくでしたから・・・
危険なこともいっぱいやらかして、怪我もほんとよくして、母やおばあちゃんをハラハラさせていました。
当時の阪急嵐山線の車両の床は木だったように思います。
内装はすべて木でできていたような・・・
あの昔の阪急嵐山線の車両の匂いも明確に記憶に残っています。
好きだったなぁ~~あの匂い
おばあちゃんが夕方になると火鉢で火をおこし、そこに「豆炭(まめたん)」を入れて
あれはなんていうんだろう?まぁ・・湯たんぽじゃないけど・・そういう役割をする
大きな入れ物の中に真っ赤の豆炭を入れてくれて、お布団にいつもしのばせてくれていました。
夜寝るころにはお布団がぽかぽかになっていて気持ちよかったなぁ~
あの豆炭を焼く匂いも覚えています。
近所に染物工場があって、その工場の前にはなぜかお湯が常に沸いていました。
母が夕方になるとそこからお湯をくんできて、泥だらけになったてんてんや妹の足を
そのお湯でキレイに洗ってくれました。今でいう足湯ですね。
あのお湯の匂いもはっきり覚えています。
夜寝る前には桃の形をした入れ物に入ったハンドクリームを母がてんてんと妹の手に
必ず塗ってくれました。
決して良い香りとは言えなかったけど・・・その時間がとても好きでした。
もちろん戦争が終わった直後に比べたら、随分豊かな生活を送ることができていたのでしょうが
それでも今当たり前のようにある、コピー機やFAX、ビデオにCDなんてなくて・・・
会社にお勤めして初めてFAXを見たときには、一体どういう構造になっているんだろう~?
って不思議で不思議でしかたありませんでした。
OLで働き始めた時はポケベルが主流で、携帯電話を持っている人はほんとにごく一部の人で
その携帯電話もショルダーバックみたいに大きなものでしたよね・・・。
アナログの時代も充分に味わい・・・
デジタルの時代に移り変わっていく、その流れの中にいれたことも
ほんといい体験をさせてもらったなぁ~って思います。
まゆっち達世代はデジタルの中に生まれてきて・・・まぁ・・それが当たり前のなのでしょうけど・・・
古き良き時代というものを体験できたてんてん世代の人達は
なんともいい時代に生まれたものだなぁ~~ってALWAYSの話しをしながら
母と昔話に花を咲せた母とのお茶会でした。