Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

上深川紀行 (1/3 ):「初春の三篠川」(UT氏管轄「鮎の漁場」)

2006-03-12 18:45:16 | つれずれ紀行
 広島県広島市安佐北区上深川OO番地、UT氏の邸宅前には「三篠川」がある。UT邸(右手)を出て川土手を登り、徒歩約5分にて川に架かる橋の中央部に差し掛かる。川幅(南北にわたる川土手から川土手の間、約200メーターという)
 三篠川に跨る橋の中央部から、西方向に向けて撮影。上流から下流に向けて撮影した。川の流れは、写真前方より右手に曲がり「大田川」に合流の後、広島市内の三角州を形成する「7つの川」に分離する。全ての川は、最終段階にて瀬戸内海へと流れ出でる・・・
そう、
 先週金曜日(3月12日)から本日の昼まで、悪戦苦闘の末、危篤状態であったUT氏のパソコンは元気を回復し、ほぼ平常なる健康状態にまで立ち上がった。無免許ヤブ医者「不肖・エセ男爵」の処方と治療は、功を奏した。我輩、うれしかった。UT氏も喜んでくれた。(これ、すでに話した・・)
 そして本日の早朝、PC全治確認の後、再度ゆとりを持って撮影する為、カメラを持参するつもりであったが、持って行かなかった。残念かな、天気は「小雨」だった。
結果、初日の金曜日(3月10日午前中)に撮影したものを掲載・・・
やや薄曇にて、撮影には不向きな天候。偏光フィルター無しにての撮影の為、川面の反射厳しく、いかにも清らかで、透明度の高い川水の表現は、残念ながら不十分。これまた表現不十分であるが、この川床には適度に角の取れた大きな石(直径1~2メーター)が散在する。まことに以って「鮎の棲家」には最適なる場所と看た。(いや、すでにUT氏の実績があるのだ・・)
 思い起こした。昨年の初夏に、UT氏から立派な鮎の写真が届いた。が、まさにこの場所この川が、UT氏の漁場なのである。これこそ「目と鼻の先」!
朝飯前、いや、晩飯前にこの漁場に徒歩で向かい、釣上げた獲物がそのまま当日夕食の食卓に『鮎の塩焼き』として加わる・・・
(酒の肴によし!)
な、何と、
贅沢なことよ・・・
そして、釣上げたばかりの「鮎」を焼くのに、「竹炭」を使うというから信じれなかった。が、この竹炭の採集場所も生産地も、彼の領地(敷地)内にある。と、云う。(撮影ポイントは足の欄干中央。さらにや云う7~80メーター徒歩で進み川の対岸土手に着く。対岸の川土手下り右に向かうこと、さらに6~7分。UT氏所有の竹林に向かう。

我輩、壮大な規模の竹林に、行った。

この目で、見た。

そして、我輩は、彼の「言」をまのあたりにし、信じた。
「百聞より一見にしかず!」とは、
まさにこのことなり・・・

 <・・続く・・>=UT氏の竹林。

拝啓ショーン・コネリー卿!&ミシェル夫人+旧友UT氏&UT夫人に、感謝・・

2006-03-11 18:29:35 | 研究:「ダンディズム」
何だ?この絵は!「誰が描いたか?って?」・・・ そう、昨年末から始めた「シリーズ・ダンディズムの研究」を思い起こしてほしい。いや、実は昨日、初めて訪ねた「旧友UT君宅」。朝の9時から夕刻6時過ぎまで、丸一日長逗留し、それなりの時間を費やした。
ウイルスに攻撃されつつも、症状感知不可なるUT氏の酷使により、ますます病状悪化。悪化を知らずにまた酷使し、最早臨終寸前の彼のPCは、IT技術知識不明瞭なるド素人の超ヤブ医者「不肖・エセ男爵」医師?の、心温まる素人治療により、なんとか回復の兆しを見たのである。そんなド素人の我輩を、名医と勘違いするUT氏は、事の外、喜んでくれた。本日再度、午後からUT宅にお伺いし、その後の回復状況をチェックする予定を組んだ。

畑、竹やぶ、清き渓流湛える三篠川、檜林の満杯の山々、等々自然あれども、車の騒音等は一切聞かない、聞こえない、届かない・・・
そんなド田舎にある旧友UT君の自宅(大邸宅)、、、。
互いに積もる話多々あるを、随時挟みながら、作業を進める。そんな中、奥様からはコーヒーをご馳走になり昼食をご馳走になり歓待を受けつつ、作業は緩慢に進む。いよいよ、ウイルスチェック。チェックに要する時間はご存知のとおり長い。待ち時間に、友人の勧めにより周囲を散策。まずは、約200メーターの川幅ある三篠川の狭い橋を渡り、彼の竹やぶを案内してもらい、「竹墨(竹炭;事後、訂正挿入)製作現場」を見学。
竹やぶに入れば、いや、彼の自宅のある対岸からも、久しぶりに、本格的な鶯の鳴き声を聞いた。
特にこの数年間、どちらかといえば狭き空間書斎に篭り切り、、、。日々、そんな過ごし方の多い最近の生活空間からUT氏の誘いを受け、広き自然の真っ只中に開放された。大自然に溶け込み、大いに「万物の生きている証」を確認でき、且つ、満喫。
そんな緩やかに進む時間と自然環境の中から、PC回復作業とは別の「あるもの」が見えてきた。
すなわち、
仲睦まじきUT氏御夫妻の「素晴らしき人生の軌跡」も、観た。見えた。感じた。
そして、
旧友UTの「生き様」に、そこはかとない「男の剛さと美しさ」と、「ダンディーな優雅さ」を、推し量る事、できた。

これ、誠に「好日」。
そう、
いつもよりジャンルの違う、楽しい一日であった。

「UT君、ありがとう・・・」

「UT夫人、美味しいコーヒーを入れてくださり、たいへんありがとうございました」

「・・!」

そして、今朝になり、思い出した。
ダンディーシリーズの投稿、少しサボっていたことを・・・
色々宿題が増えた中、ショーンコネリー卿の奥方の「絵画」を発表しなければならない古い宿題があったこと、思い出した。
そして今朝、
古いファイルから一枚の画像を引き抜いた。
これ、
ミシェル婦人の絵筆になる「ショーンコネリー卿」。ミシェル夫人の故郷(たぶん、北アフリカのリゾート地域)にて寛ぐ「コネリー卿」。幾多の、苦楽多き山河と、苦節云十年間、嶮しき山谷を踏み越え乗り越えた卿の半生、無言の中に物語りつつ、もって、今尚ダンディーな初老のショーン卿。

「・・・?」
今一度、研究中・・・
ブログのテーマの一つ、「研究:世界のダンディーたち」は、現在資料収集中にて今暫くの猶予を頂いた後、あらためてシリーズ記事投稿再開の予定です。

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PS:旧友UT氏は、富士山の写真をはじめ、昨年夏は「鮎の写真」、今年正月に立派な「門松」の写真、数日前投稿の「吊るし雛」の画像など数々の「宝物」を贈ってくれた人物である。UT氏のボランチア活動など、少し取材し、あらためて記事にしてみたい、とも思う。

画像:(ショーンコネリー卿Home-Pageより、引用)
 

長編小説「フォワイエ・ポウ」(掲載10回)<第2章(安易な決断)の終了編 ・・>

2006-03-10 00:46:35 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
本田は、燃えていた。(ウム、なんとか我が手で「日銭を稼ぐ」か!でもって、毎月いくら残るか?それが楽しみだ・・・)右肩上がりで作成された計画の通り、本田の気分は十分に右肩上がりであった。時代は、いよいよ昭和から平成に移り変わろうとしていた。そんな頃、本田は初めて夜の業界に参入しよう。と、していた。

(・・第9回掲載、終節より・・)

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掲載済みの「小説フォワイエ・ポウ」を遡ってお読みになりたい方、下記から入れます。

1)第1回掲載「第1章」(メタリックレッドのロールスロイス)(2月9日)
2)第2回掲載(2月10日)
3)第3回掲載「1章」(クリームチーズ・クラッカー)(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載:「1章」完(2月22日)
6)第6回掲載「2章」(安易な決断-1)(2月24日)
7)第7回掲載「2章」(安易な決断-2)(3月1日)
8)第8回連載「2章」(安易な決断-3)(3月3日)
9)第9回掲載「2章」(安易な決断-4)(3月8日)


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『フォワイエ・ポウ』
    著:ジョージ青木

2章

2(古いボトルの贈物)

 (1)

 開店に踏み切ったものの、開店までの基本準備が全くできていなく、未だに開店日も定まらなかった。
本田の事務所も、そのままにした状態であった。つまり事務所を出るとなれば、それなりに経費がかかる。まず、事務所の中の事務用品をどうするか?コピー機に電話機3台とファックス、さらに巨大なワープロとプリンター。事務デスクと事務椅子がそれぞれ3台。金属製の書類入れに書棚。ソファーベッドに小型冷蔵庫から始まり、台所周りの什器などなど、これらをどこかに移動するには、すでに軽トラック程度では絶対に移動できない、誰が見ても一流の事務所設備が整っており、これらは猫の額ほどのワンルームマンション事務所にぎっしりと詰め込まれている。わずか十一㎡しかないワンルームマンションに、よくもまあこれだけのものが入ったものだ。
これらの什器備品の引越先がなかった。売って処分するつもりはない。となれば、ここに置いておくしか処理方法がない。
当分の間、毎月5万円の家賃を支払い続けることにした。事務所に出入りすればおのずと通信費に電気代や水道代が継続して経費支出となる。したがってこれらを家賃と合計すれば、おおよそ8万円以上の経費を引きずることになる。
脱サラして直ぐに開業したこの事務所には、なぜか愛着があった。
(できれば、ここは残したい・・・)
昼の仕事に見切りはつけていたものの、ちょっとはぶりのいい夜の店を持っているオーナーなら、昼間の連絡事務所があっても不思議ではない。迷ったあげく、事務所は残しておいて有効利用することにした。ファックスを含む事務所電話3本のうち、電話専用回線の1回線を、夜のお店に付け替えることにした。さっそく手続きを済ませた。1週間も立たないうち、10円玉と100円玉の両方のコインが入る、本田名義のピンク電話になった本田名義の電話がついた。
ピンク電話に成り代わった自分名義の電話を眺め、本田は単純に喜んだ。
(おう、今まで自分が電話代支払っていたが、今度は自分に代わって、電話をかけた客が電話代を支払ってくれる。ウム、100円玉をいれて、20円分の電話しかしない客も中に入るだろうなあ。こりゃ儲かるぜ。ありがとう「ピンク電話」殿・・・)
本田は、また、独り言を喋っていた。

事務所の中で、本田はあれこれ作戦を立てながら、にわかに自信が沸き上ってきた。
ちょっと視点を変え考え方を変えてみれば、夜の業界参入の最初から、昼間の連絡事務所がもてるなんて結構な事だ。これで夜の店も商売繁盛に繋がる基礎が最初から出来上がったようなもの、我が夜の店は、最初から一流の仲間入りができたも同然だ。こうなると、もう自信をとおりこして過信であり、すでに誇大妄想的である。
(よし、飲み屋がオープンしてからも、自分は先に事務所に出勤しよう。できれば午前中に出勤したい。午前11時が、自分の出社時刻だ。それでよかろう。一通り昼間の事務を済ませる。いよいよ夕方から店に赴こう)
まだ準備中である。開業すらしていない本田の気分は、すでに夜の業界で名を成し功を遂げた如く、気分が良くなり、根拠もなく舞い上がっていた。
飲み屋の出勤には自転車がいい。場合により、若しタクシーに乗ってもわずかワンメーターの距離だ。歩いても20分とかからないであろう。これは正しく自転車に乗る距離だ。自転車であれば、本来なら3分、しかし人ごみの中を走るのだから、そう、約10分か、それくらいはかかる。
まるっきり優先事項にならない問題点ばかりが粛々と解決し決定する。決定事項は本田のあたまの中のリストに記載され、ファイルに蓄積されていた。

それよりもなによりも、一番に決めなければならない事項があった。それは店で唯一の売り物である酒類である。つまりアルコール類の仕入の問題である。
どこかの小売酒屋で酒を買って来て、自分の店で売ればいい、という問題ではない。店で販売する酒を商品として仕入しなければならないのである。すなわち、仕入れ価格で買わなければならないのだ。このあたり、理論的には分かっているが、実感として把握できない本田には、さほどの緊迫感がない。しかし、とにかく仕入先の酒屋をどこにするか?決めなければならない。これについては迷うことなく、家主が紹介してくれた酒屋に決定した。ただ一つ、仕入の酒屋を決めた理由があった。他にこれといった知り合いの酒屋も無く、家主から紹介された酒屋であった。
担当は、酒屋のオーナーの次男坊、市内中区の岡本酒店・岡本洋一君である。年のころ30過ぎの独身の男の子であった。おとなしい雰囲気であるが、どことなく生真面目な雰囲気を持ち、未だ出会ったことのない『誠意』の感じられる男であった。家主に紹介され、初めて挨拶を交わしたその日、なぜか彼には好感が持てた。本田は彼が気に入っていた。
当然ながら、酒の肴も取り扱っていた。
つまり、業界でいうところの『かわきもの一式』を取扱うのである。本田はチーズを扱ってくれるかどうか?尋ねた。答えは、OKだった。サンプルも取り寄せた。よいものがあった。それは、クリームチーズである。近い将来、自分の店で商品として取り扱ってみたいと思い、料金をたずねた。目標の月間取扱い数量や消費数量も前もって伝えた。
翌々日、料金表を持ってきた。小売価格の表示と、この店に卸す卸価格が列記されていた。
チーズの価格表、つまりプライスリストを受け取った。
はずかしながら本田には、その数字が高いものか安いのか、全く見当が付かなかった。
自分が酒屋で買って飲んだ経験がないから、たちまち有名ブランド国産ウイスキーの価格すら、わからない。自分が全く飲まないから、日本酒の値段ときたらこれがさっぱりだめである。自分が飲まないから、興味がないから値段を知ろうとも思わない。缶ビールの値段は自動販売機で分かる程度、しかし大中小の瓶ビール価格にいたっては、これを何度聞いても覚えておらず、今も全く覚えていない。
 
 "Intermission"(・・・休息・・・)

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 (2)
 
 過去、本田の周囲の酒の出入りといえば、贈答品でもらったもの、自分が海外旅行中に免税売店で買ったウイスキーなど、、、。
したがって酒の値段は、当節流行の免税売店で売っているウイスキー及びヴランデーなど、とびきり安い海外免税価格のみである。それ以外の酒の値段で分かっているものは何か。しいて云えば、なくもない。その値段は、今まで自分自身が出入りしていた夜の巷の値段、すなわちナイトクラブやスナックバーでの、ボトルキープ価格のみであった。日本での酒の価格は、けっして安いものではなく、それなりに高いものであるという認識が、本田の常識であった。
(なんと、酒の値段とはそんなものなのか。岡本酒店の提出する酒の価格は、意外に安いではないか!)
酒を売る商売をはじめようとしている本田は、肝心な日本国内での酒の相場が全く分かっていなかった。

本田の計画は、ショットバー方式でスタートしたかった。
ショット方式を展開しようとの考え方で、酒屋と仕入の打ち合わせをした。が、酒屋の岡本洋一氏の専門的観点からの勧めもあり、ある程度はボトルキープの対応をすることにした。洋一は、決して多くを語らなかった。しかし、どう見ても経験の少なすぎる本田との会話の中から、彼はすでに見抜いていた。ショットパブ形式のみで先行き逆に成り立たない。旅行屋であった本田が狙っているもの、つまり一度にたくさんの客が押し寄せた場合を考えると、ショットバー形式では速度的に対応が遅くなる。団体様ご一行の対応は無理、いや、不可能である事、岡本洋一は最初から『酒屋の経験と視点』で見抜き、理解していた。まずは、本田のプライドに傷が付かぬよう、しかも本田を持ち上げながら、今、岡本が売りたいアイテムの売込みに、半ば成功していた。あとは本田が、いかに多くを売ってくれるか?という点に尽きる。すでに本田という顧客の新規開拓が済んだ岡本にとって、今後は、本田の店舗展開がどうなるかにかかっているのであって、成り行きに任せるほか致し方なかった。

酒の段取りが終わって、あらためて店内を見た。いたるところ汚れていた。掃除に取り掛かった。しっかりした建てつけの厚い板の床、いくら雑巾がけで磨いても汚れが取れない。磨き上げるのに四日かかった。テーブルも、椅子も、カウンターも、カウンターの中も、トイレも、ありとあらゆる場所を磨いた。
掃除し忘れていたところがあった。
以前の経営者の客がキープしていたボトルが、約100本近くあった。多くのボトルはほこりにまみれていた。ほこりにまみれたボトルの半数は、さらに油性でタバコのヤニらしき粘着性のある茶色の薄幕でおおわれており、粘着性だからさらにほこりが付く。一度や二度の布巾がけでは間に合わない、洗剤と水を使った布巾がけで、落ちるか落ちないかわからない強力な油脂が全てのボトル全体に、みごとにコーティングされた状態であった。
(ほとんどのボトルは一年以上経っているものと見る。少なくとも半年以上は手付かずの状態で放置されていたはずだ)
(この以前のマスターの客のボトルは、もう、残しておく必要はない)
当然ながら、本田は考えた。
(破棄する必要はない。同じ種類のボトルに詰め替えよう。そして、あらためてお客に売ればいい。そう、営業に使ってしまえばいいのだ・・・)
お客のキープボトルには、必ず名札がついている。キープした客は、必ず名札に自分のサインかまたは名前を書き込む。場合により、ボトルのガラスの表面に油性のマジックでサインをする客もいる。しかしなぜか、ボトルに直接サインをした客のボトルは、一本も見つからなかった。
(このキープボトルは、そのまま商品として使えるじゃないか!)
ボトルに直接サインがなかったのが幸いした)
(よ~し、何日かかっても構わない。同じ品種ならば、全部詰め替えてやろう!)
ただちに決まった。
(一滴も残さず、同じ種類の酒をボトルからボトルへ、詰め替えるだけ詰め替えよう。できるだけラベルの汚れていないボトルに詰め替えれば、照明を落とした暗い店内では、まったく新品と見間違うほどになる。詰め替えが終わって空になったボトルだけすてる。詰め替えたボトルは新品同様と見間違うほど、みがいてみがいてとことんきれいにしよう!)
だから、
(空になったボトルは、捨ててしまえばいい。捨てるボトルは掃除する必要なし!)
3日がかりで作業した。
本田からお願いし、一連の掃除は事務員の小林美智子も手伝った。
がしかし、今から始まる水商売に関係のない小林の動きは、ただ単なる時間つぶしであり、ボトル整理という単純作業に対する集中力を欠いていた。下手をすると、ボトルを壊しかねない動作であった。小林美智子が手伝ったのは、最初の一日だけであった。お願いした本田から、小林の手伝いを断った。

なぜか?
実際にカウンターに立って仕事をする人間以外、この作業には全く向かないと、すぐに本田は判断した。ボトルの詰め替えなど、残量の多いボトルへ残量のより少ないボトルから移す。漏斗を使う。が、十分に気をつけておかないと、余分につぎ込んで一杯になり、こぼしてしまう。つまり結構手先と手元の細かな動きを必要とし、つぎ込む酒量の残量とボトルに詰込める酒量の予測と微細な判断が要求される。判断が間違ってしまえば、大切な酒が、零れてしまう。ただ、ただの酒が零れる。こぼれてしまえばただの液体!でも、液体がボトルの内部にある限り、お金になる液体であるから、みかけの古いボトルから、より見栄えのするボトルへ移す、しかも大切に、細心の注意を払って丁寧に注ぎこまなくてはいけない。
自分の手で、自分がやってみて、ようやくそれなりに、難しい作業であることに気付いた。

本田は、作業しながら考えた。
ボトルの中身の入れ替え作業、そんな単純作業を繰り返しながら、ふと思いつき、新しい結論を得た。
(これ、なんだかカウンターの中の基本運動だよ。現場に入ればそれなりの特殊な動きがあるのだ。これなんて、毎日の動作の勉強だ、そうだ、客のキープしているボトルから、客のグラスに酒を注ぐ練習をしていると想定すればいいのだ・・・)
本田自ら、今まで気付かなかった新しい動作の勉強をしていた。そう思い始めたときから、本田のボトル詰め替え動作はますます正確になり、その作業はよりいっそう早くなった。

ボトルの詰め替え作業に取り組み始めたとき、店の「ボトルキープ棚」に存在していた約100本前後のボトル数があった。ボトルの詰め替え作業が終了した時点で、ちょうど65本の満杯のボトルに替わってしまった。それそれ満杯になったボトルは、新しい清潔なダスターで丁寧にみがいた。油煙とタバコのヤニで貼り付けられた塵とほこりは、見事に落ちていた。
  

  <第2章・完>

(次回、第3章へ、3月15日掲載予定・・・)

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<添付写真:a local Spanish-Style Restaurant & Bar in Madrid Spain, on Jul. 1998. Photo by Mr. G.A. >

小説「フォワイエ・ポウ」(掲載9回)<安易な決断・続編>

2006-03-08 01:25:05 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
 当事者の兄弟二人の夢が、ドンドン大きく膨らんでいる。べつに酒を呑みながらの会話でもないのに、互いの近未来の話そのものに酔いが回っていた。「営業権の価値はすごい。だから、場合によっては、そう、頃合見計らって誰かに後引き継いでやってもらってもいいし、その時は店やりたい奴にそこそこの金額で営業権を売り付ければいいじゃないか・・・」あいかわらず饒舌な弟の話を方耳で聞きながら、本田は自分自身の計算を始めていた。
 <以上、第8回掲載の終節より・・>

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1)第1回掲載「第1章」(メタリックレッドのロールスロイス)(2月9日)
2)第2回掲載(2月10日)
3)第3回掲載「1章」(クリームチーズ・クラッカー)(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載:「1章」完(2月22日)
6)第6回掲載「2章」(安易な決断-1)(2月24日)
7)第7回掲載「2章」(安易な決断-2)(3月1日)
8)第8回連載「2章」(安易な決断-3)(3月3日)

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『フォワイエ・ポウ』 著:ジョージ青木

2章

1(安易な決断)

(1)-4


子供にもわかるような常識的なことであるが、ものの計算をするには、まず、算術ないし算数の基礎を知らなければ、計算はできない。
しかし今、取り組もうとしている計算は、
飲み屋の経営が成り立つかどうか?
赤字を出さずにやっていけるかどうか?
利益が出て、儲かるかどうか?
そんな計算である。
つまり経営の基礎計算をやっているわけで、いわば『飲み屋の経営学』そのものの実践演習であるから、他人ではなく本田が自分の手で店に立って経営した場合にどうなるか? そんな演算をしなければならない。
数千年も前から、世界中、それぞれ共通な計算尺度が存在している。例えば万国共通の世は、長さはメートル法で重さはグラム単位か。インチやフィートなどは米英流。ごく最近までの日本流は、尺貫法。
商売といえば、物々交換の世の中から流通をスムーズにする為に通貨が発明された。経済は発展し、国際取引の時代となった今は国際取引が常識になった。しかし、それぞれの国の通貨があり、そのつど逐一、異なる通貨の換算をやらねば、公平な商取引は成立しない。
ドルとポンドにフランやマルク、、。
ドルといっても、米ドルもあれば香港ドルにカナダやオーストラリアにもドルがある。こんな通貨を異にする取引の場合、日々変動する交換レートがり、異なる通貨を換算率に於いて取引する。
当面、本田が取り組もうとしている水商売には関係なく、日本国内で商売をする場合、ほとんどは日本円で計算する。
本田の頭の中はめまぐるしく、過去の海外旅行業の時代が走馬灯のように点滅していた。こんな時、本田の頭が勝手に海外旅行のビジネス計算を始めている。
海外旅行ビジネスの末端の実体験と経験が、めぐりめぐって水商売になってくる。まるで、過去を思い浮かべながら、且つ現在と未来を想像しながら、ようやく現時点の問題に帰ってきた。
わずか数分間だった。時間はまことに短時間であったが、想像と空想の間を往来した時間は、現時点を中心にし、前後十数年の時空を堂々巡りしていた。
過去から未来、未来から現在を通過して過去に、行き交う内にタイミングが合致し、ようやく現時点に帰り着いた。帰り着いて、再び思った。
(今から水商売か!今までやっていた海外旅行の収支計算より簡単ではないか!)
このとき、すでに本田は、水商売の仕事を子馬鹿にしてかかっていた。
この際、当然ながら日本円で貸借対照表なり損益計算書なりを背景に、経営の見通しを立てようと模索している。誰もが同じ手法を用いている。
(基本的な経理処理か、、、)
(そう、自分も今まで経験してきたのだ。だから水商売なんて、もっともっと簡単だぜ・・・)
しかしなぜか、このたびの飲み屋の経営計画に用いる尺度は、あくまでも本田自分自身の尺度であった。
普通の算用数字を用い、大げさに言えば会計学基礎理論に則った手法手段を用いていた。
(入らねばならない入り口は、どこにあるか?入るべきかどうか?)
しばらく迷ったが、入ってしまえば一目散に出口に出ている。あっけなく計画は立案できた。
計画を立てるためにこねくり回した計算は、結果として単純な手法であった。その内容は、いたるところ「守りに弱い」すきだらけの収支目標結果ができていた。旅行屋を中退した、いなかのイベント屋が安易に夢想した超理想的計画のシナリオができてしまった。
経営者として最も大切な事が、欠如していた。
それは何か。
経営を始める時点で、すでに1千200万円もの大きな借財を背負い込んだという事実である。これを、毎月10万円の支払いで、10年間も続けて支払わなければならないという現実が残った。借財10万円の毎月支払いは、家賃の15万円と合算すれば25万円。
つまり本田は、
(丸々25万円が、一つ気分の家賃と自分で勘違いして、そしてスタートしよう!)
と、あえて自らが勘違いし、そしてそう思い込もうと自己暗示にかけた。

たちまち1週間も経たないうちに、店舗の賃貸契約書が出来上がった。
甲は、家主。
家主は、本田が賃貸契約をした三階の店舗の一つ上の全フロアー、つまり四階を全部店舗として使っている居酒屋のオーナー、川下新吉氏。
乙は、本田幸一。
甲である家主に対し、店舗借り入れ家賃として、毎月15万円。さらに借入金の分割支払い相当分、10万円。合計25万円を支払わなければならない。
丙は本田譲治であり、乙の保証人である。
おおむね右(上)の内容の文言が、契約書に書きしるされている。
当事者全員は、契約書に署名捺印をした。
いよいよ、矢は放たれた・・・
(おお、なんだか今までよりもずいぶんと簡単だ。これで望んでいた日銭が入る。だから、毎月25万円なんて、簡単に支払えるぜ・・・)
本田は、燃えていた。
(あ~、どうやらこれで見通しができた。そうそう、気楽にやって、毎日毎日入ってくる「日銭」を稼いで、そして毎月いくら残るか?それが楽しみだ・・・)
右肩上がりで作成された経営計画の通り、本田の気分は十分に右肩上がりであった。

時代は、いよいよ昭和から平成に移り変わろうとしていた。
そんな頃、本田は初めて、「夜の業界」に参入しよう。と、していた。

<・・続く・・(3月10日投稿予定)>

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<掲載画像:Photo by G.A. "Traditional English Pub" in Scotland, on Sep. 1999.>

拝啓 櫻井よしこ女史 : 著書「何があっても大丈夫」に寄せて・・

2006-03-06 13:46:20 | 趣味の話&本と雑学メモ
 最近になり、ますます敬愛してやまない櫻井よしこ女史。彼女の半生を描いた自伝=「何があっても大丈夫」、昨夜、読み終えた。今までに、桜井女史の著書は10数冊読んでいるが、あくまでも社会政治評論エッセイであり我輩にとっても常識、その常識を整理整頓する為に桜井女史のご意見を聞く。したがって読後感はあくまでも単調にして納得そのもの。それ以上も以下もなし!といったところであった。しかし、女史の自伝なる「著書」は、かなり面白い。桜井女史フアン必携必読の一冊であると我輩は豪語する。
あらためて「読書感想文」を書きたくなった。しかし、後日の記事としたい。
なぜならば、本日、
どうしても「抜粋」し記憶に留めたい個所がある。
女史の「ハワイ大学」における学生時代に専攻された「東洋史を学問する」入り口が記されている。
今叫ばれている、我国の歴史認識の重要性を鑑みれば、一体全体、何処から歴史の再学習に取組めばよいのか?一旦社会人となって久しい我々、互いに歴史再入門の学問的ゲートに迷い試行錯誤の繰り返しにて、今尚見えない路をさまよっているはず。そんな中、桜井女史の半生自伝の書の一節に、入り口の「見つけ方」を再確認した次第である。
そして、何故に「読書感想文」を後回しにしたいかという理由を、再度述べる。
すなわち、桜井女史的「理性と常識」は、日本の立場と位置を明確に掌握されており、その大きな基盤の中、日本を含む歴史認識と把握の仕方に正しさがあると考えるからだ。
過去から現在、そして今から取組むべき姿勢、そんな我々の学ぶべき歴史学習に関し、非常に興味深い切り口がある。先ず一番最初に、そこの個所を抜粋掲載したい。
総じて、殊に「社会学」たるもの、色眼鏡をかけずに「比較対照論」を学問的(教養的と言い換えてもいい・・)に、学習実行し、異なる「意見と論旨」に対し、真摯に耳を傾けるフィールドワークなくして「成立」しない研究分野であること、あらためて櫻井よしこ女史著の「何があっても大丈夫」の一節に、観た。
歴史学習研究の切り口と入り口を、再確認した。

以って、女史の著書の一節を(無断で)切り取り、本日記事掲載する。

何があっても大丈夫

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PS:
約10日前、同時に購入した「ビル・エモット著:日はまた昇る」はすでに読了。マイケル・L・ブッシュ著「貧乏貴族と金持ち貴族」は、今週中頃より読書開始する予定。翻訳本且つ歴史関係書であるから、経験上、この手合いの著書には自己満足的悪筆著書多く、いざ、内容に興味を失ったら最期、読み辛くて仕方のないジャンルである。と、想定するから読了は予測がつかない。本著購読の目的は、「ダンディズムの研究」に他ならない・・・ 

櫻井女史フアンの方、すでに本書を読み終えておられる方も、そうでない方も、本著に興味をお持ち頂き、「不肖・エセ男爵ブログ」のランクアップにお力添えを・・・
でもって、
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<以下:櫻井よしこ著:「何があっても大丈夫」より、抜粋引用・・>

第二章 私達は二番目なんだ ― 父からの自立
 (第7項・打ち上げ花火) (p-212~p-214)-抜粋

父に貰ったレミントンのタイプライターは大学卒業までずっと使った。父のように古めかしく、重々しく、年を重ねたタイプライターは、いつも私に、父が私に注ぎ込んでくれたプラスの要素を想いおこさせた。反発し父から離れてしまったけれど、人生の先輩として、父が教えてくれた幾つかのことは、紛れもなくきわめて重要な事だった。
 日本を含むアジア史を専攻した私は、中国の近代史が面白いと思った。日本で歴史を学ぶと、近現代はサッと表面をなぞるだけだが、ハワイ大学の歴史の講義はもっと面白かった。とはいっても、いま振り返ってみると、ずいぶん簡単なことしか学んでいない。それでも面白かったのは、当時の私がそれだけ、歴史を知らなかったからにすぎない。
 歴史は往々にして政治的な衣装を纏(まと)う。ハワイ大学でも、中国現代史は教授によって教える軸が異なっていた、と思う。
 “思う”というのは、私自身が異なる教授のクラスを全てとったわけではなく、学生仲間の情報交換でそのように感じたからである。
 大国清の衰亡と辛亥革命、日中戦争、国民党と共産党軍の面白くも複雑な関係などは、当時生存中の毛沢東や蒋介石も題材にしていたために、非常に臨場感があった。
 そして、アジア現代史の中での日本の描かれ方は往々にしてあまり好意的でないトーンで教えられていると感じた。米西戦争以降、外絵と勢力を広げ始めた米国が、アジアで英国に変わって覇権を握る事を目指し、その過程で日本を排斥していった歴史を考えれば、日本人学生としては日本が批判される立場に立たされるのは自然の流れかもしれない。けれど、日本人学生としては居心地はよくない。ただ、第二次世界大戦に関連する時代以降に目立つ傾向で、それ以前の日本の歴史は、日本人が日本で教わる内容よりは前向きの評価を与えられていた。日本人とは何かという問いを、さまざまな形で突きつけられていた私は、日本の明治以前、江戸時代の幕府の統治によって、豊かな文化的繁栄を築いていったとの指摘が、嬉しかった事を思い出す。
 人口の増減から歴史を評価する方法は、今では当然だと思うが、私がはじめて明確な形で、江戸時代に日本の人口はほぼ倍増し、それは士農工商すべての国民が豊かに暮らしていたことを示すと教わったのは、ハワイ大学でだった。秀吉の時代の日本の総人口は約1600万人といわれてきた。最近、1200万人説も出ているが、それが260年余りの江戸時代にほぼ倍増して、明治はじめまでには2600万人から3000万人になったのだ。
 日本史の教授は、日本が好きで日本研究を始めたに違いない。だから、鎖国時代の日本の繁栄や、明治政府の近代国家建設のための努力や、驚嘆すべき成功や、大正デモクラシーの花開いた時期のことなど、日本で詳しく学ばなかったことを、熱意を込めて教えてくれた。

(櫻井よしこ著:「何があっても大丈夫」引用抜粋・了)

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つるしびな(2)「旧友,U.T.君に感謝・・・」

2006-03-05 13:32:07 | つれずれ紀行
昨日に引き続き、本日もまた旧友UT氏からの贈り物「吊るし雛の写真」を記事にした。なぜなら、吊るし雛は「左右対」にて飾り付けるものであること。そしてUT氏は紛れもなく、2枚の「吊るし雛写真」を贈ってくれたのである。
そして一年経過した今、その理由が解ったから「うれしくて、うれしくて」たまらない。
あらためてUT氏に感謝!
加えて、「ウイキペディア百科事典・日本語版」に、感謝・・・

ブログを手がけてから、ようやく一年と一ヶ月が経過する。
そして今、新しい発見がある。
ブログを通してることのできた友や先輩、これ、我輩の大きな財産と成りつつある。
仕事の忙しさにかまけ、且つ、遊びに興じた時間はあったものの、日本の歴史、伝統や文化、日本の美を探求する「心根」に不足を生じつつ、不足に不足を加え、年齢のみ重ねてきた我輩の「内なる心境」、多いに恥じるものである。
想えば、恥ずかしい、情けない、、、。
しかし、ブログを通じ、旧友とのEメール交信を通して、一年間。自分自身ようやく、日本の伝統的美しさに「開眼」し、正しき歴史の認識の必要性を感じ、そんなこんな、あらためて自分自身の好奇心を髣髴させている。
多くの友に啓発された・・・
尊敬し敬愛する諸先輩に「我が背中」を押され、躊躇し立ち止まっている我輩の足、その一歩を踏み出させていただいた。
そう、
もう一度云おう。
未だ見えない人生の先を、踏み出させていただき「前進」させられた・・・

こんな友やそんな友による「相互誘発」、さらには能動的な「自己啓発」、そして諸先輩に教わることのありがたさを感じつつ、なぜか本日、感謝しつつ楽しい、そして、うれしいのである・・・

〆て、

新旧の『友』に、感謝!

『諸先輩』に、あらたなる敬意、敬礼!

「互いの友」に対し、感謝と敬意の気持ちをお持ちの方々、

右記、「緑色バー」をクリック願いたい!(人気ブログランキング)


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<添付参考資料>
(ウイキペディアより、引用)

雛祭り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ひなまつり から転送)
移動: ナビゲーション, 検索

雛飾り雛祭り(ひなまつり)は女の子の成長を祈る年中行事。日本の太陰太陽暦たとえば明治6年の改暦前では旧暦の3月3日の桃の節句(上巳)に行われていたが現在はグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なわれている。

男雛と女雛を中心とする雛人形を飾り、桃の花を飾って、白酒を飲む。生まれた女の子が健康に成長し、幸せに結婚できるようにと祈る。関東と関西では男雛と女雛の位置が逆である。(なお、本来「内裏雛」は雛人形のうち男雛と女雛の対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤用は一般化している。)

雛人形は、宮中の貴族の格好をしている。男雛、女雛の二人だけでなく、右大臣と左大臣や、三人の侍女(三人官女)、お囃子を奏でる五人の男の子(五人囃子)、さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの嫁入り道具を一緒に飾ることもある。江戸・東京では写真にあるような七段、八段の檀飾りを行うが、戦前まで京都や関西の一部では御殿式の家屋の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に嫁入り衣装やかまどなど台所のミニチュアなどを並べていた。

3月3日が過ぎた後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説がある。

この日に食べられるものに菱餅、雛あられ、地方によっては蛤や、飲まれるものとして白酒がある。

[編集]
雛人形の歴史
雛人形の起源のひとつは、中国の流し雛(代わり雛)にあると言われている。これは霊力があるとされる呪具であった。それで、人形にその年の災いや穢れを移し、本人の代わりに川に流す風習で、これが江戸時代に女の子の人形遊びなどと結びついて、女の子の幸せを祈る場に飾られるようになった。江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の立ち雛や、坐った形の坐り雛(寛永雛)が作られていたが、これらは男女の人形を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単を着た元禄雛、大型の享保雛などが作られたが、これらも金屏風の前に男女の人形を並べるだけのものだった。この享保年間、消費を規制するため一時的に大型の雛人形が規制されたが、この規制を逆手にとって、芥子雛とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた雛人形が流行することになる。江戸時代後期には有職雛とよばれる宮中の衣装を正確に再現したものがあらわれ、さらに今日の雛人形につながる古今雛が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは二人だけの人形から、嫁入り道具や台所の再現、二人につき従う従者たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが大きくなってゆく。

[編集]
内裏雛の左右
内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。中国の唐、日本では昔は左が上位であった。左大臣(雛では髭のある年取った方)が一番の上位で天皇が見ての左側(我々の向かって右)にいる。したがって「左近の桜、右近の橘」の桜は天皇の左側である。これは宮中紫宸殿に実際に植えてあるので動かせない。昭和天皇は何時も右に立ったが香淳皇后が左に立つのは皇后のほうが位が高いことで矛盾である。実は明治天皇までは左が高位という伝統で左に立った。ところが明治の文明開化で日本も洋化しその後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に右に立った。それが皇室の伝統になり、それを真似て東京では男雛を右(向かって左)に置く家が多くなった。ところが京都では伝統を重んじて向かって右に置く家が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを現代式、右に置くのを古式としどちらでも良いとしている。

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関連項目
吊るし飾り

  @@@@@@@@@@@@@@@@@

吊るし飾り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
吊るし飾り(つるしかざり)は伝統工芸の一種。雛祭りの際に、糸の先に布製の人形などを吊るしてひな人形とともに飾る。 インテリアとして、折り紙やビーズを糸の先につけて飾った物を吊るし飾りと呼ぶ場合もある。

九州柳川地区のさげもん、伊豆稲取地区の雛のつるし飾り、山形酒田地区の笠福は日本三大手芸と呼ばれている。

[編集]
さげもん
柳川地区でひな祭りに飾られる装飾。『さげもん』、『さがりもの』と呼ばれる。 旧暦3月1日から4月3日にかけて『さげもんめぐり』が開催され、各戸に飾られる。

竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を七本掛け、各々に七個(計四十九個)布製の人形を吊るし、中央に柳川鞠を二個配したものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。 小型の物は、糸五本、人形二十五体(5*5体)、鞠一個が標準となっている。

[編集]
雛のつるし飾り
伊豆稲取地区でひな祭りに飾られる装飾。『雛のつるし飾り』、『吊るし』と呼ばれる。 ひな人形の代わりに手作りの人形を飾ったのがはじまりとされている。 雛のつるし飾りは、娘の成人後にどんど焼きにくべる習慣があったため、古い物は残っておらず、最古の物は100年程度前の物と言われている。 戦後、一時期廃れたが、平成に入って稲取婦人会が中心となって復興した。

竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を五本掛け、各々に十一個(計五十五個)布製の人形を吊るしたものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。k

[編集]
笠福
酒田地区でひな祭りに飾られる装飾。『笠福』、『傘福』と呼ばれる。

傘の内側に天幕を張り、親骨に紐をかけ先端に布製の人形を吊るす。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8A%E3%82%8B%E3%81%97%E9%A3%BE%E3%82%8A" より作成

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つるしびな

2006-03-04 00:33:33 | つれずれ紀行
意識的には満を持して「儀式的投稿」を決めていたが、一日遅れてしまった。ヤクザな小説の執筆にかまけて「ブログ記事投稿」に於いて以前から予定していた「儀式」を、うっかり忘れていた。関連するは3月3日、「雛祭り」の事なのだ。しかし、一日過ぎてしまった。
そう、
儀式とは格式ばったことではなく、やることは単純な作業である。が、我輩の思い入れの位置付けが超自己満足的に、格調高きものなのである。
だから「儀式」と思い込んでいる。

それは何か?

それは、

すでにブログ記事の倉庫に成り果てた「飴風呂」から、昨年投稿した記事の引越作業の事である。

<以下、本日添付写真の「過去飴風呂記事」>

   ----------------------------------------------
2005-03-10
旅先で出会った「吊るし雛」
テーマ:ブログ
『この前静岡ではじめて「吊るし雛」に出会い、美しさと愛らしさ、何気ない素朴さに感動しました。』

   ----------------------------------

 上記、学友UT氏が、当写真をメール添付して送ってくれたときの「メールの文言」である。(当時、すでに公開了解済みのもの)

昨年のあの時、「飴風呂」に掲載した時点での「単純にして明快な」投稿記事である。いかにシンプルがベストであるか!(最近の我輩の記事と比較すれば、簡潔さにおいて比較にならぬほどスマートではないか!と、自我自賛する。)

そう、本年正月に掲載した「門松」の写真記事。
ならびに節分祭の「宮島神社と大鳥居」の写真などなど、
過去、
我輩のブログに掲載を許可頂いた「素人写真家」が、UT氏なのである。
そう、
ご存知、我輩の友人のUT氏。すでに「不肖・エセ男爵ブログ」に於いては、文化的「著名人」なのである。

このたびも、
 あらためて「感謝」・・・・

すでにご覧の読者も居られるが、ここは万障ご承知於き頂き、少しずつ、飴風呂記事を引越させる事ご了解願いたい。

さて、
可愛いくて珍しい「飾り雛」を愛でていただける方、是非以下のバーをクリック願いたい!

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小説「フォワイエ・ポウ」(連載8回):<2章(1)安易な決断>

2006-03-03 01:58:26 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
 結局それから一週間を経過した週末の午後、本田は弟を伴って店を見に行った。(この店『フォワイエ・ポウ』の開業は、確か5~6年前と聞く。いやいや、捨てたものではないぞ・・・)本田が、最後にこの店に訪れたのは3年前。(いいよ、やはりこの店のレイアウトは、今でも十分通用する店のレイアウトだ!もうあと4~5年くらいかな、しばらくは、このまま改装せずに、何とか使えるかもしれない・・・)

しかし今、こうして店の中に入り、別の何かを感じた。

(・・・第7回掲載より・・・)

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掲載済みの小説「フォワイエ・ポウ」は、下記から入れます。

1)第1回掲載(2月9日)
2)第2回掲載(2月10日)
3)第3回掲載「1章」(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載(2月22日)
6)第6回掲載「2章」(安易な決断-1)(2月24日)
7)第7回掲載「2章」(安易な決断-2)(3月1日)

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『フォワイエ・ポウ』
著:ジョージ青木

2章

1(安易な決断)

(1) -3

 水商売の店は、

まず、夜のとばりが開き、

ネオン街の全てのネオンが燦燦ときらめき、

そのネオンのもと、綺麗どころの女性が闊歩し、

アルコールで上機嫌になった酔っぱらいが景気よく騒ぎ、屯(たむろ)し、

そんな周囲外部の環境を知りつつ、目的の店に入れば、

馴染みのマスターが、いつもと変わらない立ち居振る舞いで訪問客を迎え入れる、

いつもどおりに迎え入れられ、外部の喧騒から離れ救われ、

ようやく目的の店の「止まり木」に鎮座する。

その、いつものその空間で、

まずは一口、アルコールが入る、

最初の一口は、次を誘う。

アルコールの誘惑に駆られ、さらに、

さらに飲むほどに、酔うほどに、

アルコールの隠し持つ、

危険にして侮れない魔力が、身体中に芽生える…

こんな魔力に牽引されつつ、

もって、不用意に、

身体(からだ)全体に集積されてしまった昼間の鬱積(うっせき)から、少しずつ開放されはじめる…

おおむね『のみ助』という人種は、大なり小なり上述の感覚を求め、夜の街を徘徊するのである。
本田は思い出した・・・
客がしばらく足を踏み入れていない店、その店周りを伺いながら、本田は想っていた。

(今まで自分のたどってきた夜の巷の只中にいる自分の姿が、ここにあるか・・・)

閉店してしまった水商売の店は、冴えない。つまり、店の持つ水商売の生気を完全に揮発させ、蒸発させてしまうに十分な歳月である。この店は、今年に入りまもなく閉店した。閉店の後すでに半年以上も経過している。
(夜の店が閉店すると、その店が腐る!)

不思議なもので、客の出入りが止まった店は逆に、夜の業界の裏側の哀れさを漂わす。
しかし、なぜか、そういう状況とは違った独特な雰囲気が漂っていた。

(なんだか、思い出した・・・)

本田は、よく飲み歩いていた頃、羽振りのよかったサラリーマン現役時代の姿を思い浮かべていた。
条件をチェックする前に、本田はすでに決めていた。
(最低でも、今から5年間が勝負だ、できる!俺なら、できる!)
弟の譲治からこの話が持ち上がったあの夜、すでに本田の心は動いていた。
(今すぐに、喉から手が出そうだ。今の俺には、うってつけの話である、とにかく日銭(ひぜに)が欲しい。もうこの事務所は立ち行かない。だから飲み屋の店をやってもいい。そう、この店であれば、俺の手でやってみたい・・・)

(2)
閉店したまま半年間、当時のままになっている店舗の様子を、自分の目で確かめにいったのは、その翌日である。
店舗経営の話でにわかに盛り上がっていた本田の気分は、あらためて冷静になっていた。下見に行ったその夜、再び弟の譲治と会い、あらためて打ち合わせした。
三日後、つまり今週中に契約書を取り交わせなければならないが、まだ数日の猶予がある。契約の当事者となる本田には、まだこの時点で断ることも可能なのだ。
互いにもう一度、このバー開業の話を整理してみた。
まず、借財の問題について、
先の経営者・山根が負っている借財は、1千200万円。このまま山根が刑務所に入ったままであれば、その支払い責任は譲治が負い、代わりに支払わねばならなくなる。
これを、毎月10万円の返済でいけば、10年で返済完了。つまり借金は10年かけて支払う計算になる。
家賃は月間15万円、家主に納めていた。
毎月25万円ですでに6ヶ月間にわたって滞納。
家主と山根潔の関係は、そっくりそのまま家主と本田譲治の関係である。
25万円の支払い義務の半年間滞納は、現時点ですでに150万円に膨れ上がっている計算となる。
この時点での肝心な問題は、この半年間の滞納部分の支払い責任が発生しており、その責任がすでに本田譲治に発生していた。本田幸一には、それに気付いていなかった。
家主と本田譲治の間に、本田幸一の知らない了解事項が交わされていた。
その了解事項をかいつまんで整理すれば、次のようになる。
まず、譲治は、山根潔の後継者となって店の経営に名乗りを上げる誰かを見つけてくる。そうすればその名乗りを上げた誰かに、その借金を背負わせてしまい、店を継続させる。そうすることにより当面は、譲治が負うべき責任は免れ、その代わり店の運営をする誰かが、責任を毎月実行し続ける。しかし譲治は継続して、そのあらたな誰かの保証人になる。こんな話がすでに背景にあった。
本田幸一は、すでにその標的であり、今、それを引き受けようとしていたのである。
本田自身、自分の状況を整理した。
(なんだか、これではピエロじゃないか。もう、自分はわかっている・・・)
さらに、疑い深く考えれば、
(1200万円の根拠も、定かでない。もっと内容を調べれば、もっと安くできる可能性無きにしも非(あらず)!かもしれない、しかし、なんだか逆に面倒が起きそうだ。ここは弟が絡んでいる)
弟が関係していることが、さらに本田の思考回路を鈍らせた。
(とにかくここは、受けて立つことにすればいい・・・)
だから、
(自分にかかわりのない負債1200万円は、自分が無利息で借り入れた資金と思い込み、そう、勘違いし、それを全ての開業経費である。と、考えれば、話は違ってくる・・・)
一刻も早く、いや、あえて言い替えれば、本田は明日からでも店の売り上げが発生しさえすれば、それでいい。現金収入が欲しく、本田はあらためて自分を修正し、飲み屋経営を引き受ける姿勢で耳を傾けようとし、譲治をまとめ役と考えるよう、自らの思考回路を無理やり再修正しようとした。

「毎月25万円の家賃だと思えばいいじゃないか!」
「な~に、兄貴、ちょっと考え方を替えれば、それで問題は解決したも同じだよ」
「な、兄貴さん。物の価値がぐんぐん上がる今どきの事ですよ。新規に店を出そうと思ったら、たいへんだ。そうだよね。それと比べれば、これは安いものよ。内装に約5百万か、いや8百万はいるはずだ。決して安くないよ。俺の友達に聞いたから、よくわかる。それに加えてだな、厨房機材も馬鹿にならんよ」
「でも今の製氷機は十分使えるし、もちろんクーラーは付いているし。いやエアコンだぜ、今付いているやつは。つまり冬は暖房に使えるしろものだからな。いやいや捨てたもんじゃないぜ、あのカウンターの椅子も、使える。いまからあらためて買えば、これ、けっこう高いよ。センスいいぜ、あの椅子は籐でできているじゃないか・・・」
なんだかもっともな話をする譲治。
「ウム、あれはどうなってるんだ。あの、ビル全体が飲食店で、さらに同じ大きさの飲み屋で、貸し店舗があるじゃないか、あれは全部の内装を済ませて、それからたちまち必要な機材も設置した上で貸し出すと、そういうシステムがあると聞くが・・・」
本田は、単純に質問する。
「あるある、グラスのひとつまで揃えてあるし、仕入先の酒屋もなんだか家主の指定らしい。そうねえ、家賃もひっくるめて結局ここと同じくらい毎月掛かるだろうよ」
「・・ってことは、全部ひっくるめて25万円くらいか?」
素人の本田は、再度確認した。
「そう、そんなもんだろう・・・」
「・・・」
「いや、それぞれの店舗の広さも違うし、大小さまざまだ。25万の貸し店舗は、ここの半分くらいだ。だから、これと同じ大きさのものを探すのは難しいし、あったとしても、とてもとても、25万じゃ収まらんと思うよ・・・」
本田は、なんとなく納得している。
「ま、俺が知るところによると、山根が自分でがんばっていた頃は、良い時は200万を楽に越えていた、と聞く。マアマア普通の月でも、120万位の売り上げは軽い、当たり前だ!と言っていたよ」
「・・・ム、」
(あの山根ができるなら、今から俺もできるだろう)
譲治の話を聞きながら、本田は思った。が、口には出さなかった。
「だからな、兄貴。まあ、よく聞いてくれ。ま、ある程度順調にいけばだけどな、むしろ25万円で、まるまるレンタルのバーを借りて開業するよりはだな、この際この店の営業権を買ったと思ってだな、しかも利息の付かない1千200万円。これを今から10年かけてだな、ボツボツ払って行ってよ、ジワジワと、自分のものになるんだぜ。はやっている店なら営業権が高くつくよ。俺達で、むしろ高く営業権を設定できるんだから、それでも他人が認めるんだから、そうなるとありがたいよ」
「・・・」
二人の夢が、ドンドン大きく膨らんでいる。べつに酒を呑みながらの会話でもないのに、互いの近未来の話そのものに酔いが回っていた。
「営業権の価値はすごい。だから、場合によっては、そう、頃合見計らって誰かに後引き継いでやってもらってもいいし、その時は店やりたい奴にそこそこの金額で営業権を売り付ければいいじゃないか・・・」

あいかわらず饒舌な弟の話を片方の耳で聞きながら、本田は自分自身の計算を始めていた。

 <9回目掲載に続く-(3月8日水曜日)投稿予定>

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小説「フォワイエ・ポウ」(7回)好評連載中・・

2006-03-01 13:16:00 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
「兄貴、ところでひとつ、飲み屋をやってみないか」従業員が退社し、事務所のドアが閉まった瞬間、譲治が口を切った。珍しくも、アルコールに口がつく前である。「なんだって?『飲み屋』がどうしたって?」本田は驚いた。「ま、一杯やろう、おつかれ・・・」お互い、グラスに口をつけた。
わずか1分もかからなかったが、互いに暫らく口を開かず、沈黙した。
「例の、兄貴もよく知っている『フォワイエ・ポウ』だよ・・・」
「なんだって? あの店、山根君がやってんだろうが、彼、どうしてるんだ」
「いや、実は・・・」
ようやく譲治は、事の仔細を語り始めた。

(以上、第6回掲載まで・・・)

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1)第1回掲載(2月9日)
2)第2回掲載(2月10日)
3)第3回掲載(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載(2月22日)
6)第6回掲載(2月24日)

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エセ男爵ブログ・連載小説
  『フォワイエ・ポウ』

著:ジョージ青木

2章

1(安易な決断)(1)- 2

まず、
今、店は閉まっているという。
しかも店が閉ってから早くも半年になる。
なぜなら、マスターの山根は、今、刑務所につながれている。と、いう。
そもそも6年前に店を立ち上げたとき、銀行筋から6百万円の借金をして立ち上げた。三年間は、店は順調に流行ったし、かなり儲かった。儲かったから、女に手を出し始めた。その日の売上現金をレジから持ち出し、店が終わったあと毎夜の如く飲み歩いた。さらに学生時代からの夢だった念願の外車を買った。さらに同じ業界、つまり別の店の飲み屋のマスターと知り合いが増え、仲間内の資金繰りが必要になったとき、お互いに安易に手形を回しあっていたところ、仲間内で不渡り手形を出した。結果、高利貸しから資金を借りて処理したが、それがいけなかった。高利の借金がさらに増え始めた。
店の家賃が滞り始めた。
家主に繰り返し催促され、状況を話したところ、
「以前から、山根君は気に入っている。任せておけ!」
家主曰く、当初の銀行借入を含めて1千200万円に膨れ上がっていた全ての借金の全額を肩代わりし、整理してくれたとの事。
「がんばって商売をやれ!」
と、励まされたとの事。
その時に、自分(本田の弟、譲治)が、連帯保証人になったとの事。
その後はしかし、なぜか、客足が細くなり、累積赤字が一向に減らない。そんな山根は毎夜悩む。客が来ない、少ないと不安になり悩む、考える。暇な時間を潰すために、客のいない時間に気を紛らわす為に、店の中で何かしたい。革細工を始める。すぐにお金にはならない。また悩む。悪い友人の誘惑から、ヤクをはじめる。店にヤクを持ち込む。
あげくの果てに警察の手がまわり、刑務所にぶち込まれたのが半年前。譲治は知り合いから状況を聞き、1ヶ月前に刑務所に赴き、面会した。
今の状態では自分が肩代わりして、その借入金を支払わねばならない。
しかし、考え方によれば、いっそのこと、直接自分たちで店を運転しさえすれば、山根に代わって借金も返せるし、やり方次第で利益も出せる。でもってこの際だから、もし良かったら兄貴(本田)が自分でやってみないか?その場合、あらためて自分は兄貴のために保証人になる事、やぶさかではない。
と、来た。

おおよそ、事のいきさつは理解できた。
さらに質問した。
「なになに、君が山根君の保証人になったんだ?」
「うん・・・」
「何のために?何か利益があると考えたのか?」
「・・・」
「分かった、保証人になる前提で、君は山根と取引しているな?」
「うん、わずかだが、その時、金をもらった・・・」
「何いうか!君が金を要求したのだろう、違うか?」
「・・・」
「金額はいくらだ?幾らのカスリを取った?」
この質問、譲治からの返事は一切なかった。
「ま、現役のサラリーマンが、人の弱みにつけ込んだ商売は、いかん。友達から金を取る。しかも『金銭の保証人』となって金をせがむなんて・・・」
(うむ、いかにもスマートではない)
ここまで話を聞き、さらに質問したその答えが返ってこない本田幸一の心境は、複雑であった。弟から聞いたわずかな情報は、限られた本田の処理能力の中で、めまぐるしく揺れ動いていた。頭の上下左右にぶち当たり、揺れ動く弟の譲治に対する不信感ではなく、すでに嫌悪感であった。
(だからこんな後始末をやらなくちゃいけなくなる、そんな付けが回って来るんだぜ)
(残念だ。まさか、弟がこんな手口で子遣い稼ぎをやっていたとは!)
幸一は愕然としたが、ある意味では想定の範疇であった。譲治の学生時代を思い出したからだ。学生時代にはろくに大学にも通わず、さりとて、アルバイトらしきものもやっていない。だから、譲治が何をして時間を潰していたか、当時は皆目見当もつかず、今もってよくわからない。むしろ本田は自分のことで手一杯であった。そんな頃、譲治と山根の出会いがあり、『腐れ縁』が始まっている。
グループサウンド全盛時代であった当時、大学に進学するやいなや、地元の軽音楽好きな若者達で結成された、某グループサウンドのバンドの仲間に加わっていた。
そのメンバーの中に山根潔がいた。
素人バンドのギターとヴォーカルをやっていた山根は、その頃、すでにキャバレーのボーイを本業としていたが、将来は自分の店を持つ夢を抱いていた。そんな山根の生きている世界は、当然ながらネオン輝く夜の巷。山根のダチである譲治も、すでに学生時代から夜の巷を徘徊し始めていた。素人ながら、譲治は夜の巷の華やかさに触れ、見聞きし、いっぱしの「通」である。と、すでに学生時代からかん違いし、今も尚、かん違い状態から、けっして抜け出せないでいた。
その延長線上で、このたびの保証人騒ぎの渦中に、当然ながら巻き込まれていたのである。

「俺がやるかどうかは別だ。でも、放っておくわけには行かないだろうが・・・」
「ウウ・・・」
ここでようやく、譲治の声が出た。
「一度、付き合ってくれないか。とにかく店を見に行こう・・・」
こういうときの本田は、なぜか、弟を見捨てなかった。
弟の譲治は、にわかに元気を取り戻し、グラスのそこに残っていたビールを一気に飲み干しながら、流暢に話し始めた。
「兄貴、そうしてくれ、まず店を見てくれ」
「ウム・・・」
ため息交じりに、本田は頷く。
「前向きに考えてみるか・・・」
「お~ さすが兄貴だ! そういってくれると思った」
「まだやるとは言ってない!勘違いするな。まず、今の店の状況を見て、家主と条件を決めて、営業計画いや経営計画と方針を立てて、いろいろ考えたり、いろいろ調査してみないといかん。まだ、どうするかわからんぞ」
「そう、その通りだ、兄貴の云うとおりだ!」
「で、できたら今年中、いや今月は無理としても来月から店をやってくれないか、直接兄貴自身の手で・・・」
「どういうことだ?」
「僕はよくわかっている。昔から兄貴を見てきている。兄貴のセールスマンとしての冴え渡った会話も、一度兄貴の事務所に行ったときに、しっかりと聞いている。さりげなくも、自信に満ち溢れた客との対応と立ち居振る舞い。会話の素晴らしい間合い。決して嫌みのない、スマートな説得力。そんな旅行会社時代の兄貴の持って生まれた感性と実力と実績がある。まして、フォワイエ・ポウは男がやる店だ。店の場所も、それなりに良い。山根潔に代わって、兄貴がやればもっとよい店になること間違いない・・・」
「やめとけ、昔の事、もう、過去の話だ。そんな話そんなお世辞、もう通用しないぜ」
「・・・」
いかにも営業マン的な譲治の売り言葉は、本田の一言で止まった。

結局それから一週間を経過した週末の午後、本田は弟を伴って店を見に行った。
(この店『フォワイエ・ポウ』の開業は、確か5~6年前と聞く。いやいや、捨てたものではないぞ・・・)
本田が、最後にこの店に訪れたのは3年前。
(いいよ、やはりこの店のレイアウトは、今でも十分通用する店のレイアウトだ!もうあと4~5年くらいかな、しばらくは、このまま改装せずに、何とか使えるかもしれない・・・)

しかし今、こうして店の中に入り、別の何かを感じた。

<・・続く(2月3日金曜日、掲載予定)>


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<添付画像>:(ハンガリー・ブダペスト市内「ホテル・アストリア」1Fダイニングサロンにて。撮影日:1994年5月18日午前・・)