6月23日は沖縄戦慰霊の日で、糸満市摩文仁の平和祈念公園で行われる県主催の全戦没者追悼式をはじめ、県内各地で慰霊祭が行われた。去年に続いて今年も、本部町八重岳にある三中学徒之碑慰霊祭、県立名護高校で行われた南燈慰霊之碑慰霊祭、少年護郷隊之碑慰霊祭、和魂の碑に足を運んだ。
三中学徒之碑は本部町八重岳の山頂につづく道の途中にある。碑の正面には日米両軍の戦闘が行われた真部山があり、学友たちの多くが戦死した近くに慰霊之碑を建て、目の前で慰霊祭を行いたい、という元学徒兵の皆さんの思いが伝わってくる。
吹奏者が亡くなったため、今はテープ録音で流されるラッパの音に合わせて黙祷を行った。
慰霊祭を主催している三三会会長・大城氏のあいさつのあと、遺族、同窓生の焼香が行われた。
全員で三中校歌を斉唱し、慰霊祭を閉じた。
そのあと残った皆さんでオードブルや供えられたサーターアンダギー、重箱などを囲んで1時間ほど話にふけった。
羽地出身(1929年・昭和4年生)のK氏からお話をうかがった。八重岳での戦闘のあと、多野岳に移動してからの体験である。以下に記録しておきたい。
多野岳に海軍の白石部隊がやってきて、恩納まで案内してくれと言われたので、自分ともう一人で案内したが、(米軍がいて)金武の喜瀬武原までしか行けなかった。
自分は第2護郷隊に入ろうと思って、(護郷隊の)中隊長だったと思うが、入れてくれと頼んだ。中隊長は、日本はもうダメだ、君たちが竹槍で突っ込んだからどうなるというものではない、と言って、入れてくれなかった。当時はそういうことを言ってはならなかったが。
夜、喜瀬武原の林道で、(照明弾で)突然明るくなって、明るくなると銃弾が撃ち込まれよったが、右足に貫通銃創を負った。(ふくらはぎの)肉を撃ち抜かれて、骨には当たらなかったから、身体障害者にならなくてすんだ。今も傷が残っている。
足に触ったらヌルヌルする。臭いをかいだら血の臭いがした。弾が当たったと分かったら急に痛み出して、余りに痛くて立てなくなり、倒れた。他に子どもと女の人が撃たれた。子どもは尻から弾が入り腹の中で止まって、胃が破裂していた。
(一緒にいた人たちが)三人を林道から民家に運んでくれた。翌朝、連れに来ると言っていたが、来ないのは分かっていた。子どもは翌朝死んだ。
3日ぐらいして米軍がやってきた。最初は5、6名だったが、やがて30名ぐらいやって来た。様子を見て戻っていった。(残った)米兵が木を切ってきて、布団で担架を作って運んでくれた。
最初は殺されると思っていた。ガムをくれよったが、もう丸飲み。米兵は親切だったが、中には睨みつける兵隊もいた。女の人も一緒だったから殺さなかったのかもしれない。一人だけだったら、あの睨みつけていた兵隊に撃たれていたかもしれない。捕虜になったのは6月の3日か4日だった。
三中学徒之碑は本部町八重岳の山頂につづく道の途中にある。碑の正面には日米両軍の戦闘が行われた真部山があり、学友たちの多くが戦死した近くに慰霊之碑を建て、目の前で慰霊祭を行いたい、という元学徒兵の皆さんの思いが伝わってくる。
吹奏者が亡くなったため、今はテープ録音で流されるラッパの音に合わせて黙祷を行った。
慰霊祭を主催している三三会会長・大城氏のあいさつのあと、遺族、同窓生の焼香が行われた。
全員で三中校歌を斉唱し、慰霊祭を閉じた。
そのあと残った皆さんでオードブルや供えられたサーターアンダギー、重箱などを囲んで1時間ほど話にふけった。
羽地出身(1929年・昭和4年生)のK氏からお話をうかがった。八重岳での戦闘のあと、多野岳に移動してからの体験である。以下に記録しておきたい。
多野岳に海軍の白石部隊がやってきて、恩納まで案内してくれと言われたので、自分ともう一人で案内したが、(米軍がいて)金武の喜瀬武原までしか行けなかった。
自分は第2護郷隊に入ろうと思って、(護郷隊の)中隊長だったと思うが、入れてくれと頼んだ。中隊長は、日本はもうダメだ、君たちが竹槍で突っ込んだからどうなるというものではない、と言って、入れてくれなかった。当時はそういうことを言ってはならなかったが。
夜、喜瀬武原の林道で、(照明弾で)突然明るくなって、明るくなると銃弾が撃ち込まれよったが、右足に貫通銃創を負った。(ふくらはぎの)肉を撃ち抜かれて、骨には当たらなかったから、身体障害者にならなくてすんだ。今も傷が残っている。
足に触ったらヌルヌルする。臭いをかいだら血の臭いがした。弾が当たったと分かったら急に痛み出して、余りに痛くて立てなくなり、倒れた。他に子どもと女の人が撃たれた。子どもは尻から弾が入り腹の中で止まって、胃が破裂していた。
(一緒にいた人たちが)三人を林道から民家に運んでくれた。翌朝、連れに来ると言っていたが、来ないのは分かっていた。子どもは翌朝死んだ。
3日ぐらいして米軍がやってきた。最初は5、6名だったが、やがて30名ぐらいやって来た。様子を見て戻っていった。(残った)米兵が木を切ってきて、布団で担架を作って運んでくれた。
最初は殺されると思っていた。ガムをくれよったが、もう丸飲み。米兵は親切だったが、中には睨みつける兵隊もいた。女の人も一緒だったから殺さなかったのかもしれない。一人だけだったら、あの睨みつけていた兵隊に撃たれていたかもしれない。捕虜になったのは6月の3日か4日だった。