夕焼の空より 臨む遺跡群
ゆうやけのそらよりながむいせきぐん
雲海のマチュピチュ 飛び交ふ千の風
うんかいのまちゅぴちゅとびかうせんのかぜ
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1911(明治44)年7月24日、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム氏が、アンデス山麓の尾根沿いを探索中にマチュ・ピチュ遺跡を発見しました。
標高2,430mもの高さに築かれていたとされる古代都市は、近年の研究で、マチュ・ピチュ 遺跡 都市:クスコ 標高:約3,400m 人口:約700〜750人 存在:1500年代までは存命だったことが新たに分かっております。
が、何のために作られたか?どの様に作られたのか?どんな役割があったのか?他にも都市が存在していたのか?などなど、その多くが未だ謎とされております。
加えて、アンデス一帯の文明は文字を持たなかったとされていることから、マチュ・ピチュ遺跡を読み解くのは非常に困難となっております。
また、標高3,000m以上の山頂付近に都市が築かれているにもかかわらず、灌漑設備などが整っていたことが伺える痕跡も見つかっており、さらに謎を深めております。
ちなみに、マチュ・ピチュは現地語のケチュア語で老いた峰との意味。
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。
マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1533年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。
なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。
イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。
急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana、太陽をつなぎ止める石)が設置されている。
夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。
インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。
神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。
そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。
なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。
マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。
マチュピチュ遺跡内にはインカのシンボルでもあるコンドルの神殿がありワイナ・ピチュ側からマチュピチュ遺跡を見下ろすとコンドルの形に見える。
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一時、我が家もマチュ・ピチュに行きたい病にかられました。
夫は絶対行って見たい派で、私は千の風になってから行こうと思いました。
いって見たいところは数々あれど・・・なかなか行けないのが人の常です。
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