海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『癒しの島、沖縄の真実』を読む(1)

2008-07-20 19:48:58 | 読書/書評
 北海道洞爺湖サミットの報道を見ながら思い出した本がある。元琉球新報記者で専務取締役まで務めた野里洋氏の『癒しの島、沖縄の真実』(ソフトバンク新書)である。同書の中に九州・沖縄サミットに関する一章があり、発売直後に読んで、その一節に呆れはてた記憶がある。
 野里氏は、〈事実上は「沖縄サミット」だった〉とし、同書では「九州・沖縄サミット」ではなく「沖縄サミット」という用語で通している。第三章の「沖縄サミット開催」の中で野里氏は、全国八ヵ所の候補地が競合する中、〈最も見込みがない〉といわれ、台風や基地問題など厳しい条件下にあった沖縄が選ばれたことを、〈沖縄サミットは当時の小渕恵三首相の政治的判断で決まった。なにごとも官僚主導で動くことが多い中、珍しい政治判断であった〉(147ページ)と評価し、次のように書く。
 〈さらに、別の政治的思惑も見え隠れする。一九九五年に起きた在沖米海兵隊員による少女レイプ事件をきっかけに、当時、沖縄では米軍基地反対運動が復帰後最大ともいえる盛り上がりを見せ、日米安保体制を揺るがしかねない事態に発展していた。政府の中に危機感が広がり、その打開策として考え出された妙案の一つがサミット沖縄開催ではなかったかと考える。大田昌秀・革新知事もサミット誘致に力を入れていたが、開催決定時は普天間飛行場の沖縄県内移設受け入れを表明した稲嶺恵一・保守知事の時期で、沖縄開催の政治的環境が整っていたという事情もある。大田知事時代であれば、沖縄サミット開催はあったかどうか。私はなかったのではないかと思う。
 沖縄サミットが終わって冷静に振り返ってみれば、これらのことも含めて開催決定の舞台裏に思いを巡らせることもできる。しかし、誘致運動をくり広げ、それが実現した当時としては歓迎、喜びに包まれ、そのような政治的背景があったであろうことにまで思いを致す余裕がなかった。また、当時としては、歓迎、喜びは県民の率直な気持ちでもあった〉(149~150ページ)。
 書き写していて改めて、呆れはてている。〈そのような政治的背景があったであろうことにまで思いを致す余裕がなかった〉の主語はぼかされているが、〈誘致運動をくり広げ〉た人々を指しているのだろう。その〈誘致運動をくり広げ〉たのは誰かが明示されないので、あとの文章とのつながりで、あたかも沖縄〈県民〉が〈政治的背景があったであろうことにまで思いを致す余裕がなかった〉かのように読める。野里氏は元新聞記者というプロの物書きなのだから、この曖昧な表現は意識的なものだろう。それでは、〈思いを致す余裕がなかった〉人の中に野里氏自身は入っているのだろうか。
 〈沖縄サミットが終わって冷静に振り返ってみれば、これらのことも含めて開催決定の舞台裏に思いを巡らせることもできる〉という文章も主語が明示されていないが、〈……できる〉の主語は筆者ととらえるのが自然だろう。であるなら、野里氏も〈思いを致す余裕がなかった〉中に入っていることになる。しかし、サミット決定という新聞社にとっても大きなできごとに対して、その〈政治的背景〉を推察、思考、分析しない新聞記者がいるのだろうか。〈誘致運動をくり広げ〉た県の担当職員でもあるまいに、新聞記者まで〈思いを致す余裕がなかった〉というのだろうか。
 〈沖縄サミットが終わって冷静に振り返〉らなくても、すでにサミットの主会場が沖縄に決まった時点で、野里氏が書いた程度の〈政治的背景〉は歴然としていた。1998年11月の県知事選挙で、日本政府と沖縄の自民党、公明党、経済界が一緒になって「県政不況」をキャンペーンし大田氏を失陥させた。そして、〈普天間基地の沖縄県内移設受け入れを表明した稲嶺恵一・保守知事〉を誕生させたのだが、だからといって〈県内移設〉がスムーズに行われるとはとても考えられなかった。それが当時の状況だ。〈県内移設〉に限っていうなら、選挙の結果と県民の意思が一致していたわけでもない。県民世論調査では〈県内移設〉反対が多数を占めていたし、名護市・辺野古でも反対運動が粘り強く行われていた。
 そういう中で沖縄県民・名護市民・辺野古区民を懐柔するために島田懇談会事業などの振興策がばらまかれ、サミットの主会場決定や二千円札への守礼門の図柄の決定など、沖縄への「格段の配慮」が次々と政府から打ち出された。それらが普天間基地問題とつながっているのは余りにも見え透いていて、それに〈思いを致す〉のにどれだけの余裕や能力がいったというのだ。当時、現役の新聞記者、ジャーナリストであった野里氏が〈思いを致す余裕がなかった〉というなら、その能力を疑われ、ジャーナリスト失格の烙印を押されるだろう。
 本当に野里氏は、サミット主会場に沖縄が決定した時点で、その〈政治的背景〉に〈思いを致す余裕がなかった〉のか。あるいは、〈開催決定の舞台裏に思いを巡らせること〉もなかったのか。現職の新聞記者にそんなことがあり得るのか。当時、記者同士で〈政治的背景〉〈開催決定の舞台裏〉を議論したり、分析したりすることもなかったのだろうか。だとしたらそれは、いったいどういう新聞社なのだ。白々しい嘘をつくのはやめてほしいものだ。
 〈当時としては、歓迎、喜びは県民の率直な気持ちであった〉という表現も曖昧かつ欺瞞的なものだ。当時の沖縄県民の中にあった多様な反応を無視し、〈歓迎、喜び〉ばかりであったかのように単純化している。サミット決定やサミットそのものに反対していた県民だけではない、〈歓迎、喜び〉を表明していた県民の中にも、〈政治的背景〉に思いを致していた人はいくらでもいた。サミット決定と普天間基地問題が結びついていることは、沖縄に住んでいる者にとって否が応でも直感せざるを得ないことだった。みずから意識的に目を閉ざさない限りは。
 引用した野里氏の文章を読んで感じるのは、九州・沖縄サミットを大々的に宣伝し、政府、稲嶺県政とともにサミット音頭を吹き鳴らした、沖縄のマスコミとその中の一人であった自らを弁護するために、あたかもサミットの主会場が沖縄に決定した時点では、〈開催決定の舞台裏〉〈政治的背景〉について沖縄県民の誰もが〈思いを巡らして〉なかったり、〈思いを致す余裕がなかった〉かのように描き出している、ということだ。実際には、サミットに全面的に協力するために、野里氏ら沖縄のマスコミ関係者の多くは、サミットの〈開催決定の舞台裏〉や〈政治的背景〉に触れることをその当時忌避したのではないか。当時すでに知っていて、あるいは気づいていて書かなかったことを、後になって自己弁護・正当化するために引用文のような書き方をしているのではないか。
 そのまやかしが初めて読んで以来今まで、何度読み返しても鼻につく。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 打ち上げ花火 | トップ | 『癒しの島、沖縄の真実』を... »
最新の画像もっと見る

読書/書評」カテゴリの最新記事