無慈悲で凄惨な手口で12人もの命を奪った、フランスの時事週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件は世界中を震撼させました。そして言論に対するテロリズムは絶対に許すべきでないとして「私はシャルリー」の言葉をスローガンに、暴力に屈せず、表現の自由を守ることを訴えフランスのみならず世界各地で行われたデモ行進の様子が報道されています。犯人の行為は決して容赦されるものではなく、今回の行為に対し如何なる主張も言い分も受け入れられません。一方、さらなる犠牲者が現れないためにも、この事件をきっかけに「表現の自由」についてもう一度考えてみる必要はあるでしょう。
フランスにおいて風刺画が登場したのは、フランス革命最中といわれ、フランス国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネット、そして当時の聖職者も暫し標的にされました。その後もあらゆる宗教や支配層に対して漫画という形で批評し、さらに言論の弾圧を強いたナポレオン三世を打ち倒しフランス共和政を勝ち取った現在のフランスにとって風刺画を含む言論の自由は大衆にとって特別な意味を持つものかも知れません。「シャルリー・エブド」もそんなフランスの風刺画文化を受け継いできた出版社の一つでしょうか。しかし、ジャーナリズムにおいての批評や風刺の自由は、基本的には声をあげられない弱い立場の代弁者として権力者や支配層、国の矛盾に向けられてこそ社会にとって剣に代わる武器としてその役割を果たすのではないかと考えます。民主主義社会にとって、言論の自由が守られることは基本的な権利であり、原則の一つであるのは言うまでもありません。しかし、「表現の自由」を盾に「ヘイトスピーチ」や「児童ポルノ」、子供に悪影響を与えうる過激な映像等現の規制に意義を唱える論調は本質を取り違えていると思います。
表現の自由は、時に弱者や声をあげる術を持たない少数の人々の発言や存在自体を脅かし、彼らの自由を奪うことになるものです。表現の自由も他人の不自由を考慮せずに発信されたならば、自由という名のもとの言葉の暴力です。理解し改善するための発言や討論は大いにすべきですが、己の自由のみ優先し相手の自由を犠牲にしてはいけません。
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