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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

慶良間諸島における朝鮮人慰安婦・軍属の問題

2009-09-15 23:38:25 | 「集団自決」(強制集団死)
 8月7日付の本ブログに〈『鉄の暴風』を訴えなかった理由〉という文章を載せた。それに対して「狼魔人日記」というブログで江崎孝氏があれこれと書いている。私が沖縄タイムスと連絡を取り合って上記の文章を書いたと捉えているようだが、現実から遊離した思いこみの激しさと憶測だけで書き飛ばすいい加減さは相変わらずだ。
 ところで、江崎氏が8月10日に書いた文章の中に富村順一氏の『沖縄戦語り歩き』(柘植書房)という本が出てくる。江崎氏は同書から引用して、富村氏が梅澤裕氏(座間味島の海上挺身第一戦隊元隊長)と面会した時のことを紹介しているが、同書にはさらに続けて、富村氏が野田義彦氏(阿嘉島の海上挺身第二戦隊元隊長)と面会した時のことも記されている。少々問題のある文章だが、目にする機会が少ない本だと思うので、参考までに引用してみたい。

〈さて、座間味島の隣の島、阿嘉島、ここも座間味村に入るわけです。最近の新聞によると、その島にも慰安所があったことになっているが、実は真っ赤なうそ。慰安所はなかったのです。なぜないと断言できるのか。この島に来るはずだった慰安婦を乗せた日本の軍用輸送船が、奄美大島の瀬戸内町、戦時中の古仁屋の軍港に一泊し、沖縄に向かう途中で沖縄本島を目前に敵の潜水艦の魚雷を横腹に受けて、沈没しているわけです。
 なぜこれを知ったのか。私は梅沢さんを知ることになり、阿嘉島の野田隊長を紹介してもらいました。二人は同期生なんです。梅沢さんの紹介状を持ち、現在、東京の荒川区にいる野田隊長を訪問しました。
 「隊長、当時の戦争はどうだったんですか」
 「実は富村君、あの梅沢はな、すけべなんだよ。あいつは戦友ではあるが、女の後ばっかしついて戦争をする気はまったくなかった。俺はな最初から慰安婦なんかいらないと断った」
 「実は富村、来れば俺も慰安所に通ったかもしれないが、梅沢はな、慰安婦の一人を自分の妾のように囲って独占していた。他から聞いた話だが、あれも戦争で死を覚悟したのか、女のそばからくつっいて離れようとしなかった、ということも聞いている。俺はああいうすけべじゃないぞ」
 と酔っぱらってさんざんに梅沢隊長のことを批判していました。
 「ほんとに野田さんは慰安婦がいやだったのか、いらなかったのか」
と聞いたところ、
 「実は富村、私たちのところに到着する二日前に、奄美大島沖で、この阿嘉島に来る弾薬、米、味噌、醤油、食べ物、すべてなくしてしまった。だから阿嘉島は他の島と違い餓死寸前だった。この島には慰安婦がいなかった。それが真実だ、富村。聞いてみれば分かるさ。だが、その生き残りの慰安婦は一人いた。それはけがをしていたが、輸送船が敵の潜水艦にやられたとバレてはいけないというので、すぐ首里の本部へ連れていかれて、病院でも憲兵隊に見張られていたという話を聞いている」。
 私は野田さんの家にも約一週間泊まり、いろいろな話を聞きましたが、彼は酒が入ると人が変わったように、すぐ俺の女房のお父さんは連隊長だったとか、俺には大和魂が流れているとか、飲まない時には、おとなしく飼い猫のようだが、いったん飲むとほらをふき、押し入れの日本刀を取り出し「こうして朝鮮人軍属の首を切ったのだ」と誇らしげに話していました〉(23~25ページ)。

 酒を飲んでの話であることを踏まえて読む必要があるが、富村氏によれば野田氏は、梅澤氏について以上のような発言をしていたという。現在、富村氏は大江・岩波沖縄戦裁判で原告側を支援しているようだ。梅澤氏や支援者からはこの本の記述に対し何の批判も出ていないのだろうか。
 ちなみに、梅澤氏自身は座間味島の慰安婦のことについて、自らの手記「戦斗記録」でこう書いている。

 〈軍司令部は若い将兵を思ってか女傑の店主の引率する五人の可憐な朝鮮慰安婦を送って来た。若い将校は始(ママ)めて青春を知ったのだ〉(『沖縄資料編集所紀要第11号』40ページ)。
 〈前記慰安婦にも軍夫を放すから自由にせよと伝えた。既に日本兵と懇になった者もあり淋し相であった。すぐ米軍に行かず山林中を暫くさ迷った後四名が投降した由。一名が重傷の将校を看取ると云って離れず後二人で手榴弾で自決した。哀話でないか。女傑の主人は本部と行動すると云い去らず将校軍服を着用して看護に炊事に大いに働いた。後私が負傷後はつき切りで看護してくれた〉(同43~44ページ)。

 梅澤氏は、〈朝鮮慰安婦〉を座間味島に送って来たのは〈軍司令部〉であったと記しており、慰安婦たちが軍の管理下に置かれていたことがうかがえる。それにしても、梅澤氏の筆致からは、遠く沖縄の地に送られて来て戦争に巻き込まれた朝鮮人の慰安婦たちに対し、島の最高指揮官であった者としての慚愧の念や反省の念、心の痛みはまるで感じられない。
 梅澤氏が〈女傑の店主〉〈女傑の主人〉と記す女性は、川田文子著『赤瓦の家 朝鮮からきた従軍慰安婦』(筑摩書房)によれば、日本名でイケガミ・トミヨと呼ばれていた朝鮮人の女性で、〈大柄な美しい容姿で島の人々に強い印象を残し〉たという。トミヨは各島の慰安所の元締めをしていた男の内妻であった。座間味島には慰安婦たちを管理する〃帳場〃と呼ばれる男が付いて来ず、トミヨが〃帳場〃の役を務めていた。慰安所が開設された阿真の人々は、トミヨのことを〃将校のつきもの〃と噂していたという(『赤瓦の家』192ページ)。
 また、関根清著『血塗られた珊瑚礁 一衛生兵の沖縄戦記』(JCA出版)によれば、米軍の攻撃を受けて4月11日に負傷した梅沢隊長は、6月の中旬に米軍に捕らえられて捕虜となるが、その間一人の慰安婦が梅沢隊長に付き添っていた、とされる。梅澤氏自らも記し、川田氏も座間味島で聞き取った話として前掲書で記しているが、付き添っていたのはこのイケガミ・トミヨという女性である。
 6月の半ばに米軍の捕虜となった梅澤氏は、傷の手当をはじめ〈米軍将兵の好意厚遇〉(前掲『紀要』45ページ)を受け、また、先に捕虜となっていた部下たちの説得もあり、一転して米軍の協力者となる。そして、米軍の意図に沿って自らの部下に投降を促す説得活動を行い、阿嘉島の野田戦隊長にも同様の説得活動を行う。
 『沖縄戦語り歩き』に記されたことが正確なら、野田氏の梅澤氏に対する辛辣というより侮蔑的とさえいえる批判からは、このような梅澤氏の一連の行動、つまり、一人の朝鮮人女性を自らの専属の慰安婦としていたことや、負傷後もそばに置いて世話をさせていたこと。自らが負傷して指揮を執れなくなったことを理由に4月半ばで部隊を解散したこと。米軍の捕虜となっただけでなく積極的な協力者となったことなどに対して、野田氏がどのような評価を下していたかをうかがうことができる。
 一方でその野田氏にしても、富村氏が記すとおりに朝鮮人軍属を殺害したことを酒を飲んで自慢していたのなら、その罪責感の欠落と無反省さは度し難く、批判されてしかるべきである。阿嘉島の日本軍による朝鮮人軍属の虐殺については、同島の軍属であったカン・インチャン氏が来沖した際、証言を聞いたことがある。飢餓に耐えかねて田んぼから稲の穂を盗んだのを見つかり、それだけの理由で殺害されたとのことだった。
 以上見たような慶良間諸島における朝鮮人慰安婦や軍属の問題は、川田氏や関根氏の著作があり、沖縄では何度かメディアでも報じられ、「恨の碑」建立の取り組みなども行われてきた。しかし、県内でも全国的にもまだ周知されているとは言い難い。
 来る9月29日に、「集団自決」の強制記述を削除した検定意見の撤回と記述復活を求め、県庁前広場で集会が予定されている。2007年の県民大会から2年が経ち、あらためて大会決議の実現を民主党を中心とした新政権に求めるのが集会の趣旨とされている。ただ、集会の直接的な目的は「集団自決」(強制集団死)に関するものであったとしても、私たちはもっと広く深くこの問題を考えなければならない。
 大江・岩波沖縄戦裁判で原告側を支援してきた自由主義史観研究会などの右派グループは、「集団自決」の強制記述を削除させる狙いを持って同裁判に関わっていた。彼らはそれ以前に中学の歴史教科書から慰安婦の記述を削除させたという成果に踏まえて、今度は「集団自決」の軍命、強制の否定と教科書からの記述削除を実現する取り組みに着手したのである。つまり、慰安婦と「集団自決」の強制記述削除の問題は、右派勢力による一連の攻撃としてあり、そこには旧日本軍=皇軍の否定面を隠蔽し、その名誉を回復するという意図が貫かれているのである。
 そのことを考えれば私たちは、「集団自決」の強制記述を復活させる取り組みとあわせて、慰安婦の記述復活の取り組みも進める必要がある。慶良間諸島における問題は「集団自決」だけではなく、島の住民や朝鮮人軍属の日本軍による虐殺、そして軍司令部によって送られて来た朝鮮人慰安婦の問題もあるのである。この三点が総合的に検証されることで、慶良間諸島における旧日本軍=皇軍の実態が明かとなり、その問題がより深くとらえられるはずである。
 2年前の9・29県民大会の際、私は現場から生中継している琉球朝日放送の番組に出ていた。番組の中で、藤岡信勝氏が日本軍の名誉を汚す三点セットとして南京大虐殺、従軍慰安婦、「集団自決」の三つを挙げ、教科書から削除させようと追求してきたことに触れたのだが、あらためてこの三点の関連を押さえ、「集団自決」の強制記述の復活と慰安婦の記述復活の要求を同時に進めることの必要性、大切さを確認したい。

※梅澤氏の「戦斗記録」では座間味島に送られた慰安婦は〈女傑の店主〉を含めて六人となっているが、川田氏及び関根氏の著作では七人となっている。

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4 コメント

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朝鮮人軍夫のこと (ni0615)
2009-09-16 22:31:24
御題名の範囲でお許しを!

もう知る人ゾ知るでしょうが、渡嘉敷島に送られた朝鮮人軍夫の所属部隊名と、<日本名>姓名リストがわかりました。目取真さまの人脈の中から、この問題の専門家にお知らせいただけないでしょうか?

部隊名
特設水上勤務隊第104中隊
ここまでは既知でしたが、その第1小隊であることが分かりました。

その名簿は、
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301118_00
で、そのP28「第1小隊第2分隊」の中に、曽根一等兵の脱走事件関係者の名があります。

詳細は、キー坊さんの質問に答えましたので、お読みください。
http://keybowokinawan.blog54.fc2.com/blog-entry-90.html#comment501
返信する
与那国島に埋葬された慰安婦 (阪神)
2009-09-16 23:19:45
こんにちは。与那国島の久部良港のどこかに、米軍の襲撃で死んだ慰安婦50人弱の遺骨が埋葬されたそうですが、その遺骨がどうなったかは不明です。調査さえされていないのだと思います。いつか調べたいと考えています。
返信する
名簿 (キー坊)
2009-09-17 14:06:00
ni0615さんの発掘された「特設水上勤務隊第104中隊・第1小隊陣中日誌」の名簿、もっと早く知られたいたら、曾根一等兵と逃げた軍夫や慰安婦の消息が判る可能性が高かったと思います。生存者からの証言が得られる可能性もあり、渡嘉敷島赤松隊の朝鮮人軍夫処遇の実態が判ったかと思います。
だが、防衛庁はあえて早期に公開しなかったのかも知れません。
返信する
書誌データ (ni0615)
2009-09-18 08:48:38
書誌データを挙げさせて頂きます

内閣府 沖縄戦関係資料閲覧室
http://www.okinawa-sen.go.jp/
より

■特設水上勤務第104中隊(昭和19.9) 陣中日誌
防衛庁 戦時資料  配架場所:B03防衛庁
整理番号: B03-1-118
収蔵文書名:
簿冊名: 特設水上勤務第104中隊(昭和19.9) 陣中日誌(※)
原本所蔵機関: 防衛研究所
請求番号: 沖台 沖縄232

この巻末に「軍夫編成表」があり氏名一覧が書かれています。
「軍夫編成表」は単独で資料としてもエントリーされています。

■特設水上勤務第104中隊軍夫編成表(昭和19.9)
防衛庁 戦時資料  配架場所:B03防衛庁
整理番号: B03-4-118
収蔵文書名:
簿冊名: 特設水上勤務第104中隊軍夫編成表(昭和19.9)(※)
原本所蔵機関: 防衛研究所
請求番号: 沖台 沖縄232

なお、以下は戦後の報告資料です。
■特設水上勤務第104中隊史実資料
防衛庁 戦後資料  配架場所:B03防衛庁
整理番号: B03-5-264
収蔵文書名: 特設水上勤務第104中隊史実資料
簿冊名: 船舶部隊史実資料(3)(※)
原本所蔵機関: 防衛研究所
請求番号: 沖台 沖縄207

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