ニコニコ超会議に行き感じた負の側面について語ろうと思う。
楽しい思いをして帰ったという前回記事に織り込むにしてはダークな側面が強すぎて躊躇した話である。
前回記事では政党ブースでは自民党公式痛街宣車の悪ノリにしびれたという話をした。
一発芸としては最高である。
とはいってもあくまで一発芸でであり、ブースに目立つコンテンツがあったわけでもない。
90点やろう。
生活の党。
こいつらは小沢一郎か山田太郎かのどちらかと1分間対談できるという企画。
ブースの見た目のインパクトは全くないが自民党とは対極のコンテンツ勝負であるところを評価したい。
80点やろう。
民主党。
ブースがあった記憶がない。
評価不能。
公明党。
ブースは広いのだが何やってるのかすらわからなかった。
0点。
問題は共産党だ。
客観的評価では5点。
これは共産党員バッジをブースで販売していることに対してのネタ性を評価したい。
しかし主観的評価ではマイナス10点。
なぜか?
嫌なものを思いだしたからだ。
共産党ブースではダーツを投げると何かプレゼントをもらえるという催し物をやっていた。
まあそれだけなら誰の記憶にも留まらないというだけでマイナス加点にはならない。
わたしが見たものは、そのダーツに描いてあったマスコットの出来栄えの悪さだ。
客観的にみれば、マスコットの出来栄えをどうのというほど醜悪なものではない。
むしろ逆である。
なんでもない。
そう。
とにかくそこに描かれていたマスコットの全てが1つの例外もなく当たり障りがない。
民主党のマスコットである民主くんがちょっとイラッとする感じの小生意気さをかもしだしていてネタ的に優秀なのに比べれば正反対である。
ではどうしてこうなった?
これはだな。
左翼の根幹にかかわる問題である。
左翼はとにかく
「自分たちは無害で、庶民のみなさまの味方ですよ」
というイメージを大切にする。
自民党のように痛車に興味のない層から「オタク臭がキモチ悪い」と思われかねないリスクは絶対取らない。
するとどうなる?
「当たり障りのなさ」が最優先される。
だから誰にとっても人畜無害なものができあがる。
したがっておもしろいものは絶対にできない。
それの何が問題なのか?
誰にとっても人畜無害な可能な限り当たり障りのなさを追及したそのデザインがキライなのだよ我輩は!
そういうのは小中学校で左翼思想にまみれた教員が子供にくばる小冊子にかならず描かれている。
そしてそういう小冊子はかならず読んでもおもしろくない。
しまいには小冊子が出てくるだけで少し憂鬱にまでなる。
そんなキャラクターは大っ嫌いだ!
この問題はマスコットキャラクターだけの問題ではない。
たとえば「PTAが選ぶ子供に読ませたい本」なんてのはどうだろう。
子供時分に読んでみたところ、そのどれもがそろいもそろってクソつまらんかっただろ?
そんなんあたりまである。
本のクライアントである左翼の好みを考慮して当たり障りのなさを追及した結果として、エンターテイメントとしての要素が入っていないからだ。
小中学校のころ、読んでおもしろいと思える本は学校の図書館には1冊もなかった。
当然のようにわたしは本がキライになった。
今でこそ年間10万くらい書籍費に使うくらいになったものだが、それは高校に入って作家志望のクラスメイトから富士見ファンタジア文庫を紹介されてのち、本は実はおもしろいものだとわかった後になってからだった。
(当時は電撃より富士見ファンタジアのほうが圧倒的に上だった)
今では学校の図書館にハルヒがあり、本が好きな少年少女は積極的にそれを借りて家で読みふける者もいるという。
わたしの出身小中学校ではそんなことは絶対ありえない。
左翼の基準からすればラノベは有害図書まがいだからだ。
そしてラノベを図書館から排除することで、本はことごとくがつまらないもので読書が趣味などという人間は精神を病んでいるのだとしか思わないような当時の我輩のような子供が育つ。
こんな話はいくらでもある。
前に当blog記事に書いたことだが、修学旅行で長崎にいったおり、わざわざジジイの原爆体験を聞かされるというスケジュールを強要され、生徒がブチ切れた、そんなん当然だ、我輩はそう書いた。
左翼がからんでエンターテイメント性を排除したからそうなった。
左翼の教員が算数や数学を教えると、数学なんて実生活で何の役にもたたないと信じる大人に育つ。
我輩はそのなかの1人に
「シューティングで弾をバラまくときにさ、こうやって三角関数を使って座標計算するんだよ。ほら数学って役に立つだろ?」
と説明したところ、大変納得してくださった。
これも問題の本質としては全く同じものだ。
人は知識を吸収するとき、おもしろいと思うかどうかが致命的に重要である。
だが残念なことに、労働者はガマンして生きるモノだという信念がある左翼には死んで生まれ変わるまでそこは理解できない。
それを理解できないヤツが音頭をとると、致命的につまらないモノができあがる。
それは単につまらないだけでなく、その分野まるごとがくだらんモノだと子供に誤解を促進させるという、負の外部性まで持ち合わせる。
わたしが本がキライだったのもそれが原因だ。
我輩はこういう左翼気質からくるエンターテイメント性の排除傾向に嫌悪感がある。
共産党のブースでその臭いがして胸クソ悪くなった。
楽しい思いをして帰ったという前回記事に織り込むにしてはダークな側面が強すぎて躊躇した話である。
前回記事では政党ブースでは自民党公式痛街宣車の悪ノリにしびれたという話をした。
一発芸としては最高である。
とはいってもあくまで一発芸でであり、ブースに目立つコンテンツがあったわけでもない。
90点やろう。
生活の党。
こいつらは小沢一郎か山田太郎かのどちらかと1分間対談できるという企画。
ブースの見た目のインパクトは全くないが自民党とは対極のコンテンツ勝負であるところを評価したい。
80点やろう。
民主党。
ブースがあった記憶がない。
評価不能。
公明党。
ブースは広いのだが何やってるのかすらわからなかった。
0点。
問題は共産党だ。
客観的評価では5点。
これは共産党員バッジをブースで販売していることに対してのネタ性を評価したい。
しかし主観的評価ではマイナス10点。
なぜか?
嫌なものを思いだしたからだ。
共産党ブースではダーツを投げると何かプレゼントをもらえるという催し物をやっていた。
まあそれだけなら誰の記憶にも留まらないというだけでマイナス加点にはならない。
わたしが見たものは、そのダーツに描いてあったマスコットの出来栄えの悪さだ。
客観的にみれば、マスコットの出来栄えをどうのというほど醜悪なものではない。
むしろ逆である。
なんでもない。
そう。
とにかくそこに描かれていたマスコットの全てが1つの例外もなく当たり障りがない。
民主党のマスコットである民主くんがちょっとイラッとする感じの小生意気さをかもしだしていてネタ的に優秀なのに比べれば正反対である。
ではどうしてこうなった?
これはだな。
左翼の根幹にかかわる問題である。
左翼はとにかく
「自分たちは無害で、庶民のみなさまの味方ですよ」
というイメージを大切にする。
自民党のように痛車に興味のない層から「オタク臭がキモチ悪い」と思われかねないリスクは絶対取らない。
するとどうなる?
「当たり障りのなさ」が最優先される。
だから誰にとっても人畜無害なものができあがる。
したがっておもしろいものは絶対にできない。
それの何が問題なのか?
誰にとっても人畜無害な可能な限り当たり障りのなさを追及したそのデザインがキライなのだよ我輩は!
そういうのは小中学校で左翼思想にまみれた教員が子供にくばる小冊子にかならず描かれている。
そしてそういう小冊子はかならず読んでもおもしろくない。
しまいには小冊子が出てくるだけで少し憂鬱にまでなる。
そんなキャラクターは大っ嫌いだ!
この問題はマスコットキャラクターだけの問題ではない。
たとえば「PTAが選ぶ子供に読ませたい本」なんてのはどうだろう。
子供時分に読んでみたところ、そのどれもがそろいもそろってクソつまらんかっただろ?
そんなんあたりまである。
本のクライアントである左翼の好みを考慮して当たり障りのなさを追及した結果として、エンターテイメントとしての要素が入っていないからだ。
小中学校のころ、読んでおもしろいと思える本は学校の図書館には1冊もなかった。
当然のようにわたしは本がキライになった。
今でこそ年間10万くらい書籍費に使うくらいになったものだが、それは高校に入って作家志望のクラスメイトから富士見ファンタジア文庫を紹介されてのち、本は実はおもしろいものだとわかった後になってからだった。
(当時は電撃より富士見ファンタジアのほうが圧倒的に上だった)
今では学校の図書館にハルヒがあり、本が好きな少年少女は積極的にそれを借りて家で読みふける者もいるという。
わたしの出身小中学校ではそんなことは絶対ありえない。
左翼の基準からすればラノベは有害図書まがいだからだ。
そしてラノベを図書館から排除することで、本はことごとくがつまらないもので読書が趣味などという人間は精神を病んでいるのだとしか思わないような当時の我輩のような子供が育つ。
こんな話はいくらでもある。
前に当blog記事に書いたことだが、修学旅行で長崎にいったおり、わざわざジジイの原爆体験を聞かされるというスケジュールを強要され、生徒がブチ切れた、そんなん当然だ、我輩はそう書いた。
左翼がからんでエンターテイメント性を排除したからそうなった。
左翼の教員が算数や数学を教えると、数学なんて実生活で何の役にもたたないと信じる大人に育つ。
我輩はそのなかの1人に
「シューティングで弾をバラまくときにさ、こうやって三角関数を使って座標計算するんだよ。ほら数学って役に立つだろ?」
と説明したところ、大変納得してくださった。
これも問題の本質としては全く同じものだ。
人は知識を吸収するとき、おもしろいと思うかどうかが致命的に重要である。
だが残念なことに、労働者はガマンして生きるモノだという信念がある左翼には死んで生まれ変わるまでそこは理解できない。
それを理解できないヤツが音頭をとると、致命的につまらないモノができあがる。
それは単につまらないだけでなく、その分野まるごとがくだらんモノだと子供に誤解を促進させるという、負の外部性まで持ち合わせる。
わたしが本がキライだったのもそれが原因だ。
我輩はこういう左翼気質からくるエンターテイメント性の排除傾向に嫌悪感がある。
共産党のブースでその臭いがして胸クソ悪くなった。
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