今から66年前の1944年6月29日午前7時20分頃、徳之島東方海上を沖縄に向かって航行していた富山丸が米潜水艦の攻撃を受けて沈没した。乗船していた4千数百名の将兵のうち3700名を超す死者が出て、一隻の犠牲者としては世界の海難史上でも最大級の惨事となった。
本ブログの2009年10月10日「十・十空襲の証言」で紹介したK氏は、この富山丸遭難事件の生存者でもある。操舵室で対潜監視にあたっていて魚雷があたる瞬間を目撃したことや、海上火災の様子、徳之島漁民の救出など体験を聞かせていただいた。当時の状況を伝える貴重な証言だと思うので紹介したい。なお、乗船者数や生存者数など一部で既存の資料と異同があるが、そのままにしてある。関心のある方は各自で検証をお願いしたい。
目取真:Kさんが沖縄に来られたのは、いつ頃なんですか?
K:私が沖縄に行った時ですか?昭和19年の7月1日頃だと思います。6月29日に徳之島沖で富山丸が沈んでいますから、その富山丸に乗ってたんですよ、私だけは特別に。電探中隊って言っていたんですけどね、電波探知機の最新型を富山丸に積み込んでいたんです。それを運ぶために私と田中というのと、もうひとり誰だったかな、3人ぐらいが富山丸に乗ったんです。そして徳之島沖で沈められました。そしてまた沖縄に行ったんです。7月の2日か3日頃じゃなかったかなと思います。日付はよく覚えておりません。7月の5日以内です、19年のですね。
目取真:沈められた船に乗っていたということは、助けられたわけですか?
K:そうです。徳之島で助けられましてですね、古仁屋の憲兵隊で取り調べを受けて、それから沖縄に行ったんです。
目取真:富山丸が撃沈させられて、亡くなった方は?
K:富山丸はですね、犠牲が大きかったんですよ。6000人ぐらい乗っておりましてですね、助かったのが300人とか言っておりました。
目取真:300人の中のひとり?
K:300人の中のひとりで、そのうちで五体満足で助かったのが30人とか言っていました。
目取真:ああ、そうですか。
K:はい。だから6000人の中の30人のうちのひとりです。
目取真:大変な目に遭われてるんですね、沖縄に来る前に。
K:そうですね、私なんかを連れてきたオギておっしゃるお方、鹿児島の方なんですけどね、亡くなりました、一緒に泳いでおりましてね。
目取真:いったん海上に投げ出されて、泳いでいるところを救出されたんですね?
K:そうです。もう泳ぐというよりも、救命胴着を着けとったから、運のいいことに仰向けに浮かんどったんですね、ですからよかったんですよ。田中というのもすぐ近くにおりましてな、一緒に助かったんですよ。
目取真:救命胴着は、魚雷攻撃を受けてから着けたわけですね?
K:いやいや、その前にですね。
目取真:すでに着けてたんですか?
K:私なんかはですね、もともと富山丸に乗る人員じゃなかったわけですよ。機材を運んだ時についでに富山丸に乗っちゃったんです。元々の人員じゃないから、部隊も実際の本隊はカイジョウ丸というのに乗っているんですよ。私なんかは結局あの、使役て言っていますけどね、なんて言いますかね、小さい役割をするような、そういう役割でふたり抜き出されて、荷物を受け取って、富山丸に乗ったんです。
それで、元々が富山丸の部隊ではないから、指揮官もいないんですよね。そこに確かオギとおっしゃる方がですね、私は鉄道におりましたから、鉄道錬成所というところに配属将校でおられた方がですね、ひょっこりお会いしまして、こうこういうことだと言ったら、それじゃあお前らは対潜監視をしろ、ふたりで潜水艦の監視をしろということで、船長室も操舵室も一緒だったと思いますが、そこにふたりとも救命胴着を着けて、双眼鏡を持たされて潜水艦を見張っていたんです。
潜水艦というのは見たことない、1回も。だからどんなものかも知らない。それで仕様がないから飛び魚が飛んでいくのを、双眼鏡でそういうのを見て、楽しむというのはおかしいけどな、そういうのを見て楽しんでいたんです。
目取真:そのときに魚雷でやられたんですか?
K:ええ、29日の朝7時頃ですね、ぎょらーい、という声がしたから見てみたらですね、魚雷が3本こう走って来よったです。
目取真:見えるわけですか。
K:そう、船に目がけてですね、3発の魚雷が走ってくるのが見えてました。それで船長さん一生懸命舵回してあれするけど、全然船が大きいから動かないんですよ。そして1発目はすーっと抜けたんですね。あと2発が当たっちゃった。それで当たった時に、ゴンと音がしたんですよ。その魚雷が後返ったんですよ、当たってすぐですね。ああ、よかった、と思ったらガーンときまして、それっきり覚えてないんですよ。それでおそらく船長室のガラス窓を突き破って、外に投げ出されたと思うんです。
目取真:吹き飛ばされたわけですか?
K:それであの、仰向けにいたところに救助されましてね。
目取真:気がついたら海の上にいたわけですか?
K:そうそうそう、うるさいなーと思っておりましたら、周りにですね、バシッて海の底から火が上がってくるんですよ。それがバーッと海に広がりましてね、燃えるんですよ。顔はもう火傷で、ふたりとももう人間じゃないような格好、油が真っ黒に付きましてね。
目取真:その時にもし救命着を着けていなければ…。
K:もうお陀仏ですよね。
目取真:本当に運がよかったというか、幸いだったわけですね。
K:はい。ひとつはですね、いいことを聞いておったんですよ、先輩の兵隊からですね。お前らは船に乗ったら必ず救命胴着を着けとけよと。やられたら銃剣も鉄砲も捨ててしまえよと。あれね、持っとったら浮かばないよ。だからあれ捨てないとダメだぞ、ということを聞いてたんです。ですから鉄砲は持っていなかったですけども、銃剣やらですね、重いものは捨てて。
目取真:ほかにも何かそういった教えられたものはあったんですか?仰向けに浮かんでたからよかったとありましたよね。
K:銃剣持っとったらですね、うつむけだったと思いますよ、弾なんか持っとる場合はですね。だけどそれは船長室に入る時に、はずしてしもうとったからですね、それで都合のいいことに仰向けだったんです。ほんと運がよかったんですよ。それで6000人の中の30人に入っとった。
目取真:その後に何という船に助けられたわけですか?仲間の船が……。
K:いえ、徳之島からの鰹船、漁船がいっぱい走ってきましてね……。
目取真:助けにきたわけですか?
K:はい。漁船がいっぱい走ってきまして、それに助けられまして。
目取真:で、いったんは徳之島に行かれたわけですね。
K:ええ、徳之島に行きましたら、おじいさんとおばあさんと娘さん、3人暮らしだったんですよ。居心地がいいんですよ。兵隊さんが流れ着いたということで鶏を殺したり、豚を殺したりして御馳走をしてくださるんですよ、兵隊さんが流れ着いたと。もう顔は痛いでしょう、すると椰子油ですかね、ああいうの顔に塗ってもらったりしましてね。火傷は手と顔だけでしたから、それで手当を受けましてな、居心地がいいもんだから1週間ぐらいそこに居ったんですよ、届け出はしないで。
目取真:徳之島の何さんか名前は分かりますか?
K:分からないんですよ。終戦後3回徳之島に探しに行ったんですけどね、名前分からないんです。場所も分からないんですよ。
目取真:その後また部隊の方に帰ったわけですか?
K:1週間ぐらいおりましてね、そしたら駐在巡査と、それから憲兵とやってきて、古仁屋の憲兵隊に連れていかれたんです。そこで、脱走した、抜け出したということで、さんざん取り調べを受けましてね。厳しい取り調べを受けて、ま、脱走したって言われたら仕様がないけども、届け出もしないし、居心地がよかったから、もうそのまましとったからですね。それで脱走したとさんざんいじめられましてね。それからまた沖縄に行かされたんですよ。
以上、証言終わり。
本ブログの2009年10月10日「十・十空襲の証言」で紹介したK氏は、この富山丸遭難事件の生存者でもある。操舵室で対潜監視にあたっていて魚雷があたる瞬間を目撃したことや、海上火災の様子、徳之島漁民の救出など体験を聞かせていただいた。当時の状況を伝える貴重な証言だと思うので紹介したい。なお、乗船者数や生存者数など一部で既存の資料と異同があるが、そのままにしてある。関心のある方は各自で検証をお願いしたい。
目取真:Kさんが沖縄に来られたのは、いつ頃なんですか?
K:私が沖縄に行った時ですか?昭和19年の7月1日頃だと思います。6月29日に徳之島沖で富山丸が沈んでいますから、その富山丸に乗ってたんですよ、私だけは特別に。電探中隊って言っていたんですけどね、電波探知機の最新型を富山丸に積み込んでいたんです。それを運ぶために私と田中というのと、もうひとり誰だったかな、3人ぐらいが富山丸に乗ったんです。そして徳之島沖で沈められました。そしてまた沖縄に行ったんです。7月の2日か3日頃じゃなかったかなと思います。日付はよく覚えておりません。7月の5日以内です、19年のですね。
目取真:沈められた船に乗っていたということは、助けられたわけですか?
K:そうです。徳之島で助けられましてですね、古仁屋の憲兵隊で取り調べを受けて、それから沖縄に行ったんです。
目取真:富山丸が撃沈させられて、亡くなった方は?
K:富山丸はですね、犠牲が大きかったんですよ。6000人ぐらい乗っておりましてですね、助かったのが300人とか言っておりました。
目取真:300人の中のひとり?
K:300人の中のひとりで、そのうちで五体満足で助かったのが30人とか言っていました。
目取真:ああ、そうですか。
K:はい。だから6000人の中の30人のうちのひとりです。
目取真:大変な目に遭われてるんですね、沖縄に来る前に。
K:そうですね、私なんかを連れてきたオギておっしゃるお方、鹿児島の方なんですけどね、亡くなりました、一緒に泳いでおりましてね。
目取真:いったん海上に投げ出されて、泳いでいるところを救出されたんですね?
K:そうです。もう泳ぐというよりも、救命胴着を着けとったから、運のいいことに仰向けに浮かんどったんですね、ですからよかったんですよ。田中というのもすぐ近くにおりましてな、一緒に助かったんですよ。
目取真:救命胴着は、魚雷攻撃を受けてから着けたわけですね?
K:いやいや、その前にですね。
目取真:すでに着けてたんですか?
K:私なんかはですね、もともと富山丸に乗る人員じゃなかったわけですよ。機材を運んだ時についでに富山丸に乗っちゃったんです。元々の人員じゃないから、部隊も実際の本隊はカイジョウ丸というのに乗っているんですよ。私なんかは結局あの、使役て言っていますけどね、なんて言いますかね、小さい役割をするような、そういう役割でふたり抜き出されて、荷物を受け取って、富山丸に乗ったんです。
それで、元々が富山丸の部隊ではないから、指揮官もいないんですよね。そこに確かオギとおっしゃる方がですね、私は鉄道におりましたから、鉄道錬成所というところに配属将校でおられた方がですね、ひょっこりお会いしまして、こうこういうことだと言ったら、それじゃあお前らは対潜監視をしろ、ふたりで潜水艦の監視をしろということで、船長室も操舵室も一緒だったと思いますが、そこにふたりとも救命胴着を着けて、双眼鏡を持たされて潜水艦を見張っていたんです。
潜水艦というのは見たことない、1回も。だからどんなものかも知らない。それで仕様がないから飛び魚が飛んでいくのを、双眼鏡でそういうのを見て、楽しむというのはおかしいけどな、そういうのを見て楽しんでいたんです。
目取真:そのときに魚雷でやられたんですか?
K:ええ、29日の朝7時頃ですね、ぎょらーい、という声がしたから見てみたらですね、魚雷が3本こう走って来よったです。
目取真:見えるわけですか。
K:そう、船に目がけてですね、3発の魚雷が走ってくるのが見えてました。それで船長さん一生懸命舵回してあれするけど、全然船が大きいから動かないんですよ。そして1発目はすーっと抜けたんですね。あと2発が当たっちゃった。それで当たった時に、ゴンと音がしたんですよ。その魚雷が後返ったんですよ、当たってすぐですね。ああ、よかった、と思ったらガーンときまして、それっきり覚えてないんですよ。それでおそらく船長室のガラス窓を突き破って、外に投げ出されたと思うんです。
目取真:吹き飛ばされたわけですか?
K:それであの、仰向けにいたところに救助されましてね。
目取真:気がついたら海の上にいたわけですか?
K:そうそうそう、うるさいなーと思っておりましたら、周りにですね、バシッて海の底から火が上がってくるんですよ。それがバーッと海に広がりましてね、燃えるんですよ。顔はもう火傷で、ふたりとももう人間じゃないような格好、油が真っ黒に付きましてね。
目取真:その時にもし救命着を着けていなければ…。
K:もうお陀仏ですよね。
目取真:本当に運がよかったというか、幸いだったわけですね。
K:はい。ひとつはですね、いいことを聞いておったんですよ、先輩の兵隊からですね。お前らは船に乗ったら必ず救命胴着を着けとけよと。やられたら銃剣も鉄砲も捨ててしまえよと。あれね、持っとったら浮かばないよ。だからあれ捨てないとダメだぞ、ということを聞いてたんです。ですから鉄砲は持っていなかったですけども、銃剣やらですね、重いものは捨てて。
目取真:ほかにも何かそういった教えられたものはあったんですか?仰向けに浮かんでたからよかったとありましたよね。
K:銃剣持っとったらですね、うつむけだったと思いますよ、弾なんか持っとる場合はですね。だけどそれは船長室に入る時に、はずしてしもうとったからですね、それで都合のいいことに仰向けだったんです。ほんと運がよかったんですよ。それで6000人の中の30人に入っとった。
目取真:その後に何という船に助けられたわけですか?仲間の船が……。
K:いえ、徳之島からの鰹船、漁船がいっぱい走ってきましてね……。
目取真:助けにきたわけですか?
K:はい。漁船がいっぱい走ってきまして、それに助けられまして。
目取真:で、いったんは徳之島に行かれたわけですね。
K:ええ、徳之島に行きましたら、おじいさんとおばあさんと娘さん、3人暮らしだったんですよ。居心地がいいんですよ。兵隊さんが流れ着いたということで鶏を殺したり、豚を殺したりして御馳走をしてくださるんですよ、兵隊さんが流れ着いたと。もう顔は痛いでしょう、すると椰子油ですかね、ああいうの顔に塗ってもらったりしましてね。火傷は手と顔だけでしたから、それで手当を受けましてな、居心地がいいもんだから1週間ぐらいそこに居ったんですよ、届け出はしないで。
目取真:徳之島の何さんか名前は分かりますか?
K:分からないんですよ。終戦後3回徳之島に探しに行ったんですけどね、名前分からないんです。場所も分からないんですよ。
目取真:その後また部隊の方に帰ったわけですか?
K:1週間ぐらいおりましてね、そしたら駐在巡査と、それから憲兵とやってきて、古仁屋の憲兵隊に連れていかれたんです。そこで、脱走した、抜け出したということで、さんざん取り調べを受けましてね。厳しい取り調べを受けて、ま、脱走したって言われたら仕様がないけども、届け出もしないし、居心地がよかったから、もうそのまましとったからですね。それで脱走したとさんざんいじめられましてね。それからまた沖縄に行かされたんですよ。
以上、証言終わり。