美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

「ポーランドへ行った子供たち」 映画評

2022-06-07 12:18:46 | Weblog

 

 

6年前に訪れたポーランドの記憶と言えば、到着したワルシャワ・ショパン空港でハングル文字の標識を眼にした時の親近感以外は、何となく心に霧がかかっていたようで曖昧である。思うに、後に訪問したアウシュヴィッツ強制収容所と、その時のどんよりした空のイメージがあまりに強すぎたか為かも知れない。第二次世界大戦下、この地で主にユダヤ人を標的に、ナチスの優生思想により劣った民族と判断された百数十万がここで殺害された。ナチスドイツの占領下であったとは言え、ポーランドの人々にとって、この地は消えることのないある種に懺悔の念を抱かせる存在ではないか。そして、私にとって今回紹介するドキュメンタリーを理解する一助ともなった。

映画「ポーランドへ行った子供たち」は、1950年代、北朝鮮から秘密裏にポーランドへ送られた韓国戦争(六二五戦争、朝鮮戦争)孤児たちの知られざる歴史に焦点を当てたドキュメンタリー作品である。監督は、ホン・サンス監督の「気まぐれな唇」などで女優としても活躍してきたチュ・サンミ。当初より演出のも関心を持っていた彼女は、数年目より本格的に映画監督を目指して大学院で学び、今回が初の長編映画となった。本作品は2018年韓国で上映され、ドキュメンタリーとしては5万人以上を動員するヒットとなり、国内外の映画祭でも高い評価を受けた。作品制作のきっかけは、チュ・サンミ監督が産後鬱を患ったことで、子供への過度の愛情と不安の間で揺れていた時、偶然北朝鮮の孤児たちの映像を眼にしたことから始まる。1950年代、自国も厳しい情勢下に異国の孤児たちを我が子のように育て面倒をみるポーランド人教師たちと、彼らを「ママ」「パパ」と慕う朝鮮の子どもたち。チェ監督は、孤児たちの‘心の傷’と、そんな彼らを真摯に受け入れて面倒をみるポーランド教師たちの愛情の意味を知りたいと願う。その為に、監督は北朝鮮の戦争孤児をテーマに制作予定の劇映画のキャスティングオーディションで出会った脱北者の大学生イ・ソンを連れてポーランドを訪問し、いまだに子どもたちを懐かしく想い、当時を思い出しては涙を流す教師たちと出会い話を聞く。

1950~53年に朝鮮半島で起きた戦争により10万人以上が孤児になったとされる。そして北朝鮮では孤児たちの一部が、当時共産圏であった東欧諸国に送られ現地の孤児院で教育受けた。しかし、その目的や詳細は謎のままである。本作品内でも登場するが、この事実に関してはポーランド人ジャーナリストのJolanta Krysowata氏により最初に取り上げられ、ドキュメンタリー映画「Kim Ki Dok」として2006年に発表された。北朝鮮の要請に応じて東欧各国に送られた孤児は総6000人余り、ポーランドはそのうち1500人ほどを静かな森に囲まれた村プワコビツェ(Plakowice)に受け入れた。第二次大戦で大きく破壊され、国全体が貧しい生活を強いられる中、外国人の受け入れが反感を買わないように孤児院はできるだけ人目に触れさせない意図であったらしい。(コリア・ヘラルド)

  孤児たちに同行した北朝鮮の監督者は思想教育への妨げになると「愛情と甘いもの」を与えない事をポーランド教師に要求する。しかし、彼らは愛情を十二分に注いで育て面倒を見た。チュ・サンミ監督はその理由を知りたいと切実に想い旅と取材を続け、ある結論に達する。紛争や戦争は過去から現在まで、ウクライナも含め世界中で絶えることない戦禍。国の指導者や権力者は戦闘や戦果に関しては多くを語るが、最も弱い立場にある人間は忘れ去られ、記録にも残らない。監督が幾度か口にする「傷の連帯」という言葉の中に、彼女がこの映画で訴えたかった本質と、映像の中に登場する人々の涙の意味が刻まれている。  


ドラマ「未成年裁判」 評・・・韓流エンタメという言葉に未だ抵抗のある中高年男性に進める社会派韓国ドラマ。

2022-04-19 12:07:43 | Weblog

メディアで紹介される情報以上に、患者さんや知人との会話内容から所謂韓流ファンだけでなく、老若男女様々な層で韓国ドラマは確実に浸透し、評価されていることを実感する。既に以前から若者のテレビ離れ傾向は、YouTubeなどのネット動画配信の浸透と共に自然な流れとなったが、それ以外の広い年齢層でも同様であろう。マンネリ化したバラエティーや、旧態依然の顔ぶれ、スポンサーの意図に合わせた当たり障りのない脚本で創作されたドラマに魅力を感じないのは当然かもしれない。一方、韓流ドラマは「冬ソナ」「チャングㇽムの誓い」で中高年女性や、時代ものを好む一部中高年男性から確実にファン層を広げていった。そして、現在は美男美女の恋愛ストーリと言う枠を超え(勿論、演技力を伴った美男美女俳優陣は基本?だが)、サスペンス、アクション、ホラー、SFと様々要素を吸収しながら、秀悦な脚本と構成により完成度を高め、更にケーブルテレビ、ネット動画という媒体によって豊富な資金を獲得しながら進化を続けている。

しかし、それでも未だ「韓流ドラマ」に偏見や抵抗のある中高年男性は存在するのではないか。こう言う私自身、韓国映画評を書く機会を頂いて初めて、韓国ドラマを全話通して観た一人である。今回、そんな中高年の仲間諸氏に紹介する「未成年裁判」はジャンルで言えば‘社会派ドラマ’だ。日本では選挙権が18歳以上に引き下げられた事で、‘成人’の取り扱いの変更もあって、今年4月から「18~19歳を‘特定少年’として17歳以下と異なる扱いとする」少年法の改正が施行される。以前より殺人事件や凶悪性の高い未成年事件が起きる度に、青少年に対して更生か刑罰かという議論は繰り返されてきた。特に25年前に発生した神戸連続児童殺傷事件は、当時14歳の少年の犯行という事で社会に与えた衝撃は計り知れないものだった。ドラマ「未成年裁判」でも1,2話で登場する事件は、当時16歳の少女が小学生を殺害し遺体を損傷した猟奇的事件をモチーフとしており、その他、ドラマで描かる様々な未成年犯罪も実際に起きた事件を参考にしている。それだけに物語としての描き方には細心の注意がはらわれ、事件の残虐性を強調する描写は避け、加害者、被害者、その家族の背景や性格を多角的に表現されている。実はこれがデビュー作であると知り驚くが、脚本を担当したキム・ミンソク作家が、構想から4年をかけ、多くの未成年事件の関係者への取材のもとに練り上げられた作品である。

己自身の不幸な出来事から「未成年犯罪者を憎んでいる」公言しながらも、全身全霊をかけて未成年裁判に取り組むシム・ウンスク判事を演じるのはキム・ヘス。彼女の出演作品にハズレなし!と言われる存在感は流石がであった。抜群のスタイルと魅惑的な表情でラブコメからアクションもの、そして近年は妖艶さを封印して弁護士、刑事など社会派作品で輝きを増している。また、彼女を囲む俳優陣も素晴らしい。上司の部長判事役を名優イ・ソンミンと、「パラサイト 半地下の家族」で家政婦役を演じ強い印象を残したイ・ジョンウン、理想と現実の中で悩む後輩判事役にキム・ムヨルが各々、欠かせない人物像として視聴者をドラマに奥底に引き込む。

凶悪事件がおきる度に叫ばれる「厳罰化」は、少年法でも同じかも知れない。未成年犯罪は絶対数は必ずしも増加傾向とは言えないが、低年齢化が問題視される。経済的格差の拡大、家族関係の複雑化や菲薄化、さらにネット社会が進むほど、良くも悪くも多くの情報に晒されるリスクなど、様々な要因が考えられる。自分の身内が被害者になったらどう思うかと聞かれれば、加害者が未成年であっても重く罰したい心情は理解できる。ただ、犯罪者も刑を終えれば社会の一員となる事を考えれば、厳罰化は現実には犯罪対策にはなっていないとの科学的データを無視することもできない。罪と罰、そして更生の問題は、このドラマでも問い続けるテーマだ。


「ハード・ヒット 発信制限」映画評

2022-02-22 18:15:43 | Weblog

 

 

作品の中で映し出される釜山の街並みは、今やGDP世界10位まで成長した韓国でソウルに次ぐ第二の大都市の名に相応しい洗練された姿である。私が学生であった1980年代、釜山大学に通う友人を訪ねた思い出の中にあるのは、一地方の港町。海水浴客もまばらな浜辺で寝そべり、日が暮れる前から露天商から発達したチャガルチ海鮮市場の屋台で、山盛りの魚介類をつまみに焼酎を飲んだ頃のイメージとはかなり異なる。「釜山」という名称が歴史に登場したのは朝鮮王朝1470年の『宗実録』が初であった。それ以前の書物『世宗実録(1402)』『慶尚道地理志(1425年)』『世宗実録地理志(1454年)』や同時期の『慶尚道續撰地理志(1469年)』『海東諸国記(1471)』では「富山」と表記されていることから、15世紀末に富山から釜山に名称変遷があったらしい。そしてこの名称の由来となった山―山の形がずんぐりして釜に似て~と『海事録』の中にある「登釜山詩」で表されたのは、現在の釜山東区 佐川洞背後の「甑山(チュンサン)」とされる。韓日関係から顧みると、日本と最も地理的に近い街と言える釜山は、良きも悪しきも歴史的深いかかわりを持つ。秀吉よる朝鮮出兵(文禄の役 1592~)で最初に上陸したのが釜山。これをきっかけに幾つかの漁村が点在しているに過ぎなかった海岸沿いには,日本に対する前線基地としての「釜山鎮」が設置され,その後さらに湾の南側には,李氏朝鮮が開国を迫られる中で,日本人使臣のための臨時的宿所としての「(草梁)倭館」も設けられた。その後も日韓併合、朝鮮戦争(6.25戦争)など多くの困難を経て、現在は近代的な国際都市として今があるのだろう。映画界でも毎年開かれる釜山國際映画祭はアジア最高の映画祭と呼ばれる存在だ。

本作品「ハード・ヒット 発信制限」は『テロ、ライブ』(13)『The Witch/魔⼥』(18)他、数々のヒット作を手掛けてきた名編集者キム・チャンジャの初長編監督作品であり、その舞台に選ばれた撮影地がまさに釜山の街、そして有名な海雲台(ヘウンデ)ビーチである。

キム監督は「地平線と海に隣接した美しい都市。このような美しい街で恐ろしい事件が起こる。」という自らのアイデアを形にすべく夢中に取り組んだ。密集した都会や繁華街の真ん中、そして浜辺の観光地での撮影の為、店や建物の一軒一軒に訪問し住民の許可と制作への協力を要請することからスタート。まずは安全性を確保すべく綿密な計画、準備を繰り返された。実際にこの映画を観れば、CG技術が発達した今日であっても、リアルなカーアクションの迫力はひと味違うと再確認出来るだろう。

ストーリーは、日常通りの平和な朝、銀行支店長ソンギュ(チョ・ウジン)は二人の子供を学校まで送り届けて職場に向かうべく車で家を出るシーンから始まる。運転中、車のフロントボックスにあった見知らぬ携帯に発信制限(非通知)電話がかかってくる。「車から降りても、第三者に知らせようとしても座席の裏に仕掛けた爆弾が爆発する。」最初は半信半疑であったソンギュも、部下の車が目前で爆破され事実であることを思い知らされる。二人の子供を載せ、誰の助けも期待できない絶体絶命の状況で警察と激しいカーチェイスが繰り広げられる。名脇役として評価の高い俳優チョ・ウジンにとって、デビューから22年目で初の単独主演映画である事も大きな話題になった。全編を通して、狭い車内での一挙、一動だけで進行される展開を、長女役のイ・ジェインと共に迫真の演技で魅せている。昨年韓国で公開前「日韓戦を控えた心境で向かえた?」とのチョ・ウジンの心配もよそに、大ヒットとなった。

韓国で観客の心を捉える映画の必要条件、シナリオや演出の完成度、そして俳優の演技力に加え、家族愛、人として道徳倫理、社会正義、弱者からの勧善懲悪という十分条件も満たした作品である。


「声もなく」映画評

2022-01-22 12:42:26 | Weblog

 

2000年以降、特にここ数年の韓国エンターテイメント分野における目覚しい成果は特筆すべきであろう。ポップミュージック界ではBTSが世界的な、それも頂点を極める勢いの人気、評価を受け、映画界は昨年のアカデミ―賞作品賞、今年度は助演女優賞を獲得、そしてドラマでは動画配信サービスの流れに乗って全世界で視聴者数トップの作品を連発している。この現状を、日本のメディアでは「エンターテイメント産業育成を掲げて国策としての戦略の結果」との論調がよく見受ける。勿論、何らかの政策的な試みはあるにしても、果たしてそれだけで説明できるものか?国によるサポートはあるに越したことはない。しかし、それで世界的アーティストが誕生し、人々の心を捉える映画、ドラマ作品が次々生まるとは限らない。それらとは別に、国を越えて多くの人々を惹きつける何か、韓流コンテンツの歌やダンス、映画やドラマに内包するプラスアルファとしての‘ファクターX’は何だろうか。私なりに思い巡らした結果、その一つと考えているのが、家族(時には親しい仲間、友人、異性)に対する「高純度の執着心」ではないかと。

少し前にアメリカのピュー研究所の調査報告がある日本の雑誌で紹介されたが、少し意外な結果であった。17国を対象に「人生を意味のあるものにするものは何か?」のアンケートに関して様々な角度分析したものだが、17ヵ国中14ヵ国が「家族」を第一に挙げたが、唯一韓国人は「物質的な豊かさ」という回答が最も多かった。しかし、この調査結果をもって、韓国では家族を重要視していないという主張はミスリードと私は考える。報告書をよく読んでみると、複数の回答が多かった国では「物質的豊かさ」の割合は韓国より高い国も多かった。逆に韓国は回答項目が少なく、同程度の比率の中で若干「物質的な豊かさ」が「家族」「健康」を上回った結果だ。さらに個人的な解釈を加えると、韓国人にとって家族は「人生を意味あるもの云々」以前に切っても切り離せないものであり、あえて項目として挙げるまでもない存在ではないか。

今回紹介する映画「声もなく」は、貧困から犯罪組織の下請け仕事をする口のきけない青年テイン(ユ・アイン)と片足が不自由な中年男チャンボク(ユ・ジェミョン)のコンビが、見知らぬ少女チョヒ(ムン・スンア)を一時預かった事から誘拐事件に巻き込まれる話だ。映画では障がい者を取り巻く環境や貧困、男尊女卑の価値観、人身売買など、韓国社会にある様々な問題が垣間見える。しかし、本作品で初長編映画デビューを果たした82年生まれの女性監督ホン・ウイジョンが自らのオリジナル脚本のもと描きたかったものは何か。監督が最初に考えたタイトルは「Without a Sound(声もなく)、We become Monsters(怪物になる)」であった。「極限の状況下では生き残るために人は静かに怪物になることもある」という意味だろう。しかしそれは即ち、人が人であり続ける為に大切なものが結局「家族の絆」という事はないか。またこの映画は、「バーニング劇場版(18)」ドラマ「地獄が呼んでいる」など、今や世界的な知名度を得た韓国屈指スター俳優ユ・アインが15㎏も増量して若いホン・ウイジョン監督とタッグを組んで熱演したことでも話題となった。実際公開されるや、韓国で最も権威のある清龍賞の新人監督賞や主演男優賞をはじめ、百想芸術大賞の監督賞、最優秀演技賞など数々の映画賞を席巻することとなる。

社会の底辺でも己の環境の中で、生存すべく精一杯ももがいている人々の物語であるが、映画全般に漂うユーモアと不思議な温かみは映画「パラサイト 半地下の家族」にも共通する感覚だ。「喜怒哀楽の総量が人生を豊かにする」という言葉がある。「家族への執着心」というキーワードに加えてもう一つの韓国作品の秘密のスパイスではないだろうか


「雨とあなたの物語」映画評

2021-12-18 17:38:48 | Weblog

 

今回紹介する映画の舞台は2003年ソウルのとある大学予備校である。多くの若者が未来の為、正確にはより就職に有利な有名大学に入学する為に日本のセンター試験にあたる大学就学能力試験(通称 ‘就能、スヌン’)の準備に励む。2000年代以降、大学進学率は世界有数の高さを誇る韓国において、国公立、私立の区別なく韓国の受験生ほぼ全員が受けるスヌンは、ある意味年に一度の国民的な行事となった。先日も朝寝坊した受験生の親からのSOSで警察が出動、受験会場まで無事護送したことがニュースで伝えられた。その他、騒音を考慮して航空機も会場付近での飛行を制限するなどは当たり前、さらに今年はコロナ感染に対する対応も徹底して行われるなど、国を挙げて最大限サポート体制が敷かれた。それはつまり、韓国が世界一と評価される子供の教育に対する意識の高さを示す一方、受験生本人たちへのかかるプレッシャーも計り知れないと言える。

映画「雨とあなたの物語」の主人公ヨンホも教育競争の真っただ中にいる2浪中の受験生である。韓国風に言えば3修(サムス)生、修能(スヌン)試験を3回目受けるという意味だが、歳も数え年で表現する韓国ではあるが、こちらは数が一つ増えるだけで重圧は何倍にも感じのではないか。さらに男子の場合は軍へ入隊する懲役のタイミングもある為、1年1年が非常に重要である。大学進学の必要性は承知しつつも、はっきりした目標も夢もなく、それ故勉強にも身が入らない生活を送るヨンホ(カン・ハヌル)。ある日、かれの心の中に大切に閉まわれていた小学生時代ある少女に対する淡い思い出が蘇り、記憶の中の名前‘ソヨン’宛に手紙を出す。一方、釜山で母親と共に古い書店を営むソヒ(チョン・ウヒ)は、ヨンホから姉のソヨンに届いた手紙を受け取る。重い持病で寝たきりの姉ソヨンの代わり、ソヒが手紙の返事を書くことがきっかけで二人は文通が始まる。ソヒもまた大学進学に不安を持ちながら、はっきりした人生の目標も定められずに過ごしていた。朧げな記憶をたどり徐々に胸の奥底から湧き上がる想いを手紙に込めるヨンホと、姉のふりをしながら続ける手紙の相手に不思議な感情を抱いていくソヒ。いつしか2人にとって新しい世界、モノトーンな日常に鮮やかな色合いを与えてくれる存在になっていく。決して会うことはできない関係。「“質問しない”、“会いたいと言わない”、そして“会いに来ない”。」という条件を出すソヒに対し「もしも12月31日に雨が降ったら会おう」ソウルの気候からは限りなく可能性の低い提案をするヨンホ、そして奇跡を待ち続ける・・・大ヒット映画「サニー永遠の仲間たち」(2011)で、ソヒ役のチョン・ウニと共に新人女優としてデビューしたカン・ソラも、ヨンホに思いを寄せる屈託のない浪人生スジン役で出演し作品の良いアクセントとなっている。

チョ・ジンモ監督自身がインタビューで話しているように、明らかなラブストーリーではない。現在ではアナログとなった手紙を通した心のやり取り、そして「待つ事」をテーマにした物語だ。登場する若い3人ともに、人生の岐路に立ち、漠然とした不安と焦りの中で悩みながらも何かを待つ。それが「雨」なのか「会いたい相手」なのか、はたまた「奇跡が起きること」なのか彼らにもわからない。近年韓国の大学進学率は2009年の78%をピークにその後減少し続け、今は60%後半となった。大学卒業が必ずしも就職や安定した人生を保証してくれないという認識が若者間に広まった為ではあるが、既存世代の価値観の押し付けに対する拒否反応なのかも知れない。進学せずに傘職人となったヨンホは、雨や雪だけでなく、本当に自分の人生にとって大切なものを待ち続けるのである。


「ジョゼと虎と魚たち」映画評

2021-10-30 16:05:16 | Weblog

 

 

 

自らを‘ジョゼ’と名乗る足が不自由な主人公と大学生恒夫の恋愛物語「ジョゼと虎と魚たち」は、1985年に発刊された田辺聖子の短編小説である。‘ジョゼ’とは、フランスの作家フランソワーズ・サガンの作品「一年ののち」で登場する、裕福な暮らしをする早熟な精神・価値観の持ったヒロインの名前。しかし若干空想壁のある自称‘ジョゼ’は、生活保護を受ける祖母との二人暮らしの境遇、孫が人前に出ることを嫌う祖母の為、引き籠りの様な生活をしている。この短編を原作に、犬童一心監督により、妻夫木聡池脇千鶴主演で2003年映画化され、その年数々の映画賞を受賞、翌年には韓国でも上映され高い評価を受けた。そして今回韓国映画陣の手で、17年の時を経て新たな純愛物語としてリメイクされた。

韓国版「ジョゼと虎と魚たち」(原題 Josse ジョゼ)にて、主人公ジョゼ役を演じるのは、日本で人気の韓流ドラマにも多く主演し、映画「虐待の証明」(20)では青龍映画賞の主演女優賞を受賞したハン・ジミン。その相手役の大学生ヨンソクは、映画「安市城 グレート・バトル」(19)で韓国映画評論家協会賞の新人俳優賞など数々の新人賞を獲得し、最近では韓流ドラマ「スタートアップ」でも注目される今最もホットな若手俳優の一人ナム・ジェヒョクが務める。韓日両映画とも、小説の原作は踏襲しつつ両国の時代背景や社会的価値観に合わせて、独自のオリジナリティを出すことで異なる味わいの作品となった。登場人物の設定でも、日本版はより人間臭く俗っぽい印象を受ける反面、韓国版はどこか幻想的でより甘味である。例えば相手役の大学生を比較すると、恒夫は楽観的で少々大雑把、女性関係においても少々だらしない。一方、ヨンソクは口数が少なく、ナイーブで優柔不断な面はあるが、基本澄みきったイメージの青年である。またハン・ジミンが演じるジョゼからは、その抑圧された声のトーンや淡い表情、あえて感情を抑えた演技から醸し出される雰囲気によるものか、主人公をよりミステリアスに魅せている。それらに加え、最新の韓国映画界の映像技術と官能的で繊細な演出で定評のあるキム・ジョンガン監督の感性によるものか、四季を織り交ぜた背景が映画全般で映し出され、美しく秀悦である。それ故、不遇な環境の障害のある女性と平凡な一青年の純愛という、ある意味不幸で痛々しい物語が一編の清廉な詩を読んでいるような作品にまっている。両作品から受ける印象は、韓日のドラマや映画で言われる一般的なイメージ・・・日本は感情をそっと覆い隠し、韓国は喜怒哀楽がはっきり顕して少々騒がしい・・・とは少し相反してるようで面白い。

「障がい者の恋愛をテーマにした映画」と聞いて真っ先に頭に浮かぶ韓国映画は「オアシス」(02)である。イ・チャンドン監督、名優ソル・ギョング、ムン・ソリ主演のこの作品、重い脳性まひの女性と、世間的にはどうしようもない前科者の男が、社会から疎外されながら二人だけの独自の世界を築いていくストーリーだが、純愛物語というには余りに壮絶だ。純粋な恋愛ものでも、悲哀物語とも言えず、観るにはそれなりの覚悟が必要かも知れない。、ある意味「体の不自由な女性と、1人の男との恋愛映画」としては、この「ジョゼと虎と魚たち」と「オアシス」は対極にあるのかも知れない。

常々社会派、犯罪、歴史、政治もの、家族関係、恋愛など様々なジャンルの韓国映画を観てきて、私の中で「韓国人は究極のロマンチストである説」を提唱するようになった(笑)。彼らは、どんなに人間の醜さ、弱さ、狡さをあからさまに表現しても、最後は人間の強さ、尊さ、純粋さ、そして愛というものを信じているロマンチストたちではないかと。この映画でまた私の説が検証されたと一人納得した次第である。


「殺人鬼から逃げる夜」映画評

2021-09-28 10:03:12 | Weblog

 

昨年、最も世界の関心を集めた出来事の一つにアメリカ大統領選挙戦が挙げられる。その間、ニュースの映像で候補たちが演説する傍らで、手話による同時通訳が行われる様子を何度か目にした。国内外を問わず、重要な会見や発表には手話通訳が伴うことは自然なものとなり、自分は読み取れなくとも手話の必要性、重要性に疑問を持つ人はいない。しかし一方、「手話」自体に関して我々はどのくらい知っているだろうか?まず大きな誤解の一つに「手話は世界共通である」と思っている点。実は私も方言のような、ある程度の地域性はあるとしても、大体意味は通じるレベルの違い程度だと考えていた。実は、同じ英語圏であってもアメリカ手話とイギリス手話は全く異なる。現在世界には300種類余りの手話が使用されている。その中では、手話が伝えられた過程や歴史的背景から同類の手話言語族に分類することもある。例えば、日本の植民地支配下に伝えられた影響から、台湾手話と韓国手話は、日本手話と約60%の共通性を持つとされるが、やはり異なるものだ。手話に対する誤解の多くは、手話を私達が使用する言語としてではなく、単純なジェスチャーやボディーランゲージの延長ように考えている為かも知れない。固有名詞や未知の事柄を、手話で表現しようとすれば、その社会や文化を含めたバックグラウンドが必要であるのは当然で、各自の理解能力に合った手話言語があってしかるべきだ。

こうした「手話」に関する無知は、すなわち聴覚障がいを持つ人々への無理解を意味するものである。映画「殺人鬼から逃げる夜」(韓国原題、ミッドナイトMid Night)は、本作が長編デビュー作となるクォン・オスン監督が、偶然カフェで手話を用いて会話する二人の聴覚障がい者を見かけたことから生まれた。「静かな世界で行われる強く激しいやり取り。しかし、多くの人々の中での孤立を感じた。」その体験から、手話と共に心のつながりでお互い100%コミュニケーションできる聴覚障がいの母娘と、彼女らを理解できない周囲の人間のなかで危機を向かえ、悪戦苦闘していく物語が企画された。

ストーリは、お客様相談室の手話部門で働くギョンミ(チン・ギジュ)は、自分と同じく聴覚障がいの母と二人暮らし。ある日仕事帰りに母と待ち合わせていた現場で、サイコパスの殺人鬼ドシク(ウィ・ハジョン)が若い女性を襲う現場に遭遇してしまう。一度はドシクに捕まり、殺される寸前で逃走し警察に保護されるが、そこに目撃者と称して真面目な会社員のいでたちで表れるドシク。ギョンミと母親の懸命の訴えにも拘わらず、それを理解できない警察管はドシクを逃がしてしまう。殺人鬼ドシクの新たなターゲットになったギョンミの命がけの逃走劇が深夜街で繰り広げられる。サイコパスの犯人の襲撃に加え、周囲の障がいへの無理解と必死に闘う主人公ギョンミを演じたチン・ギジョは、大学でコンピューター工学科を専攻し卒業後サムスンSDSに入社、その後新聞記者を経てモデルから女優の道という異色の経歴を持つ。映画は過剰な効果音や音楽を抑え、時には音声自体を消した中で進展していく。逆に、この作品における最大の効果音が静寂なのかもしれない。クォン監督が目指したかった‘残酷過ぎず’、’緊張感と没入感がある‘「静かな世界での強く激しい」サスペンス映画となった。

今月閉幕したパラリンピックに対しては、コロナ禍での開催という事で賛否両論もあった。一方、世界から集まった障害を持つアスリートの活躍を目にする時、やはり胸に熱い何かを感じたのも事実だ。しかし、「障がい者なのに凄い!障がいがあるから仕方ない!」という健常者の評価も所謂「優しい差別」と難聴児のある支援者は指摘する。障がいがある・ないに限らず相手を知り想うこと、それが多様性社会で求められる真の優しさだと。エンターテイメントとして堪能した後も、いろいろ考えさせられる映画であった。

 


「白頭山大噴火」 映画評

2021-08-14 17:32:04 | Weblog

地球の表面は十数枚の固い岩石の板からなるプレートで覆われている。このプレート同士が大きな力で押し合い、一方が地下に潜り込みながら摩擦が起きる。その過程で重なり、下方に滑り込んだプレートが弾かれる現象によって地震が発生する。日本に地震が多いのは限られた国土内に4つのプレートが接し合う、地球上でも非常に珍しい位置に存在する為だ。さらに、地震を起こすプレートの移動は、地下のマントルにあるマグマ量や噴出圧力を増加させることで、火山の噴火にも関連してくる。近年、地震の活動期に入ったとされる‘地震大国日本’には、全世界の7~8%にあたる111の活火山があり、常に綿密な観測下に置かれている。それに比べお隣の朝鮮半島に存在する活火山は、北朝鮮の両江道と中国の吉林省との国境上に位置する白頭山(標高2,744m)のみである。ところがこの白頭山、ただの活火山ではない。過去およそ1000年に一度の頻度で発生してきた大噴火の規模は、研究者によると今世紀内では最大規模に相当し、ポンペイを壊滅させたイタリアのベスビオ火山噴火よりはるかに巨大であったとされる。しかし、現在の北朝鮮政情下では十分な国際的調査や観測が行われているとは言い難い。

韓国ドラマで知られる「朱蒙(東明聖王)」が建国し「広開土大王(好太王)」の時に最盛期を迎えた強国「高句麗」の滅亡後、その遺民「大祚栄」によって設立された渤海国。日本とは遣唐使ならぬ遣渤海使の往来も盛んであった謎多き大国だが、渤海の滅亡にも10世紀に起きた今世紀最後の白頭山の大噴火が関わっていたという説がある。その後約100年間隔で小規模の噴火は起きてはいるが、それも最後に確認されたのは1905年である。最近の中国の地質学者による白頭山の火山活動の活発化やマグマの上昇報告が伝えられる中、直近の大噴火より既に1000年が過ぎている。

新たな噴火の可能性が憂慮される白頭山への関心が集まるタイミングで制作された映画が「白頭山大噴火(原題 白頭山=ペクトゥサン)だ。2019年、韓国で上映されるや観客動員数820万越えの大ヒットとなり、世界でも90ヵ国以上に配給された。今は北朝鮮領内で、実際に訪れることは叶わない「朝鮮民族の聖地」白頭山の一大事という観点での注目度もあるが、やはり作品自体のエンターテイメント性の高さに対する評価と言って良いだろう。現時点で最も旬と言えるキャスティングだけでも作品への期待が膨らむ。彼らの存在感を十分に活かしたストーリー展開、それに支えたのが「パラサイト 半地下の家族(2019)」「神と共に(2017,2018)」やNetflix作品などで世界的評価を得ている韓国デクスタースタジオによる高度なVFX技術を用いた特殊映像であった。今まで私達がSFやアクションスペクタル作品で感じたハリウッド映画への劣等感は過去のものであると実感させてくれる。

映画は、観測史上最大の噴火とそれに伴う大地震が半島全体に発生することで始まる。朝鮮半島壊滅を阻止すべく、白頭山噴火研究の第一人者である在米地質学者カン教授(マ・ドンソク)の理論に基づき核爆発でマグマ圧を下げの最終段階の大噴火を止めるという作戦を立てる。その為、特殊部隊を編成、チョ大尉(ハ・ジョンウ)を隊長に極秘に北朝鮮に潜入し、北朝鮮書記官として偽装工作をしてきたリ少佐(イ・ビョンホン)と協力して決死の任務に挑む。当然ながら最初から困難続きの作戦は、米中大国による妨害やリ少佐の隠された思惑が重なり、まさにミッションインポッシブルが展開される。

地震や火山噴火という圧倒的な天災の前で、人間は全くの無力であることを知らされてきた日本人に対し、地理的な条件から強国の外侵や内乱という人災の影響をより多く受けてきた朝鮮民族。この映画での主人公たちの白頭山噴火に対する荒唐無稽な挑戦は、過去の歴史における‘災害の遺伝子の違いによる’とは考え過ぎだろうか。


映画「サムジンカンパニー1995」 映画評

2021-07-19 12:29:08 | Weblog

 

世界経済フォーラムから「グローバル・ジェンダー・ギャップ・レポート(世界男女格差指数)2021」が発表された。156ヵ国を対象に、「経済」「教育」「医療へのアクセス」「政治参加」の主要4分野に対する男女格差縮小への取組みをもとにランキングを行っている。歴史的、文化的背景もあってか、調査が公表されて以降、日中韓の3国は軒並み下位圏に留まっている。特に儒教的価値観、家父長的家族制度を重んじてきた韓国は3国中でも例年最下位。しかし一昨年頃から少しずつ改善し、今年は102位と僅かながら順位を上げた(中国107位、日本120位)。アメリカの‘Me too運動’を発端とした韓国内での様々な社会活動と政府のジェンダー格差解消に対する取り組みの結果である。とはいえ最近も軍部内で性被害を訴えた女性下士官が自殺するという事件が大きく取り上げられて、女性に対する差別や待遇格差の問題は今も根深い。

韓流ドラマや映画は、今では韓国内だけでなく日本を含めた海外でも多くの人々、特に広い世代の女性を惹きつけ、指示されている。その理由には、エンターテイメントとしての高い完成度に加え、ジェンダー問題をはじめ様々な社会問題を大衆の視線から提起し共感を得ている為ではないか。本作「サムジンカンパニー1995」もある韓国企業で働いていた高卒の女性社員が仲間たちと団結し、不当な扱いをする会社を相手に自分たちの主張を貫いた実話をもとに作られた物語である。映画の原題は「サムジングループ 英語TOEIC班(クラス)」。1988年のソウルオリンピックを経て、急激な戦後復興から高度成長の成熟期に入ろうとしていた韓国は、国を挙げてグローバル化をスローガンに掲げていた時代。商業高校を卒業した女性社員向けのTOEICクラスを開設し、英語教育を後押しする企業もあった。しかし、彼女らの努力と目標とは別に、越えられない確然たる性差別と学歴格差が存在したのも事実である。監督イ・ジョンピルは「自分が女性だったらもっと良い作品になるのではないか?」と躊躇い、また、この作品のもう一つの社会的テーマである会社の不正(汚染物漏出)隠匿に対する内部告発問題を描き方にも頭を悩ます。結果的に「フェミニズム的内容を望む人にも、もっと普遍的な話を求める人にも楽しめる映画を。そして何より社会の大多数の黙々と自分のいる場所で走り続ける普通の人への‘ファイト!’となる物語を作ろう。」と決心する。ストーリーは、実務能力は高く、やる気も人一倍あるものの雑用しか与えられない3人の女性社員が偶然、自社工場が有害物質を川に排出していることを知る事から事件がスタートする。事実を隠蔽する会社を相手に解雇の危険を顧みず、力を合わせ真相解明に向けて奔走する。三人組のひとりイ・ジャインを演じるのは、「クエムルー漢江の怪物」の少女役で熱演したコ・アソン。子役から確実にキャリアアップし、実力派の女優に成長した姿を魅せてくれる。

韓国と日本は、社会制度、文化、価値観でも共有する部分は多い。また、人種的な特徴、容貌、食文化、文法的言語構造もかなり類似している。そんな両国の女性を取り巻く社会環境や、直面している問題もやはり驚くほど共通点がある。しかし近年、メディアやエンターテイメントにおけるジェンダー意識は、明らかに韓国が一歩進んでみえる。人気となった日本の刑事ドラマでは、女性の役柄は相変わらず主人公男性の癒し役、また情報番組は女性アナウンサーやアシスタント女性は年配司会者の傍らいるだけ。さらには、スタジオの後方で、あたかもセットの一部のように大勢の若い女性を同じユニホーム服で座らせているバラエティー番組に至っては流石に首を傾げざるを得ない。勿論、映画を含めメディアコンテンツは創作であり現実ではないが、その国の価値観や内在する欲望を示す鏡とも言える。そんな意味で、この映画は女性陣による社会の様々な不条理に向けたファイティングポーズである。


映画「王の願い-ハングルの始まり」評

2021-06-12 13:34:28 | Weblog

 

「はじめに言葉ありき」。新約聖書の有名なフレーズである。勿論ここでいう言葉(ロゴス、logos)とはイエス・キリスト自身を指すとされ、一般的なことば=言語ではない。しかし、弟子たちの言葉がヘブライ語や古代ギリシア語で聖書として残されなければ、キリスト教は世界的な宗教とならなかったことは間違いない。それはイスラム教における「コーラン」、仏教における仏典も同様である。宗教に限らず、人々が話した言葉が文字として表記されてこそ、多くに伝えられ後生にも残される。また、それが彼ら独自の文字であるほど、文化的な独立性は強いと評価して良いのではないか。

1392年、高麗の武将であった李成桂により建国された李氏朝鮮。衰退する元の支配から脱し、中国の明に対しては朝貢を行う関係であった。政治、文化その他多くを明の影響を強く受けるなか、当然ながら文字も漢字を基本とし、支配階級の知識、教養として使用されていた。そのような背景のもと、1418年朝鮮王朝4代国王に即位したのが世宗(セジョン)である。幼少時より非常な読書家で、様々な学問に対する博識と分析力に秀でた人物であった。即位後、宮中に集賢殿という学問研究所を設置し、身分を問わず優れた学者を募る。日時計や水時計、測雨器、天体観測器など、民衆の生活に役立つ発明を次々と主導し、韓国の歴史上もっとも優れた君主として世宗大王の敬称で呼ばれ、1万ウォン札にも肖像と天体観測器が描かれている。そして数多くの世宗の業績の中でも最も偉大なものと評価されるのがハングル文字の発明であろう。

映画「王の願いーハングルの始まり」は、朝鮮独自の文字「訓民正音」の創製(新しく作り出すこと)に情熱をかけた世宗と、王の要請を受け共に懸命に取り組んだ人々の苦悩の物語である。監督・脚本は同じく朝鮮王朝の有名な出来事を題材にした「王の運命―歴史を変えた8日間」で数々の脚本賞を手にしたチャ・チョルヒョン。この作品で朝鮮第21代王、英祖(ヨンジョ)を演じた名優ソン・ガンホが、今回は世宗を熱演する。「世宗を英雄というより病や煩悩に苦しむ一人の人間として描く」という監督の思い通り、ソン・ガンホという稀有な俳優独特の滲みでる愛嬌と哀しさで魅せてくれる。そして賢く且つ献身的に王を支える昭憲王后役に「千の顔を持つ女優」と呼ばれたチャン・ミソンをキャスト。王后の橋渡しから、ハングル創製に行き詰まった世宗を助ける孤高の僧侶シンミを演じるのは「神弓」「ラストプリンセス 大韓帝国最後の皇女」「天命の城」など作品ごとに多様な演技をみせる実力派俳優パク・ヘイルである。奇しくもこの三人の共演は日本でも高い評価を得たポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」以来16年ぶりであったが、残念ながら昨年急逝したチャン・ミソンの遺作となる。また、大ヒットした韓流ドラマ「愛の不時着」で、主人公の忠実で健気な北朝鮮少年兵部下役を演じたタン・ジュンサンが、シンミ僧侶の若き弟子として素晴らしい美声を披露するのも見逃せない。

作品では世宗の指示によりハングル文字発明の中心的人物として描かれた僧侶シンミ(信眉)は世宗在位時に実在した人物ではある。一方「朝鮮王朝実録」や、ハングル文字の解例本である「訓民正音」にもその名は見当たらない。それ故、本映画に対して韓国内で史実を無視し、世宗大王の偉大な能力を貶めた内容との批判もあった。しかし、歴史に忠実であるかどうかの視点より、言語学の世界でも非常に合理的な表音文字であるハングルが生み出されていく過程を描いた物語として、極限的に厳選し簡略化された字母(母音、子音)の組み合わせから話す言葉、音声が文字に置き換えていく面白さ、不思議さは子供の時に科学発明本を読んだときのような興奮を覚える。庶民が容易に読み書き出来る言葉「賢いものは朝の間に、愚かなものでも十日で学び習う(訓民正音 序文)」ハングルが現代までウリマル(我言葉)となった意味を再確認する機会になるだろう。