シンガポールのリー・クアンユー氏が亡くなりました。建国の父という言葉が彼ほど当てはまる人物はいないかも知れません。マレーシア半島南部にあったマラッカ王国がポルトガㇽの侵攻を受け滅亡し、シンガポール島に逃げ込んだ王族や商人たちも虐殺され町は壊滅、シンガポールはその後300年歴史の表舞台から姿を消します。1819年、イギリス東インド会社の植民地建設者として就任したトーマス・ラッフルズが地政学上の重要性に着目し開港事業を手がけたことから今のシンガポールの歴史は始まります。太平洋戦争中、一時日本の植民地となりますが、終戦後再びイギリス領に、その後独立の気運が高まり1963年にマレーシア連邦が成立し、そこから1965年に追放される形で分離独立を成したのがシンガポールの人民行動党(PAP)を率いるリー・クアンユーでした。
後背地であるマレーシアを失ったシンガポールの為、彼は徹底した経済至上主義・能力主義の「生存のための政治」を目指します。政治システムや教育システムは全てシンガポールの経済発展のために整備されました。人民行動党と政府は一体となり,リー・クアンユーを頂点にエリート層が国家を率いるという権威主義体制、開発独裁体制が構築されました。未来のシンガポールを担う優秀な若者を早い段階から見出し,国家奨学金を与えて官僚への道を歩ませ、さらに実績を重ねた者は人民行動党の議員として迎え政治家としてシンガポールを率いるリーダーとなります。公務員の不正や汚職は厳しく取り締まるとともに、給与は非常に高く世界一の高給とも言われます。反面、野党の存在は、経済成長、ひいてはシンガポールの生存にとって害であると考え,政府は様々な妨害手段や管理手法を駆使して,人民行動党の批判勢力や対抗勢力を排除しました。外資を誘致するインフラ整備、国策会社中心の支援、英語の公用語化、スイスを目指した国防政策など、彼の天才的な手腕と強力なリーダーシップによりアジアの小さな島は僅か数十年で、世界で最も効率的で豊かな国の一つに変貌しました。
リー・クアンユーが生前アジアの三大指導者に挙げていたのは、朴槿恵大統領の父、朴正熙元大統領、吉田茂元首相、中国の小平でした。「政治面でアジアが一つにまとまるのは100年経っても不可能だろう。しかし、経済面で一つになる時間は数十年もかからないだろう」彼の国葬に集まった東アジアの指導者たちは、彼の残した業績と言葉をどう受け止めていくでしょうか。
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