鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

明治四十一年の鳥海山参拝者の記録(八月十九日から二十日にかけて)

2020年11月10日 | 鳥海山

 私ハ昨日十二頃出発ノトコロ安治君ハユカレジ

 ソレデ私一人昨日五時ニシュッパツシタ

 酒田ニツイタノハ九時デシタ

 途中ハ非常ニアツクルシイノデ氷水ヤアイシクリームナンゾハナニヨリ御馳走デシタ

 鳥海山ノ登口蕨岡ニ着イタノハ午後二時近クデアッタ

 阿部源靜トカ云フ家ニ宿ヲトリマシタ

 ソノ御馳走ト申シタラタマゲタモノデ仲チャンヤババ様ナンゾハタベタコトハアルマイシ又タベルコトモデキナイデシヨー、

 又オ膳ヤオ椀ナンゾモ三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ

 ネドコモソノトホリ実ニ閉口シタ

 ソレデ今日午前一時ニ山登ヲシタ

 山頂ニハ十時ニツキマシタ

 参詣シテ帰リ途ニ向ッタノハ十二時半吹浦ニツイタノハ四時半

 酒田ニツイタノハ八時五十分頃都合二十三里ヲ歩ンダ

 面白イ話ハ山々アルケレドオアイ申シテかラ

 (読みやすいように段落をつけました。)

 (松本良一「鳥海山信仰史」より)

 文化時代の蕨岡宿坊の図です。大物忌神社(現在の)はこの右方にあります。

 さて、ここに登場する「阿部源靜トカ云フ家」は上の図の清水坊です。清水坊さんは現在蕨岡には在住していません。(大物忌神社発行「自然・歴史・文化 鳥海山」に拠る)

 面白いですね。生き生きとして当時の様子が表れています。宿坊の食事や寝床の様子はまるで山頂小屋と同じようですね。山頂は今は発泡スチロールの使い捨て容器ですけれど、山頂も蕨岡の宿坊も昔は相当年代物の食器を使っていたのではないでしょうか。書かれた清水坊さんはたまったものではありませんが、当時の宿坊は清水坊に限らず普通の人が泊まったら閉口するものだったのでしょう。

 河原宿の参篭所で味噌汁を出したという話も描き残されていますが宿坊の、献立こそ書かれていませんが、食事や食器、寝床について書かれたものは初めて見ました。「三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ」のあたりは最高に面白いです。当時宿坊はいくらかかったのでしょう。又登拝するにしても途中横堂でお金を払わないとこれより先登ることはできません。これもいくら支払ったものでしょうか。大学教授の研究論文にはそういうことは一切出てきません。またほかの鳥海山について書かれたものにもそういった金銭、金額に関して書かれたものは今のところ見たことがありません。昭和の初めころまで矢島の先達(山案内人)が登山客を山頂まで連れて行くと「キャリ銭」(おそらく「かえり銭」)と称するお金を山頂の神主からもらっていたということは康さんの「一人ぼっちの鳥海山」P.129に書いてあります。

 

 昔の参拝は途中で一泊するんですか?と宿坊の先達に訊いたことがありますが、みな日帰りだったそうです。もちろんブルーラインはないです、蕨岡からです。この便りを見ると午前一時に蕨岡を出て十時に山頂に着いています。歩くこと九時間。帰りは吹浦へ、吹浦まで四時間で降りています。それから酒田まで四時間強の歩きです。これと同じ道を歩いて見てくれなどと言われたら今の山歩きをするどんなタフな人でも音を上げるのではないでしょうか。


コメントを投稿