おいしい資本主義 / 近藤 康太郎【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア
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近藤 康太郎【著】
価格 \1,728(本体\1,600)
河出書房新社(2015/08発売)
「おいしい資本主義」なるこの本、某blogで紹介記事がのっていたので買って読んでみた。
言わんとすることはだな・・・
食っていくために労働する現代の資本主義からちょっと外れ、
自分で食うぶんくらいを片手間の農業で収穫するようにすれば、
あとは本業でちょっぴりお金をかせぐだけで生きていけるじゃないか!
・・・というものだ。
家庭菜園よりガチ勢で、
兼業農家ほどプロになる気もない、
そんな今まで発見されてこなかった農業セクターであり、著者はこれをオルナタ農業と読んでいる。
わたしもこういう話には興味がないわけではない。
まず第一に、食料の自給というのは個人にとっての究極の安全保障である。
それから第二に、農家の1/100の投入労働コストで農家の1/200くらい収穫できれば、それは金銭的な支出を抑えるという意味において副業として成り立ちうると考えているからだ。
たとえばわたしなら、
1食あたり100円分くらいの野菜や果物を収穫できるくらいで、その投入コストは週末に片手間に何かやるくらい、であれば十分いけるんじゃないかというのがずっと頭の片隅にありはした。
そういうときに目の前に現れたのがこの本である。
で、どうだったかというと…?
そもそもの出発点からつまづいた。
著者は、現代の自由主義のまん延からくる過度な競争社会にどうの、としている。
そこで「競争からばっくれる」救いの道を体をはって実験したというものだ。
まあたしかに、今の世の中にないもう1つの生き方を発明し、
今の世の中ではドロップアウトする人たちの受け皿になるような多様性を用意したという意味ではすばらしい。
社会に多様性が全くなく、全員が同じレールの上で競争していると、韓国みたいなおぞましく窮屈な社会になるから、多様性が許容されるというのは極めて重要だ。
その意味では大歓迎だ。
しかしだな。
我輩の好みは全くの逆なんだよ。
あえて農村社会に飛び込んだ著者は、そこでド田舎特有の人付き合いに巻き込まれる。
我輩の実家は農家ではなかったものの、ド田舎で育った。
このド田舎特有の人付き合いは、というかド田舎特有の共産主義的なところは、わたしの肌には合わなかった。
そのド田舎の中学校で血を見ることになったのは当blog読者の方々はよくご存知だろう。
わたしはそういうのはなるべくならオコトワリ願いたい。
村のコミュニティーが現状から変化することを極力抑えるために個人の自由を大幅に制限するような自治はクソくらえと言いたい。
いまの我が家も群馬にあり決して都会とは口が裂けても言えないところだが、それでも隣の人が何をやろうが我関せずという現代の自由主義の恩恵は非常にたくさん受けていると常々思うところだ。
だが。
著者は農業をやるために、その正反対の、我輩の嫌いなたぐいの田舎に自ら飛び込んでいったのだ。
著者はその田舎でいろいろな思いをした。
だが、コミュ力は高かったのだろう。
コミュニティーから機材をタダで借りてきているため、金銭的な投入コストを大幅に抑えられている。
田舎でうまくやるにはこれこそが命綱であり、オルナタ農業というビジネスモデルこそがキモなのとは全く違うわけだ。
最後まで読んでみる。
1日朝1時間の労働で、米を85キロ収穫したと書いてある。
それに要する初期投資以外の金銭的投入コストはせいぜい1、2万円だと書いてある。
さて、これは安いのか?
否である。
2キロの白米の袋をスーパーで買うと税別1000円だとする。
85キロでは4.25万円にしかならない。
1日朝1時間の労働力を半年以上投入して得られたのが4万ちょい、あんたそれ時給200円でしょう。
都会のコンビニのバイトは辛いから農業やれと書いてあるくせに、その都会のコンビニのバイトはその5倍の収穫が得られる。
これだったらコンビニのバイトして米買ったほうがいい。
さらにいえば金銭的投入コストで1、2万円出費しており、これとは別に軽トラのガソリン代で2万くらいかかったとどっかに書いてあった。
これ全て合計すると、自分の人件費がゼロ円だったとしても、利益はほぼゼロ。
オルナタ農業はビジネスモデルとしては破綻している。
これは本では明記していないものの、当の著者も気がついてはいるだろう。
著者の、何でも金銭で買ってくる資本主義に対するアンチだったくせに、けっきょくは金銭で買ってくるほうが賢かったということだ。
シングルマザーの貧困女子が体を売って生活していることになげいている文があるが、著者の生産した米に要する対価は風俗いけば2晩で稼げる。
貧困回避策として適切かどうかは大いに議論の余地があろう。
農業は我輩はズブのド素人だが、そもそも米というのは初期投資が非常に大きそうなので、著者のいうオルタナ農業でやる規模では不適切ではなかろうかという疑問が頭から離れない。
著者がこれを何とかできたのは、地域のコミュニティーから機材をタダで借りてきているためであり、コミュ力を駆使したことでコストをアウトソースできているだけで、本来はこの本に書いてある程度のコストで済むわけがない。
だから米を作れというのは着眼点からしてチャレンジャーすぎるからマネするのは愚かだと言いたい。
逆にいうと、だから農業はよほど大規模にやらないとうまみがない。
そして今の日本では農業従事者が減る一方だというが、そりゃあ小規模農家ばかりなんだから当然だろうという話になる。
これは著者も指摘しているところで、アメリカの飛行機を使った農業に日本が勝てるわけないとも書いてあり、なぜそういうコスト意識を持ちながら、たかが4万ちょいの額にしかならない米を生産するために四苦八苦しているのかというのが矛盾しているとさえ感想を受ける。
では、我輩ならどうするかというと?
我輩のめざすところは例えば1食100円分の生産高。
仮に毎食ニンジンばかり食っていればニンジン1000本分に相当する物量といったところか。
これなら33×33列分植えられればいいので戸建の宅地くらいの広さで何とかなる。
で、その程度の野菜や果物を生産するのに毎朝1時間もの労働は必要なかろう。
これは比較的現実的で、歴史的にも似たような実例はある。
例えばソ連なんかでは農産物の生産高はそこそこあっても計画経済のせいで全部腐ってしまうなんてことがよくあり、末端ではいつもモノが不足していてお金があってもメシにありつけないなんてことにすぐなったようだ。
だからモスクワは別荘持ち人口が世界でも突出して高い。
もちろん別荘は遊興施設ではなく家庭菜園としての農産物の生産用である。
それでいいじゃないか、というかむしろそのほうがいいじゃないか。
この本のとおりに米を作りにかかるのはやめときな。
追伸:
この本をプロの農家出身の人が読むとどう思うのかというのも気になるところ。