その後のエンディングノート

2009-05-22 11:27:52 | 折りに触れ思うこと

死ぬまでに、自分が出来得る全てのことをやっておきたい。
私には、自分で作った家庭という物がないので、
出来る事なら自分の骨まで自分で拾いたいくらいだ。

仕事中に軽い怪我をして、平行するように親にも軽い認知症が表れ、
定年まで一年を残し退職してから丁度二年が過ぎた。
後期高齢者の親と後三年で前期高齢者になる自分とを思うと、
どっちが先に逝っても少しも不自然ではない年齢なのだ。
けれど、例えば自分が先だとするとやはりこれは一大事。
逝ってしまえばそれはそれでしょうがないけれど、
左脳でもやられたらサノヨイヨイになってしまう

バタバタと慌ただしく出来ることからやった。
墓を建て、無宗教でもやってくれるお寺さんを見つけ、
細かな話もした。 斎場も決まっているし、
遺影も撮った。

さて、エンディングノート・・・書き終えてはいない。
これはMy Life 自分史の様な物だった。

得意だった科目
よく遊びに行った場所
なりたかった職業
熱中していた事
配偶者を選んだ理由
子供の性格
家族との思い出
今やってみたい事
これからの人世の夢

こんな悠長な事は、後々に故人を偲んで家族がゆっくりと見るものだと思う。
私にはエンディングノートというより「緊急時申し送りノート」でいいのかな?

演出としては、
伝統的な白装束ではなく故人の好みの物を着るとか、
好きな音楽を流すとか、
色々項目があり、それは心が動き考えては見たけれど、
時間が経つにつれ、
白装束でも黒装束でも構わない、音楽でもお経でも流せばいいと、
どうでも良いと思うようになる。

結局は、
変わった事を望んで、残された者に余計な手を煩わせたくないと思うからだ。
とにかく迷惑をかけたくない、それだけの事。
反面、
死ぬときぐらいわがまま言ったって良いんじゃないかなと思ったりもする。

遺影、これが又気に入らない。
写真屋さんが撮ったのだから綺麗に撮れているのだと思う。
そっくりそのまま、実にありのままに写っているから。
けれどそれでは嫌なのだ。
素人写真は、何かの具合で時々すごくよく撮れていたりする事がある。
これは良い写真だなぁ~と思うときがある。
そういう風に撮って貰いたかったんだけどなぁ~


何だかここ迄来て、ふぅ~っと手が止まったみたいだ。
バタバタとひとり気忙しく過ごしてきたけれど、
明日は明日の風が吹くし、
今は良い季節だし、
毎日新しい朝がやってくる。