昨年、最も世界の関心を集めた出来事の一つにアメリカ大統領選挙戦が挙げられる。その間、ニュースの映像で候補たちが演説する傍らで、手話による同時通訳が行われる様子を何度か目にした。国内外を問わず、重要な会見や発表には手話通訳が伴うことは自然なものとなり、自分は読み取れなくとも手話の必要性、重要性に疑問を持つ人はいない。しかし一方、「手話」自体に関して我々はどのくらい知っているだろうか?まず大きな誤解の一つに「手話は世界共通である」と思っている点。実は私も方言のような、ある程度の地域性はあるとしても、大体意味は通じるレベルの違い程度だと考えていた。実は、同じ英語圏であってもアメリカ手話とイギリス手話は全く異なる。現在世界には300種類余りの手話が使用されている。その中では、手話が伝えられた過程や歴史的背景から同類の手話言語族に分類することもある。例えば、日本の植民地支配下に伝えられた影響から、台湾手話と韓国手話は、日本手話と約60%の共通性を持つとされるが、やはり異なるものだ。手話に対する誤解の多くは、手話を私達が使用する言語としてではなく、単純なジェスチャーやボディーランゲージの延長ように考えている為かも知れない。固有名詞や未知の事柄を、手話で表現しようとすれば、その社会や文化を含めたバックグラウンドが必要であるのは当然で、各自の理解能力に合った手話言語があってしかるべきだ。
こうした「手話」に関する無知は、すなわち聴覚障がいを持つ人々への無理解を意味するものである。映画「殺人鬼から逃げる夜」(韓国原題、ミッドナイトMid Night)は、本作が長編デビュー作となるクォン・オスン監督が、偶然カフェで手話を用いて会話する二人の聴覚障がい者を見かけたことから生まれた。「静かな世界で行われる強く激しいやり取り。しかし、多くの人々の中での孤立を感じた。」その体験から、手話と共に心のつながりでお互い100%コミュニケーションできる聴覚障がいの母娘と、彼女らを理解できない周囲の人間のなかで危機を向かえ、悪戦苦闘していく物語が企画された。
ストーリは、お客様相談室の手話部門で働くギョンミ(チン・ギジュ)は、自分と同じく聴覚障がいの母と二人暮らし。ある日仕事帰りに母と待ち合わせていた現場で、サイコパスの殺人鬼ドシク(ウィ・ハジョン)が若い女性を襲う現場に遭遇してしまう。一度はドシクに捕まり、殺される寸前で逃走し警察に保護されるが、そこに目撃者と称して真面目な会社員のいでたちで表れるドシク。ギョンミと母親の懸命の訴えにも拘わらず、それを理解できない警察管はドシクを逃がしてしまう。殺人鬼ドシクの新たなターゲットになったギョンミの命がけの逃走劇が深夜街で繰り広げられる。サイコパスの犯人の襲撃に加え、周囲の障がいへの無理解と必死に闘う主人公ギョンミを演じたチン・ギジョは、大学でコンピューター工学科を専攻し卒業後サムスンSDSに入社、その後新聞記者を経てモデルから女優の道という異色の経歴を持つ。映画は過剰な効果音や音楽を抑え、時には音声自体を消した中で進展していく。逆に、この作品における最大の効果音が静寂なのかもしれない。クォン監督が目指したかった‘残酷過ぎず’、’緊張感と没入感がある‘「静かな世界での強く激しい」サスペンス映画となった。
今月閉幕したパラリンピックに対しては、コロナ禍での開催という事で賛否両論もあった。一方、世界から集まった障害を持つアスリートの活躍を目にする時、やはり胸に熱い何かを感じたのも事実だ。しかし、「障がい者なのに凄い!障がいがあるから仕方ない!」という健常者の評価も所謂「優しい差別」と難聴児のある支援者は指摘する。障がいがある・ないに限らず相手を知り想うこと、それが多様性社会で求められる真の優しさだと。エンターテイメントとして堪能した後も、いろいろ考えさせられる映画であった。
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