このコラム掲載にあたって、毎回お世話になっている編集部の方からある演劇上演後のフリートークに参加してもらえないかとの話を頂きました。私の専門に関する講演や発表ならいざ知らず、人前でフリートークそれも演劇に関しての話など柄でもなく、場を盛り下げる?恐れもあり今から正直気が重いところです。一方 肝心の公演『追憶のアリラン』(劇団チョコレートケーキ、4月9日~19日、東京芸術劇場)は、戦前の植民地下の朝鮮で、統治実務者として存在した一人の日本人官僚を主人公に、今までほとんど取り上げられなかった植民地支配の実態や終戦時の引き揚げの悲劇を題材にした点、非常に興味深く楽しみです。
在朝日本人という言葉があります。日本が朝鮮の釜山を開港せしめた1878年から1945年の終戦までの期間、朝鮮に居住していた日本人の総称です。当初は54名に過ぎなかった在朝日本人は、1910年韓国併合し植民地支配が始まるや17万人に達し、日本敗戦の前年には71万人までになります。時代という大きな流れの中で、軍事的強国による他国の支配、統治という政策として朝鮮の植民地下の歴史は一部で研究され、論じられては来ました。反面、35年の間に数十万人の在朝日本人の生活、おこないには、全くといってよい程語られることはありませんでした。「1300万人の朝鮮民衆を同化することは一人政府の力だけでは出来ない。即ち我が30万人の在朝内地人の双肩にかかっている責任である」と当時の東京帝国大学教授 山田三郎が述べていたように、日本による朝鮮植民地政策は軍部によってのみおこなわれたものではなく、「草の根の侵略」「草の根の植民地支配」といわれるように、名もない一般の日本人の手によって支えられたものと考えられます。併合前後の初期に渡った日本人は、日本国内の生存競争ではみ出た出稼ぎや移民が多く、その後朝鮮統治確立とともに官僚や軍人、企業エリートや教員が主流になっていきます。彼らや彼らの家族たちは、どのような意識、使命感を持って赴き、どのような目で朝鮮という土地を眺めていたのか、そしてそんな彼らは朝鮮の民衆にはどのように映っていたのでしょうか。
「植民地朝鮮の日本人」(岩波新書)の著者 高崎宗司氏は、元在朝日本人が朝鮮時代を振り返るときの対し方には、自分たちの行動を立派なものだったと考えるタイプ、単純に懐かしむタイプ、自己批判するタイプに大別されるとしています。しかし、それは一つの分類ではあっても各々はまた複雑に絡み合うものがあり、植民地下の朝鮮の人々の気持ちもまた一様ではありません。この作品で表現しようとしているのも立場こそ様々でも最後は顔のみえる人間の心の問題であり、辛くともそこに焦点を当てずには本当の相互理解は有り得ないということだと思います。