教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

努力否定論

2015-07-25 00:04:31 | 経済/経済/社会
わたしは努力は好きではない。

正確にいえば、努力の賛美が好きではない。

もっと正確にいえば、努力そのものの目的化が好きではない。

なぜか?

「さあこれから努力をしよう!」
と心が思った時点ですでに敗北感があるからだ。



本人が好きなことならほっといてもガンガンやるからそれを努力とは言わない。

本人の目標に近づいていることを体感できていればその努力は大した苦痛ではない。

本来そうあってほしいものだ。

「そんなことはアタリマエじゃないか!?」
と思うかもしれない。

しかし!
それがアタリマエではない世界が世の中にはあるのだ。



わたしの出身中学がまさにそれだった。

「どんなに辛くても歯をくいしばってがんばるんだ!」
という教育方針で、耐えがたいギリギリ手前まで無暗に負荷を強要する。

「他の人が努力しているのにおまえだけ遊んでいるのは許さん!」
という理由で勉強ができるヤツがさっさと終わらせたとしても勉強をしているフリを強要する。

「大人になったら嫌でもガマンしなければならないことがいっぱいあるのだから、これくらいガマンしなさい」
としか説明しない。

いわゆる努力そのものの目的化である。

くだらん。
大人になった今のほうがなお心底くだらないと思う。



人はなぜ勉強するのか?

名声、学歴、賃金、職種に欲しいものがあるからだ。

そういうことを中学校で説明するか?

しない。
極端に左傾化したあの中学校では、人によって生涯賃金が大幅にことなることは正当化されなかった。

だからその世界では生徒に勉強を強要するリクツを努力そのものの目的化に安易に頼ったのだろう。

そんなんでは勉強が嫌いな子供が次々と量産されるだけだ。

形のうえでは旧大日本帝国軍のしごきの常態化を正当化する努力や根性を過度に重視したイデオロギーと酷似しているが、
こっちのほうが皇国を守るという共通の目的で結束しているだけ多少マシなのではと思うほどだ。

ちょっと考えてみてほしい。

鎌倉幕府ができた年号を4桁精度で暗記させ1年でも異なるとバツにすることにいったい何の意味があるのかを自問自答しないような教員に子供をまかせられると思うか?
それを社会のしくみに従順になる訓練(というか蟹工船の従業員になる訓練?)だとか努力だとかで正当化するヤツが人生の勝ち組に見えると思うか?

その世界で最も従順だった生徒たちは、たとえばクラブ活動に心血をそそぎ、県大会に出場し、そして近所のショッピングモールの売り子という時給労働者となった。
前にも書いたことだが、その世界に最も順応しなかった我輩がヘタすると最終学歴が最も高いのかもしれんというのは実に笑える話である。



わたしは努力を否定する。
やりたいことだけやり、その結果として栄光を勝ちとればいい。