似て異なるもの
先日 診療の合間の出張で韓国に日帰りで行ってきました。羽田―金浦空港という路線を利用すると、途中の乗り継ぎも含めて、5~6時間ほどで、改めて距離的、時間的な両国の近さを実感しました。さらに、街並み、人の顔、ファッションも若干の違いはあるものの、そのまま 空間的な違和感なく馴染んでしまいます。勿論私が韓国語も特に不自由なく話せるという事もあって、外国に来たという緊張感がないせいもあるかも知れませんが、情報、文化などグローバル化の世代、年々日韓の全体的な雰囲気は似てきていると感じます。
半面それだけに、同じだろうという感覚のまま、社会、人に接触すると、そこは別の国であることを思い出させられます。日本は、非常に、システムも統制され、人の受け答えもマニュアルかされ、安心できますが、一方 マニュアルにない事態が起きると、いきなりしどろもどろになるような気がします。逆に韓国は、マニュアルが 整然としていない半面、アドリブの部分が生き生きして・・・良かれ悪かれ、多くの人が韓国で人間臭さと活気を感じて帰ります。
日本の大手ゲーム会社の宣伝かで、恋愛シュミレーションゲームの案内を偶然みて、調べてみると、既に一つのジャンルとして確立し、多くのファンがいることを知りました。説明をみると、ゲームの中の架空の相手と会話し、デートなどの幾つかの状況での疑似体験を楽しむというものですが、架空の人物の性格、反応が少しずつ、好みに合わせて変化していくそうです。もともとゲーム類を好まず、我が家の子供にもやらせない私の偏見かもしれませんが、正直 想像すると不快な気持ちになります。戦闘ゲーム、冒険ゲームは、実際にない世界としてバーチャルであっても、恋愛までとは。
‘頭のトレーニング’、‘脳を活性する’トレーニングゲームも大いに流行していますが、これらは元々、脳の発達や、病気による障害がある患者さんの為の、リハビリとして開発されたプログラムです。誰でも頭が良くなるものではないでしょう。ゲームに向かう時間があれば、人と接触し、会話し、あるときは悩むことが人間のトレーニングではないでしょうか。ロボットデザイナーがこんなことを言っていました。「ロボットをどんどん人に似せようとする程、違和感が強くなってしまう。」それは形だけ似た異なるものかも知れません。
けれど、ゲームはあくまでもゲーム。バーチャル世界というのは、現実に似て、現実ではないということがわかりにくくなっているのは、技術の発達のおかげでしょうか。
ゲームについて私は知らないけれど、そこには一定の法則があり、それを把握しクリアしていくことによって、何かがステップアップしていくということでしょうか。
しかし、そこに感情や想像力などは少しも無いように思います。
恋愛はゲームではなく、相手が必要で、そこには感情があります。
何でもマニュアル化された世の中は、確かにゲームに似てはいるかもしれないけれど、決定的事実は、世の中はゲームでもなければ、バーチャルでもないということ。
技術発達の恩恵を受けて、便利な世の中の便利さを器用に使いながらも、どこか昔ながらの人間臭さは失いたくないものだと、ゲーム漬けの子供たちを見て思います。
似ていて全く異なるとは、まさに現実とバーチャルの違いでしょうか。