
9月8日から12日まで「旧満州開拓団跡地を訪ねる旅」に参加し、中国黒竜江省のハルビンとチチハルに行ってきた。写真はハルビン駅のホームで、チチハル行きの電車を待っているところ。手前の床に△の印があるのは、安重根が伊藤博文を射撃した地点を示している。数メートル離れた所には、伊東が被弾して倒れた場所が□の印で示されていた。1909年10月26日に起こった伊藤射殺事件から、今年はちょうど100年にあたる。
今回の旅の参加者は沖縄からの添乗員を入れて21名で、南洋群島慰霊墓参団に比べればこぢんまりとしていて、マスコミの取材もなかった。ハルビンで長春に行くグループ7名が分かれ、チチハルに向かったのは14名と現地のガイド。参加者が少ない分、行動は常に一緒であり、電車やバスでの長時間の移動時や食事の時など話をする機会が多く、開拓団での生活や避難時の様子などじっくりと体験談を聞けた。
今帰仁村からも開拓団として満州へ行っている。私が子どもの頃、家の近所に「満州帰り」の方がいた。以前から関心はあったのだが、これまで特に開拓団のことを調べたこともなければ、帰還者から直接話を聞いたこともなかった。今回は新聞で旅の企画を知り、これを逃がすと現地を訪ねる機会はそうはないと思い、まずは参加して現地を見、話を聞きたいと思って参加させてもらった。
サイパン島やテニアン島と違い、広大な大陸では沖縄の人たちが生活していた場所を探すこと自体が、大変な努力を要することを知った。数百キロにも渡って続くトウモロコシ畑の間に点在する村を訪ねると、都市部と大きな経済格差があるとはいえ、開発の波が押し寄せている。古い土壁の家から煉瓦造りの新しい家に替わり、道路工事も進んでいた。64、5年前のことを記憶している老人も少なくなり、かつて沖縄人の開拓団村があったこと自体が、歴史の中に消えようとしているようだった。
そういう中で、今回、子どもの頃に住んでいた家の跡を見つけることができた参加者もいた。ここに井戸があった、ここにあった脱穀場で遊んだ、と感激している姿に、参加者全員が喜びを共有していた。青雲開拓団の本部があった場所では64年前に日本人が住んでいたという家が一軒だけ残っていたが、それもあとしばらくすれば姿を消すかもしれない。時は否応なく流れていく。今回の旅に参加してよかったと、沖縄に帰ってからつくづくと感じている。
今回の旅の参加者は沖縄からの添乗員を入れて21名で、南洋群島慰霊墓参団に比べればこぢんまりとしていて、マスコミの取材もなかった。ハルビンで長春に行くグループ7名が分かれ、チチハルに向かったのは14名と現地のガイド。参加者が少ない分、行動は常に一緒であり、電車やバスでの長時間の移動時や食事の時など話をする機会が多く、開拓団での生活や避難時の様子などじっくりと体験談を聞けた。
今帰仁村からも開拓団として満州へ行っている。私が子どもの頃、家の近所に「満州帰り」の方がいた。以前から関心はあったのだが、これまで特に開拓団のことを調べたこともなければ、帰還者から直接話を聞いたこともなかった。今回は新聞で旅の企画を知り、これを逃がすと現地を訪ねる機会はそうはないと思い、まずは参加して現地を見、話を聞きたいと思って参加させてもらった。
サイパン島やテニアン島と違い、広大な大陸では沖縄の人たちが生活していた場所を探すこと自体が、大変な努力を要することを知った。数百キロにも渡って続くトウモロコシ畑の間に点在する村を訪ねると、都市部と大きな経済格差があるとはいえ、開発の波が押し寄せている。古い土壁の家から煉瓦造りの新しい家に替わり、道路工事も進んでいた。64、5年前のことを記憶している老人も少なくなり、かつて沖縄人の開拓団村があったこと自体が、歴史の中に消えようとしているようだった。
そういう中で、今回、子どもの頃に住んでいた家の跡を見つけることができた参加者もいた。ここに井戸があった、ここにあった脱穀場で遊んだ、と感激している姿に、参加者全員が喜びを共有していた。青雲開拓団の本部があった場所では64年前に日本人が住んでいたという家が一軒だけ残っていたが、それもあとしばらくすれば姿を消すかもしれない。時は否応なく流れていく。今回の旅に参加してよかったと、沖縄に帰ってからつくづくと感じている。
満州武装開拓団の侵略と、それに対する武装遊撃隊の戦いを縦糸に、植民地主義という国家犯罪の被害・加害の一筋縄ではない民衆のかかわりを描いています。
たまたまブログをおとずれて、この話題があったので、コメントしました。
今回の旅の参加者は、60代、70代の皆さんでしたが、私が話す機会があった人たちは、幼少年期の思い出として、各家庭に銃があったことや、満人の家や土地を取り上げたことへの反省を語っていました。