1944年6月19日と20日にマリアナ沖海戦が行われた。今から65年前のことである。この海戦によって日本海軍は、新型空母「大鳳」をはじめ「翔鶴」「飛鷹」が撃沈され、さらに空母「瑞鶴」「隼鷹」など4隻の空母が損傷を受ける。撃墜されたり未帰還となった航空機は370機余におよび、この大敗によって第一機動艦隊は海上航空戦力を喪失する。レーダー技術を進歩させ、近接信管や新型機を導入した米軍に対し、零戦はすでに性能の優位性を失い、熟練飛行士の多くを失っていた日本軍は、とうてい太刀打ちできなかった。遠距離から攻撃を行った戦術面の失敗も指摘されている。
その4日前の6月15日、米軍はサイパン島に上陸した。6月中旬のこの時期、時を一年隔ててサイパン島と沖縄島では、米軍の圧倒的な物量の前に敗走する日本軍と、砲火に追われて逃げまどう住民の悲惨な状況が生み出されていた。
駐日新聞社会部編『烈日サイパン島』(東京新聞出版局)には、米軍上陸後、タッポーチョ山一帯へ逃げていった住民の様子が記されている。
〈小さな島サイパン島目がけて行われた艦砲射撃は、無制限、無差別だった。民間邦人が相ついで犠牲になり、サイパン戦をいっそう悲劇的なものにした。
サイパン戦は民間邦人を巻き込んだ初めての戦闘であった。赤ちゃんまでを含む非戦闘員を戦火の中に巻き込んだ。日米軍首脳が非戦闘員の配慮をしたかどうか、うかがい知ることはできないが、無差別艦砲攻撃を見る限り、配慮ある戦いとはとてもいえない〉(122ページ)。
〈在留邦人および民間人が住んでいたのはチャランカノア、ガラパン周辺である。南洋興発と官公庁の所在地だからだ。分断されたのはアギガン、ナフタン岬方面の農家や鉱業にたずさわる人々だったが、ガラパン、チャランカノアに住んでいた人々は、まず、タッポーチョ山、ドンニイを目ざして避難した。小さな島だから、民間人はどこに水があり、どこに洞くつがあるかを十分に知っていた。
ドンニイは島の東側のやや北寄りの山ふところにある水源地である。水の少ないこの島で、十分な水を得られるのはここくらいで、さらに軍の物資集積所があった。
また、タッポーチョ山は島で一番大きく高い山で、ドンニイの西にそびえている。山ろく、中間地帯に沢山の洞くつがある。
民間人がタッポーチョやドンニイを目ざしたのは、弱い人間の行動の当然の帰結であった。
だが、サイパン戦の悲劇は、民間人と共に軍も同じ方向へ後退し、目ざしたことによって倍加した。女づれの兵隊、子づれの兵隊が戦える道理はないし、一方、米軍も民間人、兵士を区別して攻撃するわけにはいかない。いっしょくたの砲撃、銃、爆撃で倒れていったのである〉(124~125ページ)。
〈サイパン島の民間人で、戦争初期、組織的に働いた人々もたくさんいた。警防団、青年団の人々である。これらは、チャランカノア方面の人々が多い。米軍が上陸する前、南洋興発会社の若い職員を中心に、軍の後方勤務要員として働き、ついで、軍がタッポーチョ山ろく、ドンニイ方面へ後退するとき、道案内や荷物の運搬役として働いたのである。
あわれなのはガラパンの料亭、軍の慰安所で働いていた女たちである。逃げても逃げきれないと思ったのか、各地で首をくくって死んだ。色あざやかな長じゅばん姿で、密林の中の木に首をつっているのを、兵士たちは敗走の途中、たくさん見た〉(126ページ)。
〈しかし、柏木一家はまだおとなだけだからよかった。子供づれの一家はもっと悲惨だった。
ガラパン町タッポーチョで農業を経営していた渡辺幸子の一家は両親と幸子だけがおとなで、あとは小さな子供が五人ぶら下がっていた。夜になると、日本軍兵士の死体をあさった。水筒をゆすり、水があるかどうか、ポケットをさぐり、食べるものがあるかどうか。やせさらばえた子供たちは餓鬼そのものだった〉(127ページ)。
引用した文章を読んで、何と沖縄戦に似ていることか、と思った人は多いだろう。サイパン戦が「第二の沖縄戦」と言われたりするのは、民間人の犠牲者に沖縄人が多かっただけでなく、戦闘や犠牲の様相も酷似しているからである。違いがあるとすれば、サイパン戦は島が小さく日本軍の兵力規模も小さかったため、米軍上陸後ほどなくして沖縄戦の末期に近い状況になったということか。
2年前の6月に、沖縄戦を戦った元日本兵の方から当時の話を聴いた。南部に逃げていくとき、襟章を剥ぎ取って重い銃を捨て、兵隊の遺体を見つけると持ち物や衣服をあさり、食糧を持っていないか探したと話していた。ほとんどはすでに取られていて、見つからなかったそうだ。その方は、死んでいった仲間に謝りたい、とも言っていた。
その4日前の6月15日、米軍はサイパン島に上陸した。6月中旬のこの時期、時を一年隔ててサイパン島と沖縄島では、米軍の圧倒的な物量の前に敗走する日本軍と、砲火に追われて逃げまどう住民の悲惨な状況が生み出されていた。
駐日新聞社会部編『烈日サイパン島』(東京新聞出版局)には、米軍上陸後、タッポーチョ山一帯へ逃げていった住民の様子が記されている。
〈小さな島サイパン島目がけて行われた艦砲射撃は、無制限、無差別だった。民間邦人が相ついで犠牲になり、サイパン戦をいっそう悲劇的なものにした。
サイパン戦は民間邦人を巻き込んだ初めての戦闘であった。赤ちゃんまでを含む非戦闘員を戦火の中に巻き込んだ。日米軍首脳が非戦闘員の配慮をしたかどうか、うかがい知ることはできないが、無差別艦砲攻撃を見る限り、配慮ある戦いとはとてもいえない〉(122ページ)。
〈在留邦人および民間人が住んでいたのはチャランカノア、ガラパン周辺である。南洋興発と官公庁の所在地だからだ。分断されたのはアギガン、ナフタン岬方面の農家や鉱業にたずさわる人々だったが、ガラパン、チャランカノアに住んでいた人々は、まず、タッポーチョ山、ドンニイを目ざして避難した。小さな島だから、民間人はどこに水があり、どこに洞くつがあるかを十分に知っていた。
ドンニイは島の東側のやや北寄りの山ふところにある水源地である。水の少ないこの島で、十分な水を得られるのはここくらいで、さらに軍の物資集積所があった。
また、タッポーチョ山は島で一番大きく高い山で、ドンニイの西にそびえている。山ろく、中間地帯に沢山の洞くつがある。
民間人がタッポーチョやドンニイを目ざしたのは、弱い人間の行動の当然の帰結であった。
だが、サイパン戦の悲劇は、民間人と共に軍も同じ方向へ後退し、目ざしたことによって倍加した。女づれの兵隊、子づれの兵隊が戦える道理はないし、一方、米軍も民間人、兵士を区別して攻撃するわけにはいかない。いっしょくたの砲撃、銃、爆撃で倒れていったのである〉(124~125ページ)。
〈サイパン島の民間人で、戦争初期、組織的に働いた人々もたくさんいた。警防団、青年団の人々である。これらは、チャランカノア方面の人々が多い。米軍が上陸する前、南洋興発会社の若い職員を中心に、軍の後方勤務要員として働き、ついで、軍がタッポーチョ山ろく、ドンニイ方面へ後退するとき、道案内や荷物の運搬役として働いたのである。
あわれなのはガラパンの料亭、軍の慰安所で働いていた女たちである。逃げても逃げきれないと思ったのか、各地で首をくくって死んだ。色あざやかな長じゅばん姿で、密林の中の木に首をつっているのを、兵士たちは敗走の途中、たくさん見た〉(126ページ)。
〈しかし、柏木一家はまだおとなだけだからよかった。子供づれの一家はもっと悲惨だった。
ガラパン町タッポーチョで農業を経営していた渡辺幸子の一家は両親と幸子だけがおとなで、あとは小さな子供が五人ぶら下がっていた。夜になると、日本軍兵士の死体をあさった。水筒をゆすり、水があるかどうか、ポケットをさぐり、食べるものがあるかどうか。やせさらばえた子供たちは餓鬼そのものだった〉(127ページ)。
引用した文章を読んで、何と沖縄戦に似ていることか、と思った人は多いだろう。サイパン戦が「第二の沖縄戦」と言われたりするのは、民間人の犠牲者に沖縄人が多かっただけでなく、戦闘や犠牲の様相も酷似しているからである。違いがあるとすれば、サイパン戦は島が小さく日本軍の兵力規模も小さかったため、米軍上陸後ほどなくして沖縄戦の末期に近い状況になったということか。
2年前の6月に、沖縄戦を戦った元日本兵の方から当時の話を聴いた。南部に逃げていくとき、襟章を剥ぎ取って重い銃を捨て、兵隊の遺体を見つけると持ち物や衣服をあさり、食糧を持っていないか探したと話していた。ほとんどはすでに取られていて、見つからなかったそうだ。その方は、死んでいった仲間に謝りたい、とも言っていた。