アメリカン・メモリアル・パークから歩いてホテルに戻る途中、ガラパンの街並みや奉安殿の内部の写真を撮った。奉安殿の中には御真影を置いたと思われる大理石らしい台座があったが、右上半分が壊れて欠けていた。
現地での催しの最後にホテルのホールで開かれた解散式に参加した。旅行企画を実施した国際旅行社の添乗員が司会をし、団長の平良善一氏があいさつをして、墓参団という形では最後となった旅を締めくくった。
すでに南洋群島墓参団の旅から三カ月余が経っている。この旅の記録は数回書くだけのつもりだったのだが、ずいぶん日数と回数がかかってしまった。書きながらくり返しサイパン・テニアンで見聞きしたことや墓参団の人たちのことを思い出し、南洋移民と戦争について考えた。両島を訪ねるのは初めてで、墓参団のことも報道で接したくらいだったから、旅の間も帰ってからも、自分の無知を反省させられることばかりだった。
近代日本の侵略による領土拡大は沖縄から始まり、台湾や朝鮮半島、樺太、中国、東南アジア、南洋群島へと植民地支配が拡大していく。日本人となったウチナンチューも、それらの地域に兵士や移民、開拓団その他で渡っていった。日本の内部では同化を強いられ差別に苦しんだウチナンチューも、植民地に行けば侵略の一端を担い差別する側に回る。日々の暮らしの中では現地住民と交流も生まれ、人間的な触れ合いも数多くあったろうが、支配ー被支配の構図から何人も自由ではあり得ない。
移民と戦争は沖縄の近・現代史の二つの大きなテーマとしてあり、県史や市町村史、字誌などには膨大な資料や証言が集められ、研究も深められている。この数年問題になっている「集団自決」(強制集団死)の問題を考える上でも、沖縄戦より先に起こったサイパン戦やテニアン戦での事例を考察することは不可欠である。これらの問題を自分なりにさらに考えていきたいと思っているのだが、それと同時に、いやそれよりも先に、まずは体験者たちの姿を見つめ、話を聞きたいという思いがある。
南洋の次は北の方へ行く予定である。
現地での催しの最後にホテルのホールで開かれた解散式に参加した。旅行企画を実施した国際旅行社の添乗員が司会をし、団長の平良善一氏があいさつをして、墓参団という形では最後となった旅を締めくくった。
すでに南洋群島墓参団の旅から三カ月余が経っている。この旅の記録は数回書くだけのつもりだったのだが、ずいぶん日数と回数がかかってしまった。書きながらくり返しサイパン・テニアンで見聞きしたことや墓参団の人たちのことを思い出し、南洋移民と戦争について考えた。両島を訪ねるのは初めてで、墓参団のことも報道で接したくらいだったから、旅の間も帰ってからも、自分の無知を反省させられることばかりだった。
近代日本の侵略による領土拡大は沖縄から始まり、台湾や朝鮮半島、樺太、中国、東南アジア、南洋群島へと植民地支配が拡大していく。日本人となったウチナンチューも、それらの地域に兵士や移民、開拓団その他で渡っていった。日本の内部では同化を強いられ差別に苦しんだウチナンチューも、植民地に行けば侵略の一端を担い差別する側に回る。日々の暮らしの中では現地住民と交流も生まれ、人間的な触れ合いも数多くあったろうが、支配ー被支配の構図から何人も自由ではあり得ない。
移民と戦争は沖縄の近・現代史の二つの大きなテーマとしてあり、県史や市町村史、字誌などには膨大な資料や証言が集められ、研究も深められている。この数年問題になっている「集団自決」(強制集団死)の問題を考える上でも、沖縄戦より先に起こったサイパン戦やテニアン戦での事例を考察することは不可欠である。これらの問題を自分なりにさらに考えていきたいと思っているのだが、それと同時に、いやそれよりも先に、まずは体験者たちの姿を見つめ、話を聞きたいという思いがある。
南洋の次は北の方へ行く予定である。
サイパンにも奉安殿が作られていた、ということに衝撃を憶えます。
沖縄にも学校の敷地に奉安殿と忠魂碑が作られ、戦争教育が行われました。仰るように戦前日本は、台湾から中国、南洋諸島を占領していきましたが、いまだに日本が併合し続けている国は琉球だけです。そして沖縄では、支配-被支配の構図は今日も続いているような気がします。
忠魂碑や忠霊塔など戦争と植民地支配を進めるうえで、精神的支え(呪縛)となったこれらの施設の意味を考える必要があります。
辻子実『侵略神社』(新幹社)は写真も豊富で参考になります。