朝焼けを見るために

神様からの贈り物。一瞬の時。

流水子   第9話

2005-03-31 09:36:17 | 流水子
『キスして。』
『えっ。いきなり、びっくりさせるなよ。』
『キスしてほしいの。ただ、貴方とキスしたいの。』
『今?ここで?』
『そう、今、ここで。』
『どうしたんだよ、そういうことは酔っぱらった勢いってもののある時に言うものだぜ。』
『だって、今、貴方とキスがしたいんだもの。』
『そんなこと言ったって…。酔っぱらってもいないし、まだお天道様だってあそこにいるんだぜ。人だって見てる。』
『別に悪いことをするわけじゃないわ。セーヌ川の畔では、人目憚ることなく皆しているわ。』
『同じ橋の上だとしても、ここは日本だ。フランスじゃない。』
『いいじゃない、案外見てないわよ。他人のことなんて。』
『そうかなぁ。』
『そんなものよ。もしも、キスじゃなくて喧嘩を今ここでしていたとするじゃない。』
『今度は喧嘩か。』
『例えの話よ。横目で見ていく人はあっても、立ち止まって見物をしたり、仲裁に入ってくる人はないわ。そうでしよ。』
『屁理屈って言うんだ、そういうのって。』
『まるで私が臍曲がりのようね。』
『そうは言ってない。』
『そう聞こえたわ。』
『本当に喧嘩になりそうだ。』
『…』



その瞬間、いったい何がおこったのかわからなかった。ふわっと何かに私は包みこまれた。
『えっ、』と思った時には、ぎゅっと抱きしめられ、キスをされている私がいた。ヒールが僅かに宙に浮いた。
『キスをして。』
と言ったのは私。キスしてくれたのは彼。
突然、そう思った。今、この橋の上であの日見た恋人たちの様に、熱いキスがしたいと。
都市開発の区画整理が終わったこの橋は、見違える様にロマンティックになった。道行く他人は、どう感じているのかはわからない。が、少なくとも私の感性はそう捕えていた。そしてたぶん彼も。
その瞬間、意識なく口をついてでた言葉。
決して若くはない私達が、まるで映画のワンシーンの様に抱き合いキスをする。
それが何の意味を持つというのか、たいした意味はない。ちょっとした刺激とお互いの想いの確認。そして潜在する悪戯心。
売り言葉に買い言葉。その後、包まれたのは私の身体ではなく心だった。ふわっと覆い被さってきたものは、彼の優しさと愛。
『キスして。』
そう言った私に対しての彼の答え。そして私はその中で、自分の彼に対する答えを再確認した。

橋を行き交う人の目にはどんな風に写っているのか。



喧嘩をするつもりは元よりなかった。それが、彼女特有の俺をのせるための挑発だともわかっていた。
彼女の挑発に乗る前から、ひとつのことを思っていた。
この橋の上で、どちらともなく立ち止まった時から、彼女を抱きしめよう、そしてキスをしようと。
驚きが先に。同じことを同時に感じ、思っていたことに。そして、彼女に先手を取られたことに。
思わず抱きしめていた。売り言葉に買い言葉のにくまれ口も、無性に愛しかった。その言葉を遮るものは…。
パリではない橋の上、行きかう人は気にも止めない。どころか、立ち止まりはしないだろうが、歩調をゆるめ物めずらしげに見てるだろう。だが、俺達は自分達が映し出した映像の中にいる。自分達がその中に存在し、感じている物の中以外には存在してはいないのだ。
それが、この橋の上の抱擁とキス。まるで、映画のワンシーンを演じるかのように。


ホールに続く緩やかなアーチを描いた階段。ふと顔を上げると、たっぷりとフレアーを取ったスカートを翻しながら、そこから駆け降りて来る彼女が目に入った。
後ニ段を残し、俺の腕の中に飛込んできた彼女を、受け止め抱きしめた。
まるで映画のワンシーンのように…。

記憶の断片が、右前頭葉に浮かんでそして消えた。


==第九話完==

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