教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

バケモノで幽霊で女の子

2010-03-19 00:01:14 | オタネタ全般
幽霊にまつわる作品は、ず~っと昔から常に一定数の供給がある。
それは神話の時代にまでさかのぼることのできるものだ。

これらの幽霊にまつわる作品群、実はある種の定番となるストーリー作りの手法が確立されているような気がする。
その手法を少しばかり分析してみる。



[起]
まず幽霊の女の子がでてくる。
これは実にかわいらしい。
(主役が女の場合にはその逆パターンになる)

[承]
そして何だかんだの紆余曲折を経て、二人はイチャラブまがいな関係におちいる。
幽霊だと既にバレているケースも少なからずある。

[転1]
ひょんな事件がおこる。
主人公が古めかしい何物かのアイテムを発見したとか。
新たな人物が現れて、実はそいつには霊感があるのだとか。

[転2]
それによって幽霊の女の子の正体が暴かれる。
たいていの場合にはおぞましい存在として描かれる。
ゾンビーっぽい腐った体だとか、血だらけの体だとか、そんなヤツ。

[結]
幽霊を退治する、または幽霊から逃げ延びる。
やっぱりバケモノはバケモノだよね。
命をとられる前にこっちに戻ってこれてよかったね。
めでたしめでたし。



さて。
こうやってあらすじ化したとき、これを改めて見てどう思うだろうか?

主人公は幽霊が魅力的な異性の外見をしているから好きになっただけじゃないか。
主人公は外見が醜くなったら、とたんにバケモノ扱いを始めるのか。

わたしは常にそういう疑問を抱く。
それは必ずしもわたしだけではなかろう。

最近読んだ作品の1つを挙げてみよう。
「黄昏乙女×アムネジア」の2巻とか。

話の途中までこのテンプレ的なストーリーになりかけていて、ちょっとガッカリしかけた。
しかし、そこは作者の腕の見せ所。
結果的にそうはならず、じつに巧い魅せかたに持っていった。
ガッカリしかけたのは杞憂に終わったことが嬉しかった。
これは買って損はないぞ。



この作品のテンプレ的なストーリーになりかけていた中盤のころ。
わたしは主人公を見て次のように思った。

おまえは幽霊の夕子さんを、ツラがかわいくておっぱいがデカいから好きになったのか?
違うだろ?

わたしはアイマスの千早を、ツラがかわいくておっぱいが慎ましいから好きになったのか?
もちろんそれだけではない!
(・・・いやまあ、いますぐ全否定するのは躊躇するどさ(笑))

これは別に幽霊のことに限るわけではない。

たとえば、彼氏彼女が病気や事故でツラがひどいことになったとか。
たとえば、結婚相手は10年たったらウエストが2倍になっていたとか。

自分自身が幽霊に遭遇してしかも恋仲になるなど天文学的確率でありえない。
だが、これらのことは十分ありうることなのだ。

あなたは結婚相手が10年たってウエストが2倍になったバケモノと化したら見限るのか。
そうではなかろう。
それは幽霊にしたって同じことではないのか。



わたしは思う。

幽霊の恋人がバケモノに見えたらとたんにバケモノ扱いするのはどうなのかと。
バケモノだっていいじゃないかと。

バケモノに見えた恋人に
「それでも俺はおまえが好きだ!」
と言ってやれるほどの心はないのかと。

幽霊の恋人がバケモノだと分かったら、その人とは違う苦しみを分かち合って生きようと、なぜそう言わないのかと。
自分もバケモノの道に分け入り、そして2人で苦しみを分かち合って生きようと、なぜそう言わないのかと。

「俺はおまえに食われても一向にかまわん!」
と、なぜ言えないのかと。



わたしはバケモノの夕子さんを抱きしめてやりたい。
それが好きだということだ。
それができない者は、たとえ主人公であろうとも「夕子さんは俺の嫁」と語る資格はない。

人は見た目が全てではない。
しかし幽霊問題については人は見た目が全てである。
だからこそ、わたしは安易にとってつけたように作った幽霊物語はこれっぽっちも好きになれないのだ。

すっぱいブドウで韓国人を説明してみる

2010-03-18 00:01:09 | 経済/経済/社会
韓国人の中には日本が大嫌いなヤツらが大勢いる。

最近では、
「俺は日本が大嫌いだ!」
と公言することで日本コンプレックス丸出しになってしまう事にすらコンプレックスを抱くようになるという自己矛盾に陥りつつある有様だ。

それほど日本が大嫌いならほっておけばいいというのに、日本の有名人をかたっぱしから在日認定していくという、それはそれは不可解な言動に終始している。
一説には、韓国人に嫌われている芸能人やスポーツ選手をのぞくと、一流の芸能人やスポーツ選手は全て何らかの在日説が備わっているという、もう呆れるしかないような状況にあるのだとか。
最近でも、フィギュアスケートの安藤美姫選手は韓国人だとかいうことを現地で吹聴しまくっている困ったチャンの韓国人がいるというのでニュースになっていたものだ。

さて。
実はこれ、イソップ寓話のすっぱいブドウで説明できるのではないかと思った。
その路線でイソップ寓話を改変して当てはめてみる。



韓国人のキツネが、日本人が育てたぶどうを見つける。
実態はともかく、それは日本人が作ったというだけで実においしそうに見える。
キツネは周りをみわたして日本人が監視していないことをたしかめたあと、おもむろに盗みにかかる。
しかし何とかしてブドウを食べようとするが、どうしてもぶどうに届かない。
ついにキツネは
「どうせこんな日本人が作ったブドウなんてすっぱいに決まっているニダ! だれがそんなもの食べるか!」
と捨て台詞を吐き、さらに
「このブドウの苗は韓国起源なんだぜ!」
とまで言い残して去っていきましたとさ。



まさに言いえて妙な設定になるとは思わないだろうか。

ちなみにこの論法は韓国嫌いの日本人にはそのままでは当てはまらない。
そこで、当てはまるように改変したイソップ寓話を記してみよう。



日本人のキツネが、韓国人が育てたぶどうを見つける。
「なんだ、韓国人が作ったブドウかよ…」
ブドウの良し悪しを吟味するまでもなく、キツネは一瞥しただけでその場から立ち去る。
それを陰から聞いていたブドウの主の韓国人はプライドを傷つけられたと勝手に思い込み、
「ウリはキツネに差別を受けたニダ! 謝罪と賠償を(以下略)」
といって抗議し始める。
その後、日本人のキツネはアメリカさんの家へブドウの苗を買いにいきましたとさ。



こちらのほうは韓国人のようなルサンチマン精神とは大きな隔たりがあることに気付くだろう。
この違いが日本と韓国の違いであり、日本人が理解できない韓国人の醜態の行動原理なのだ。



追伸:

http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/1177836.html

> 1965年の日韓基本条約に伴う協定で両国間の財産・請求権問題が完全に解決されたことが確認されたが、韓国政府は慰安婦、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題は対象外だったとの立場。

韓国人といったらやはり↑これだ。

かつて日本は韓国政府へ賠償金を支払った。
それは韓国政府と韓国の国民へのものも含み、しかも北朝鮮の分まで含む内容だった。
そして条約を結び、
「完全かつ最終的に解決した」
「1945年8月15日以前に生じたいかなる請求権も主張もすることができないものとする。」
と約束した。
しかし、韓国政府は政府の都合で勝手に使い込み、韓国の国民へは1銭たりとも渡さなかった。

そして今。
今更その条約には含まれないものがあると言い出している。
また日本から賠償金を受け取れると思っている。
韓国政府が国民に渡さなかった分を日本政府が渡せと言い出している。

「誠意」といえば何でも通ると思っているのか?
ふざけるのも大概にしろ!

日本に対しては何をやっても許されると思っている、こういう韓国人気質を心の底から嫌悪する。
わたしの知る限りにおいて、韓国人ほど良心に不具合をかかえている唾棄すべき国民は他に見当たらない。

今の韓国とは仲良くしてはならない。
韓国は日本を陥れることしか頭にないのだから。

トヨタ報道が気に入らん

2010-03-17 00:00:47 | 経済/経済/社会
わたしはトヨタのリコール問題について詳しく語れるほど記事を眺めたわけではないが・・・
それでも1つだけ言いたいことがある。

マスコミがやるトヨタの報道のやりかたが気に入らねえ!



とはいっても、何から何まで気に入らないわけではない。
技術系の専門誌の分析は良くできているものが多い。
技術系に偏っているとはいえ、原因をちゃんと分析して書いているからだ。

で、何が気に入らないかというと・・・
TVのような大衆向けマスコミの報道が気に入らんのだ。



だいたいにおいて大衆向けマスコミはアタマが悪い人向けに書いているとしか思えないようなフシがあると感じる事が少なくない。

たとえば今回のトヨタの件。

どういうところに問題があるのかという議論を全てすっ飛ばして、
「トヨタの○○という儲けに走りすぎる行為がどうのこうの・・・」
という言い方で常に締めくくられる。

とにかく論調ありきで、
「やっぱりね~。儲かっているところは絶対何か悪い事していると思ったのよ」
と、井戸端会議で言うための報道をしているのが目に付いてしかたがない。

わたしはこういったような、事実を告げることすら疎かにしたままに悪者と決め付けるようなTV局の報道が気に入らない。
本物のアタマが悪い人なら
「なんだかよくわからんけど、TV局が言っているから、きっとトヨタは儲け主義に走りすぎて墓穴を掘ったんだ~」
とだけ思って全て解ったような気分になるからだ。

これは社会にとって悪質だ。
1年前の自民党への報道がまさにそれだったと思わないだろうか?

これはわたしがアニメ以外でTVを見なくなった理由の1つでもある。
これじゃあ地上波TVが落ちぶれるのはしかたあるまい(笑)。
アニメだけは例外的に素晴らしいのは、アニメはTV局が作っているわけではないからなんじゃないかとすら思うものだ。



レベルが低いと思うようなマスコミの言うことに耳を貸す必要はない。
ただ事実だけを見て聞いて、判断は自分でする。
願わくば大衆の多くがそうであってほしい。



追伸:

一応おことわりを。

わたしはどこぞの企業のことを語るときは、株を持っているかどうかを最初に書いた記事に併記するようにしている。
当blog風情でポジショントークになるとまでは行かないと思うが、そのほうが偏ったことを書いているかどうかを読者が判断しやすいため、より公正であると考えるからだ。
そもそもわたしも株を持っている企業に関して公平に記事にしている自信はないわけで。

で、今回のトヨタ株でいうと、ETF(上場インデックスファンドFTSE日本グリーンチップ35:1347)経由で間接的に少しだけ持っているが、1単位より遥かに小さいくらいの僅かなポジションがあるに過ぎない。
だからたぶんバイアスはほとんどかかっていないと思う。

ちなみに地上波TV局は全く持っていないし、明確な衰退産業だと思っているので今の株価の1/5でも買う気はしない。
なので地上波TV局に関してはマイナスのバイアスはかかっているかもしれない。

Googleなんかおかしい

2010-03-16 01:32:19 | 連絡など
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%A0%E5%95%86%E6%B3%95&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=

↑これを見てくれ。
Googleで「ファルコム商法」と検索すると、189,000 件中で上から5番目に当blogの某記事がひっかかる。
名だたる評論をさしおいてだ。
検索用の埋め込みタグも使ってないのに、いったいどういうアルゴリズムになってんだよ(笑)。

おもしろいからついでにいろいろ検索してみた。
恣意的に当blogがひっかかるようにしてみると・・・

「blame! 数字」 → 51,500件中1番目
「鋳造 パンチラ」 → 34,800件中1番目
「貧乳派 あずさ」 → 18,200件中1番目
「貧乳 差別」 → 181,000件中3番目
「サンタクロース 証明」 → 466,000件中4番目
「おっぱい 流体」 → 18,000件中4番目
「パンチラ 信号」 → 108,000件中4番目
「クイーンエメラルダス 最終回」 → 11,600件中5番目
「おっぱい 科学」 → 4,960,000件中6番目
「千早 おっぱい」 → 124,000件中8番目
「縞パン 二次元」 → 48,300件中9番目
「雪歩 ドリル」 → 25,600件中9番目

という感じで、わざとひっかけようと思えばどうにでもなるらしいが。
というか、「おっぱい 科学」とか500万件とかあるし、みんな関心高すぎだろ(笑)。

オタクの恋愛と閉鎖性

2010-03-15 00:03:53 | オタネタ全般
オタクは家にこもりっきりでコミュニケーションを好まず、極端に閉鎖的であると言われている。
少なくとも、オタクではない者たちから見た立場では。

果たしてこれは正しいのだろうか?

ある意味で正しい。
しかし、ある意味で間違っている。

オタクと閉鎖性の問題に関しては、あまりにも範囲が広すぎてblog1~2回分で語るには重すぎる。
そこで今回は恋愛についてだけ、オタクの恋愛と閉鎖性について考えてみる。



恋愛とは何か。

まず比較のために一般的な恋愛とは何かを考える。

いろんな定義のしかたがある。
その中の1側面として、少なくとも
「不特定多数の異性の中から特定の誰かを選択する」
という条件は含む。

そしてこの選択が双方向となったとき、つまり
「不特定多数の同性の中から自分を選択される」
も同時に成り立った場合、恋愛は成立する。
あたりまえといえばあたりまえだ。

しかし!

ここに重大な問題がある。
不特定多数の中から特定の何かを選択し、選択される事だ。

キホン的には人間は量産品ではない。
したがって誰かが何かを選択すると、それ以外の全ての人はそれを選択することができない。
何かを選択するということは、他の全てを排除することでもある。
極めて排他性が強い。

では、オタクの恋愛とは何か。

先のものと同様に、
「不特定多数の異性の中から特定の誰かを選択する」
のところまでは共通である。

しかし、明確な違いがある。
ここでいう異性とは、ギャルゲーやアニメのヒロインである。
こういったモノは量産品として提供される。
したがって誰かが特定のヒロインを選択しようとも、それ以外の全ての人にとってそれは関係ない。
オタクの恋愛において何かを選択するということは、必ずしも他の全てを排除することとはならないのだ。
そこには排他性など全く存在しない。



一般的な恋愛は極めて排他性が強いため、極めて強い排除傾向を示す。
他人が介在することを許さない。
あたりまえといえばあたりまえだ。

しかしオタクの恋愛においてはそれは違う。
排他性など全く存在しないため、わざわざ他人を排除する必要はない。
求める者全てに対して等しく恋愛が提供されるからだ。

むしろ、同じ作品や同じ人を好きになった者同士が緩いつながりをもつコミュニティーを形成する場合さえある。
たとえばわたしはアイマスの千早が好きであり、「如月千早を愛でる会」(※1)というニコニコミュニティーに参加しているし、千早メインのMAD動画(※2)まで投稿したこともある。



この違いは情報工学用語でいうところの排他的論理和と論理和に相当する違いのように思うがどうだろう。

リアルの恋愛を情報工学で例えてみる。
不特定多数のデバイスと接続されている現実という回線において、特定の誰かと排他的論理和の双方向通信をしていることに相当する。

オタクの恋愛は違う。
不特定多数のデバイスと接続されている現実という回線において、特定の誰かの設計情報を要求する。
たとえば、アイドルマスターというゲームの如月千早というヒロインのグラフィックやセリフを要求し、たとえばゲームソフトを買うことで要求を満足する。
そして設計情報からヒロインの人格というインスタンスを自分の心の中に発生させる。

オタクの恋愛は自己の内で完結する。
排他的論理和の双方向通信など必要としない。
そして外部との通信はコミュニティーという立場で常にオープンなのだ。



さて、どうだろう。
はたしてオタクのほうがより閉鎖的と言えるだろうか。

一般的な傾向としてオタクのほうがより閉鎖的と言われるのはしかたがない面もある。
しかし、こと恋愛に関しては、わたしはリアルのほうがより閉鎖的と感じる。

これはどちらが良いというものでもない。
個人の好みによって選択すれば良い。
そもそも恋愛とは究極の嗜好品であるからだ。

このどちらか一方を完全に無くすのは社会に良くない歪を発生させる。
わたしはリアルの恋愛を閉鎖的だと批判して共産主義のような悪平等を推奨する気はさらさらない。
その逆もしかりであり、オタクの恋愛を完全否定し、法律により世間から全廃してしまおうというような民主党副代表の円より子議員のような悪意ある極論もまた正しくない。

大事なことは、お互いを理解しお互いに危害を加えないこと、ようは大人の対応をして棲み分けることだろう。
恋愛に正しいも間違っているも無いのだから。



【※1 如月千早を愛でる会】
http://com.nicovideo.jp/community/co236

【※2 千早メインのMAD動画】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9680568

声優とエロゲ

2010-03-14 00:00:22 | オタネタ全般
最近になって知ったのだが。
遠山枝里子氏というエロゲ声優がいる。

氏は胸囲的な歌唱力に定評がある。
(注:誤植ではない。意味はお察し下さい(笑))

この人が出てくるニコニコの動画には高い確率で「お察し下さい」タグがつく。
たとえば↓こういうヤツだ。

> 如月千早 風のりずむ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8741887

いったい我々は何を察するべきなのか。
それは大人の事情だから言えないんだな、これが(笑)。
たかはし智秋氏のように非エロゲでもエロゲでも同一の芸名で戦う猛者も世の中にはいるが、そうもいかないのが大人の事情というものだ。



わたしは故あって声優にいきすぎるのを制動している(※1)し、声優とはキャラの写し身ではなくキャラの部品の一部だとして見ている。
だからわたしとしてはエロゲで声優やってようが何しようが特段何か思うことがあるというわけではない。

あえて言えば、同じ部品を使った別の製品という意味で多少興味があるというところか。
何だかおもしろそうだからPC版の「あかね色に染まる坂」を買ってみようかとすら思う。

いまのところで言えば、遠山枝里子氏のほうはファンは大人の事情を受け入れて楽しんでいるように見える。
これは恐らく本人が通なオタの間でだけ名が知られるからこそ許されるものだろう。

ところがそれ以上になると恐らく事情は異なる。
地上波アニメで主役級の常連となると話は違うだろう。

たとえばの話、紅白にまで出場し、しかもスポーツ新聞でトップを飾るほどになった水樹奈々氏。
もし仮にエロゲ声優をやっていたとしたらどうだろう。
スキャンダルになりかねない。
地上波アニメ作品では出入り禁止になる可能性も否定しきれない。
実際、みやむーAV事件疑惑のときもファンはあれだけ大騒ぎしていたじゃないか。

なぜそうなるかというのには理由がある。
世間の声優ファンの多くには、わたしのように声優をキャラの部品として見ているフシはない。
多くの者は世間のアイドルよりもピュアなものを求めて声優に走る。
それは以前記したとおり(※2)である。

そういう声優に対するアイドル扱いが大人の事情を生む土壌になってしまっているのだ。



大人の事情が発生してしまうと双方にとって損失だ。
声優ファンは変なスキャンダルで踊らされる。
キャラのファンはその声優がやっている別の仕事の知識を失う。

大人の事情があることによって得るものは多くはない。
しかし、大人の事情があることによって守られるものもまた少なくない。

現状は最適解ではない。
しかし落としどころがどこにあるのかを考えるのはかなり難しい。
まあ、いろんな事情によって大人の対応をしている現状はそうそう最悪に近いことではないだろう。



声優のような一芸でメシを食うような職業は、駆け出しのころは金銭的に困窮するのが普通だろう。
売れない芸能人が赤貧なのと同じである。
だから仕事など選ぶ余裕もそうそうあるわけではない。
仕事がないならエロゲ声優でもやるべきだ。

しかしそれはある種のリスクでもある。
到達点を声優の頂点とすると、エロゲ声優の過去があると恐らくそこには到達することはできない。
アイマスでいうところの、D~Fランクでエロゲ声優という営業をやって無事に通過した分のトレードオフで、こんどは逆にSランクに上がれなくなる・・・そんなところだろうか。



【※1 声優にいきすぎるのを制動している】
踏み込むのをためらうモノ
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20091023

【※2 アイドルよりもピュアなもの】
2.5次元世界の住人たち
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090927



2010.03.19追記:

たかはし智秋氏がエロゲで同一芸名で出ていると書いてしまったが、どうやらエロゲを非エロに移植した側にしか出ていなそうな模様。
まちがい失敬。

日本の半導体はなぜダメなのか?(下巻)

2010-03-13 00:09:53 | 経済/経済/社会
(・・・前回からのつづき)



この5つめの説について私見を語りたい。
ようやくこっからが本題である。

例えば高信頼を要求する産業用機器で使うことを想定してDRAMを評価したとする。
時間をかけてマジメにそうしたらサムソンやハイニックスのDRAMは腐った結果しか出ない。
やはりエルピーダはすばらしい、そういう結論になる。
カタログスペックを見てもDRAMの寿命は他のものに比べたらビックリするくらい短く、そもそもにおいて最近のDRAMは品質にかなり問題がある製品である。

> DRAMエラーは珍しくない Google社が大規模調査
http://bizboard.nikkeibp.co.jp/kijiken/summary/20100118/NE1021H_1586015a.html

↑これを読んだ人はわたしと同じことを感じると思う。
これの数字のオーダーはともかく、DRAMの品質はビックリするくらい悪いというのは、関係者なら
「ああ、やっぱりね。薄々そうだろうとは思っていたよ・・・」
というところでしかない。

わたしは秋葉原に行ってもサムソンやハイニックスの製品は絶対に買わない。
品質が劣ることはわかっているからだ。
今のPCのメモリを増設するときだって、秋葉原をウロウロして韓国製以外のものを探して買ったものだ。

わたしはカネを2倍出せば韓国製以外になるのであれば喜んで支払う。
それくらい品質はエルピーダやその他のまっとうな会社に劣るのだ。
韓国製なんて、中国製よりちょっとマシで、日本製よりちょっと安い、そういう本来誰からも必要とされない立場にあるものなのだ。

しかし市場はそうは見ない。
とりあえず買ってきて動けばよしとする。
個人でメモリカードを1枚買う分にはハズレを引く確率は非常に低いし、ハズレを引いたところで健康被害にあうわけでもないので、品質が悪いのは消費者には気付かれない。
日本製よりちょっと安いならば皆それを買う。
特に諸外国では消費者は品質より売値にシビアだから韓国製を選択する。

韓国製なんぞクソだが、韓国製は文句を言われても知らんぷりしてシラを切れるギリギリまで低い品質に狙いを定めて作るという、ある意味で賢い商売をしている。



なぜこうなっているのか?

これは日本の独特の文化がそうさせている気がする。

半導体産業に限らず、昔からモノを作って暮らしている日本人の多くは、自分の作った物を高く評価してくれる違いのわかるお客に評価されると嬉しく感じる。
だから工芸品や食材などは凝りに凝った至高の産物が生み出されていく。

これは半導体産業でも同じであり、
「品質や性能を見比べた結果、あんたが作った半導体がいちばん優秀だから買うよ!」
と言ってくれるお客のほうをついつい見てしまう。
だから日本人は品質至上主義や性能至上主義に偏りがちになる。

よくある
「お客様は神さまです」
だとか
「お客様の喜んでくださる姿が最高の報酬です」
だとか言うが、それは品質至上主義や性能至上主義から来ているものでもあるのだ。

ところが!

実は韓国はそうではない。
ヤツらの頭はカネであり成功である。

お客が喜んでくれるかどうかにかかわらず、とにかく儲けが最重要課題であり、そしていちばん儲けたヤツが成功したヤツであり、それがいちばん偉いのだ。
ヤツらは儒教精神がそうさせるのか、そもそもモノ作り自体が下賎な職業だと思っているフシすらある。

だから自分が作ったものが素晴らしい出来でなくても良い。
だから自分が作ったものがギリギリまで低い品質でも知らんぷりしやがる。

ヤツらにとってはいちばん売れていちばん儲かること、ただそれだけが重要なのだ。

わたしはちゃんとしたものを売ってよこすエルピーダを、ちゃんとした品質対応をするエルピーダを、サムソンより1万倍は尊敬している。
しかし韓国人はエルピーダより儲かっているサムソンを1万倍は尊敬している。
それが日本独特の文化による違いなのだ。



世界中の全ての人がそれで良いというのであれば、それは日本人が悪いのかもしれない。
しかし、きっと本音ではそうではなかろう。

わたしはこれを解決することが日本の半導体産業の復活の鍵だと考える。
しかし、どうやったら解決できるのかという糸口は思いつきもしない。

何か良いアイデアは無いものか・・・?

日本の半導体はなぜダメなのか?(中巻)

2010-03-12 00:01:02 | 経済/経済/社会
(・・・前回からのつづき)



2000年代の半ば、そしてまた新たな説が現れた。

当時アメリカでは、ITバブルをやったこともあって、かなり多くの企業が立ち上がった。
中でも急成長して今でも生き残っている、または瀕死の重傷から立ち直って高収益を上げている、そんな企業の多くには共通点があった。
自前では半導体の製造設備を持っていないことだった。
自分は設計に特化していることだった。
ファブレスの勃興である。

日本の大手メーカーはそのファブレスという商売の対極に位置していた。
自前で半導体の設計ツール群まで構築し、半導体を設計し、半導体を製造し、その半導体をのせる最終製品まで作る。
これでは自前で何でもかんでも世界トップレベルでなければ生き残れない。

対してファブレスは半導体を設計することに特化している。
欧米では設計ツールに特化した会社やファブレスが強く、そして製造特化(ファウンダリと言う)は台湾が強く、日本はどれもそこそこ止まり。
だから勝てないのだ。

・・・というのが4つめの説だ。

これを改善する手は1つしかない。
大手メーカーを解体するのだ。

例えば半導体の製造工場だけを別会社にし、半導体の設計部門だけを別会社のファブレスにし、本体は最終製品だけに注力する。
そして各々の大手メーカーから分離した製造工場を1つに統合して巨大な製造専門の会社にする。
そうすれば勝てる。

そう言われていた。
たしかにそういう話し合いは政府主導でも行われていた。
そういった想定上の会社のことを、日の丸半導体工場だとか日の丸半導体会社だとか日の丸ファウンダリだとか呼んでいた。

しかし実現の度合いは芳しくなかった。
あえて言えばエルピーダが出来たくらいのものだ。

理由はいくつもあろう。
中でも、各々が企業秘密のプロセスルールで作っているものを人のプロセスルールに合わせて作れるようにラインを改造しなおすのは無理だという事が主たる原因の1つにあるように思う。
だから、会社が合併したところで、単に財務的に合併しただけに過ぎず、製造現場では合併によるスケールメリットが出るわけでも何でもなかったのだ。

どことは言わないが某会社がその例だろう。
未だに合併前の各々のスジでやっていると聞く。
今度もう1社合流することになるが、それでもやっぱり合併前の3社各々のスジでやっていくことになるだろう。

これでは何で統合したんだと言われるのがオチではなかろうか。

あと、日本はファブレスの立ち上げも芳しくない。
ファウンダリを立ち上げるには100億円くらいあったところで話にならん。
しかしファブレスなら恐らく数億円くらいで何とかなる。
だからファブレスのほうがベンチャーに向いている。

ベンチャーに向いているとはいえ、社長個人のサイフから数億円を出すのは無理というものだ。
どっかのベンチャーに興味がある投資家から金をかき集めるしかない。
そういう文化が日本には根付いていないし、技術屋の起業精神もまた根付いていない。

日本発のファブレスで上場までこぎつけたザイン(6769)やメガチップス(6875)は実に良くやっているが、そういうものは日本では特殊事例なのだ。



2000年代の終わり頃、最近また新たな説が現れた。

その説によれば、同じ条件で同じ物を作っても日本では勝てないと説く。
なぜなら、日本の企業は品質にこだわりすぎるからだ。

例えばの話、中国製の餃子は安い。
しかし、たまにアタリを引くかもしれないという品質上の問題をかかえている。
日本製を買えば安全で高品質だが、その代わり何倍も高い。

これは何を意味するかというと、品質とコストはトレードオフにあるということだ。

日本の半導体メーカーは、高品質を要求する日本のセットメーカーに叩かれて鍛えられた。
おかげで品質は良い。
(常に非常にすばらしいとまでは言いたくないが・・・)

しかしそれは日本人の要求である。
世界の人々はそこまでの品質を要求しない。
品質は多少悪くてもいいからもっと安いものをよこせと言う。

日本は品質こそ命だと考え、それを重点的に改善してきた。
しかしその反面、品質を落として安く作るための技術は二の次にされてきた。
だから日本では売れても、世界で通用するものは作れない。

・・・というのが5つめの説だ。

この説はまだどうしろとまでは言っていない。
あえて探しても、破壊的創造を!だとか、ワールドワイド視点を!だとか、抽象的なことしか言っていない。

だから正しいかどうかの検証はこれから始まるところでしかない。
しかし今までも常にそうであったように、新たな説は常にもっともらしく聞こえるのだ。



この5つめの説について私見を語りたい。
ようやくこっからが本題である。



(次回へつづく・・・)

日本の半導体はなぜダメなのか?(上巻)

2010-03-11 00:00:16 | 経済/経済/社会
ひところの日の丸半導体の勢いに比べれば、いまの日本の半導体産業はもう目も当てられないくらいに落ちぶれている。
国籍別のシェアでいうと、そろそろ全盛期の半分を割ったんじゃなかろうか。

ちなみにわたしも電気屋に一枚噛んでいるもんで、こういうのは実にお恥ずかしい話だという感じもする。
その業界人にやや近い立場の者から見ても、日本全体の将来ならともかくとして、もう日本の電気屋には未来はないと感じるものがある。
株やっている個人投資家という立場から見ても、日本の電気屋で買ったのはザイン(6769)とJパワー(9513)のみであって、大手メーカーなど全く買う気が起きない有様だ。

では、なんでこうなってしまったのか?

この問題はバブルが弾けてから延々と議論され続けてきた。
いわば古くて新しい問題だと言ってもいい。

数年に1度の頻度でいかにももっともらしい説が現れては消える。
そんな中、未だにそれについての議論は収束してはいない。

それを順を追って思い出し、今の現状分析を行ってみよう。
そして最後に個人的見解を述べてみたい。



まず、落ちぶれ始めたころ。
1990年代前半に出てきた説はこうだった。

1980年代後半の日米半導体貿易摩擦問題によって、当時は日本の輸出関連企業が叩かれていた。
中でも半導体業界は叩かれまくっていた。
アメリカ政府がなりふりかまわずおかしな規制を始めそうだと業界は感づき、当時はしかたなく自主的に外国製の半導体をムリヤリ買って使おうとしていた。

今の欧米製はともかくとして、あの頃の外国製半導体は一部をのぞいて多くは納期や品質がクソだった。
日本のセットメーカーはそんな半導体じゃあ使えないからというので、製品を買う立場から技術指導を行った。
日本の製造装置メーカーも、自分たちの商品である半導体製造装置の使い方を伝授するという方法で指導を行った。

結果、日本の技術は流出した。
だから日本のシェアはどんどん落ちていったのだ。

・・・という説が当初のものだ。

当時これはもっともらしく聞こえる唯一の説だった。
しかしこれでは現状の説明はつかない。
首位から落ちぶれてなお今も落ちぶれ続けていることの説明ができないのだ。



そうこうしている間に別の説が言われ始めた。
1990年代後半に出てきた説である。

アメリカの半導体産業が絶不調だったときでもインテルだけは別格だった。
それは、日本のお家芸だったDRAMから早々と撤退し、高付加価値のCPUに特化したからだった。

今も昔もDRAMに比べればCPUはべらぼうに高く売れる。
CPUは論理回路の設計能力が問われるため、いいものを作れば高く売れる。
対してDRAMは規格品でありコモディティーでしかないために、高くは売れない。

コモディティーなんだったら先進国で作るよりも、低コストに作れる発展途上国で作るほうが有利になる。
そのほうが電気代も土地代も人件費も安上がりになる。

DRAMだけで勝負してもいずれ他の誰かに負けるのは歴史の必然なのだ。
だから日本もインテルを見習って、高付加価値の半導体にシフトするべきである。

日本はセットメーカーが使うための専用の半導体をよく設計している。
だから作ろうと思えばCPUも作れる。
もともとDRAMは得意分野だ。
だからその両方を併せ持つ商品を作れば絶対勝てる。

・・・というのが2つめの説だ。

それはシステムLSIなどと呼ばれた。
1chipの中にCPUもDRAMも周辺回路も全て入れたような、1個あれば機能が完結する半導体である。

日本の大手半導体メーカーは1社の例外もなく全員ともシステムLSIに活路を見出した。
結果、製品になったシステムLSIは良いモノができた。
絶対勝てると踏んだのは間違いではなかった。
システムLSIの分野では日本の独壇場だった。

しかし儲からなかった。
キホン的にシステムLSIとは顧客ごとに仕様をすりあわせて作るものだ。
だから1製品あたり1個のシステムLSIを開発せねばならなかった。
開発費用ばかりが常にかかり続け、かといって汎用品ほど売れるものでもない。

結局のところ、勝負に勝って商売に負けた的な、原因は分かっているような分かっていない様なというもどかしい気分を味わいながら落ちぶれていった。



21世紀に入るかどうかのころ、また新たな説が現れた。

その説の論者は半導体など作るだけなら誰でも作れるのだといった。
誰でも作れるのならば、スケールメリットがあるほうが当然勝つ。
スケールメリットを生かすためには莫大な投資を行いライバルに生産キャパで圧倒するしか方法がない。

そんなことは誰でもわかる。
大手メーカーの経営者なら当然だ。

しかし、お金が無い。
半導体業界にはシリコンサイクルという独特の好不況の波がある。
シリコンサイクルの谷のときは特にお金が無い。
そんな中、大赤字でもガンガン設備投資をするのはかなりの度胸がいる。
大手半導体メーカーの経営者はそれにビビってしまった。
不況で投資を減らしてしまった。

ところが海外はそうではなかった。
大赤字でもガンガン設備投資していた。
日本の大手半導体メーカーはシリコンサイクルの谷が来るたびにおいていかれた。
不況のほうが製造装置を買い叩けるから、なおさら差が開いた。

・・・というのが3つめの説だ。

これを改善するためには度胸がある経営者に首をすげ変えれば良い。
ただそれだけだ。

・・・つうか、そんなんで良いわけあるか(笑)。
しかしそれでも当時はもっともらしく囁かれていたんだよな。



2000年代の半ば、そしてまた新たな説が現れた。



(次回へつづく・・・)

ツイッターに行かない理由

2010-03-10 00:02:13 | オタネタ全般
> ツイッター、日本からのアクセスが24倍に。米国に次ぎ2位になる
http://blog.livedoor.jp/booq/archives/1113364.html



↑こんなニュースがあった。
今さら言うほどのものもないが、ツイッターはえらく大人気のご様子だ。
一般論として、日本人が飛びついたときがブームの頂点だという話もよくあるが、今後どうなるというのはひとまず置いておこう。

ツイッターを始めるヤツらは、大概は決まってblogと近い位置にいる。
blogを始めたはいいが更新をめんどくさく感じる人。
blogにちょっと興味はあるがめんどくさいから始めてない人。
blog1本分の記事を書く元気や時間や気力がない人。
そんな人にツイッターは向いているのだろう、きっと。

ちなみにわたしはツイッターに手を出す気は全く無い。

なぜなら。
当blogの内容と文体はツイッターに適していない。
理由はこれに尽きる。



まず、当blogの売りは何かと考えてみる。

自分で言うのも何だが・・・
恐らく、重度のアニオタだけが持つぶっ飛んだ世界観、およびそれに至る思考過程、それが当blogの売りの1つだろう。
そしてその当blogの売りは絶対にツイッターでは表現しきれない。

例を示してみる。
先日の記事、「鋳造とパンチラの奇妙な関係」の内容でつぶやいてみると仮定して改変してみよう。

> 鋳造とパンチラの奇妙な関係
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20100224

オリジナルは↑こう。
それを改変するとしたら↓こう。


 食玩フィギュアを横から見ると、うっすらと縦にスジが入っているのがわかる。
 人体は曲面でできているからそんなスジが入っているのは好ましくない。
 しかしパンチラの縫い目は鋳造で作るほうが向いている。


これで改行コードを入れて196byte、字数制限の70%の消費であり、使うとしてもまあこんなもんだろう。

これを読んでおもしろいか?

おもしろくない。
誰が読んでも「で?」というので終わりだろう。

だからこそ、blog本文はそうはしていない。

まず食玩フィギュアの現状と問題点を指摘し、
プラモデラーとの対比により状況分析を行い、
製法上の観点からの得失を解説し、
欠点のある現状の製法のなかにある隠れた絶大なメリットを洗い出す。

カッコ良く書くとそうなる。
そうやって思考過程を順を追って書いていけば、そこそこ読めるものに仕上がっているはずなのだ。
(興味がある人はblog本文と読み比べてほしいところだが・・・)

まあ、いくらカッコつけたところでパンチラの話なんだけどさ(笑)。
それはいいとして。

この問題は140字以内という字数制限では説明しきらないことに起因している。

第一に。
当blogは当の本人が自覚するほど世間一般からずれたところに住んでいるため、結論だけ書いても意味が通じない。

第二に。
当blogでおかしな結論だけ簡潔に書いてあるより、おかしな結論にたどり着いてしまった思考過程がついているほうがおもしろい。

第三に。
思考過程まで書こうとすると字数がそれなりに必要になる。

だから当blogはツイッターに適していないのだ。



この問題は小説においても同じことが言えるように思う。

かつてわたしは、小説1冊分というのは内容の割には文字数が多すぎると感じていた。
あらすじや設定資料だけ読んでも面白い小説があるべき姿なのだと思っていた。

しかし今はそう思う機会はかつてほどではない。
たしかに文字数が多すぎて冗長な内容のうすっぺらいモノも中にはある。
とはいっても、作者の独特の文体が持つ雰囲気、セリフから受ける臨場感、登場人物の描写から浮かび上がる人物像、そういったものは小説にはかかせないもので、それを表現するにはそこそこの字数を要求する。
それは本が好きなヤツなら誰しもが知るところだろう。

ツイッターにはそれがない。
小説に例えると、背表紙だけ読んでおしまいにするのがツイッターだろうか。
お手軽さとトレードオフで捨てたものがそういうものなのだ。



別にわたしはアンチではない。
お手軽さというものは時に何よりも勝る。
ツイッターを使いこなせる、140字で気の利いたことを書いていくヤツも多いし、そういうヤツは積極的にblogから乗り換えて使ったら良い。

ツイッターがどこまではやるか。
ツイッターがどこまでblog形態を駆逐できるか。
それは、お手軽さと引き換えにしたものをどこまで回収できるかにかかっているような気もする。



【※1 鋳造とパンチラの奇妙な関係】

鋳造とパンチラの奇妙な関係
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20100224

いまさら雀姫伝を見た

2010-03-09 00:00:28 | オタネタ全般
いまさら雀姫伝(※1)を見てみた。
アイマス師匠(※2)に
「雀姫伝を知らんとは、(アイマス好きのニコ厨としては)モグリすぎるwww」
とお叱りを受けたので、教えに習い見ることにした。

実におもしろかった。
さすがに再生数10万超えは伊達じゃない。
実力も再生数も技術も手間も情熱も、全てにおいてわたしの投稿動画なんぞの100倍以上だ。

これのレビューに関してはいくらなんでも今さら感もあるので今回は省略しようかと思う。
今回ここで取り上げるのは作品中の特徴のただ1つ。
女の子のツラと性格についてだ。



男が女を選ぶときの判断基準は何だろうか。

極論するとパラメータは実は2つしかない。
1つはツラ。
もう1つは性格。
ただそれだけしかない。

ちなみに女が男を選ぶときの判断基準は、ツラと性格と財布の3つしかない。
実のところあまりにもパラメータの数は少ない。
ギャルゲーでさえ、たとえばアイマスでさえ、ボーカル・ビジュアル・ダンス・ファン数・・・と、パラメータはもっと多いのだ。

まあそんなことはどーでもいい。
今回の主題ではないからほっておこう。



では。
そのツラと性格のバランス配分はどの程度になるのだろうか。

一般的な傾向としてはホンネで言うと恐らく以下のようになる。
ツラのウエイトが50%。
性格のウエイトが50%。

性格のウエイトが高い選択をするほうが本来の人間としては望ましいことだと、多くの者は薄々そう感じているはずだ。
しかし現実はそうはなってはいない。

なぜか?

簡単だ。
異性としての魅力を感じないものは恋愛対象ではないからだ。
だからどんなにツラのウエイトが低かったとしても、ツラのウエイトは絶対に0%にはならない。

では。
ツラにウエイトを置いて選択したらどうなるだろう。

それは百聞は一見にしかず。
雀姫伝を見ることで全てがわかる。

雀姫伝は見るものに暗にそう教える。
女をツラで選ぶのは間違っているということを。
ツラで選んだ女は何かということを。

雀姫伝のあの女の子のツラの変化は実におもしろいジョークだ。
だが、実のところ安易に笑うだけでは済まないブラックジョークでもある。

この命題は難しい。
恐らく人類は滅亡するまで延々と同じことを繰り返し続けるだろう・・・。



【※1 雀姫伝】
http://www.nicovideo.jp/mylist/6989727

【※2 アイマス師匠】
徒花な日々
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/

おっぱいで流体力学を語る

2010-03-08 00:00:44 | オタネタ全般


(↑この絵はAs-Special氏の同人誌(※1)より勝手に拝借)



わたしは貧乳が好きだ。
わたしは貧乳が大好きだ。

いったいぜんたい貧乳のどこが良いのか?

言いたいことはいろいろとあるが、ここでは1つだけ語ろう。
貧乳とは、一切のムダを取り除いた流線型のボディーラインの構造美である。

まあ、美学についての細かいことはかつて書いたことがあるので、(※2)を参照いただくとしよう。
今日はとりあえずその貧乳の流線型というところについて取り上げたい。



そもそも流線型とは何か。
流線型とは、空気中や水中などで動く場合において、移動方向とは逆向きに作用する抗力を極限まで小さくするように作られた幾何学的形状のことを指す。

例えば戦闘機。
例えばレーシングカー。
例えば新幹線の先頭部分。

空気抵抗を極限まで小さくするために必然的に完成した形状である。
これらは他の一切を犠牲にして、そのためだけに作られた。
だから美しい。
その美しさのことを機能美という。

では、おっぱいはどうなのか?

アイマスの千早胸とあずさ胸で比較してみよう。
おっぱいが流れにさらされていたとき、流体はどのように流れるのだろうか。
それを示すために、流線を模式的に描いてみたものを下に示す。



理想流体ではない全ての流体には慣性と粘性を持っている。
慣性があるので、流れは急には曲がらない。
粘性があるので、そばに流れがあると引きずられて一緒に動く。
その結果、急な凸部があるところでは、凸のすぐ後ろで渦が発生する。
凸部が動くときには、その渦をかき混ぜる分だけ余分にエネルギーを供給してやらなければ動くことはできない。
だから空気抵抗が発生するのだ。

上の図を見てみよう。
凸部が低い千早胸では渦の発生はない。
凸部が高いあずさ胸では渦の発生が確認される。
千早胸は流線型であり、あずさ胸は流線型ではないのである。

このように渦が発生するかどうかを判断するには何を見れば良いのか?

ちょうど便利な指標がある。
レイノルズ数というものだ。

レイノルズ数:Re = 代表速度 × 代表長さ ÷ 動粘性係数

レイノルズ数が大きくなればなるほど、流れに剥離が発生し、後方に渦が生じ、乱流になる。
もし構造を改善することによって渦の発生を抑止しようとすると、キホン的には代表長さを小さくしてレイノルズ数を下げるしか方法がない。
代表長さとは、この場合はおっぱいの高さに相当する。
そして、おっぱいの代表長さが小さいということは、それはすなわち貧乳だということなのだ!

ちょいと注記。
実は「しか方法がない」というのは正しくない。
おっぱいの表面にゴルフボールのディンプルのような凹凸をつけて剥離を遅らせるとか、アンダーバストにカウルをつけて渦の領域を丸ごと蓋するとか、やりようはいくつかある。
しかし、抗力を低減させるための根本的な解決を見ようとすると、キホン的には代表長さを小さくしてレイノルズ数を下げるしか方法がないのだ。
・・・まあそれはいいとして。

おっぱいでなくて車でも見てみるといい。
かたや背の高い箱型のミニバン、かたや扁平で流線型をしたレーシングカー。
さてどちらが美しいかというと、そりゃあレイノルズ数の小さいレーシングカーのほうが美しいに決まっている。

そういう眼力をもっておっぱいを観察した者は、人類多しといえどいったい幾人いるのだろうか。
我々貧乳派は人類に先駆けてその境地へと到達した開拓者でもあるのだ。



・・・とはいえ。
ふと気付いたものはいるかもしれない。
レイノルズ数でおっぱいを評価するのはあまりにも難解すぎやしないかと。

しかし、それは問題ない。
ブラジャーのカップサイズはトップとアンダーの周囲長の差分を意味する。
それはおっぱいの高さにも比例する。
おっぱいの高さとは流体力学における代表長さである。
そして代表長さとレイノルズ数は比例関係にある。

すなわち、レイノルズ数とはブラジャーのカップサイズとイコールなのだ。

千早のおっぱいは美しい。
レイノルズ数の低いおっぱいは美しい。
だから美しいおっぱいは必然的にAカップ以下でなければならないのだ。



【※1 引用元】
タイトル shy
サークル real
主な作家 As-Special
カテゴリ ストライクウィッチーズ
http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0010/16/93/040010169380.html



【※2 貧乳の美しさ】
貧乳の品格 (上巻)
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090510
貧乳の品格 (下巻)
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090511



追伸:

貧乳の希少価値を数学で語るという我輩顔負けの変態紳士(もちろん褒め言葉)もいるので、ここで紹介しておきたい。
正直この相転移P氏には勝てる気がしねえ・・・。
中身はホンモノのマジ数学だよ(笑)。

千早誕生祭[貧乳はステータスだ!希少価値だ!]の数学的解釈について
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9829050
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9829078
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9829091

自分で作ってみて初めてわかる事

2010-03-07 00:32:32 | オタネタ全般
わたしは去年からちょっとづつだがイラストを描いて遊びはじめた。
直近もMADを作ってニコニコに投稿して遊びはじめた。

どれも人生初の試みである。
既にわたしはいい歳こいているわけだが(笑)。

もちろんこれらは趣味としても十分楽しい。
しかしそれ以上に、やってみて初めてわかったこともいくつもあり、それはそれで大きな収穫があった。



マンガの人物画などは、イラストとして眺めて楽しむという用途の他に、人物や表情を区別するというパターン認識の用途も兼ねている。
マンガを忌み嫌っているPTAのオバハンとかでもないかぎり、ふつうの人ならばマンガイラストの人物や表情の区別はつくであろう。

ところが、いざそのイラストの何にオリジナリティーがあるのかという事を説明しようとすると、これが実に難しい。
認識するのはカンタンなのだが、何を認識したのかを説明するのはカンタンではないのだ。

しかし!

実はこれ、自分でマンガイラストを描いてみるという訓練をしてみると、ある程度なんとかなることがわかった。

マンガイラストを描いてマネるという事とは、マネる元がどういう形状になっているかを理解しなければならないという事と同義である。
極論すると幾何学的およびトポロジー的なパターン認識で形状を理解することである。
そこには芸術のセンスだとか絵心だとかいったものの余地は入らない。

これを繰り返していると、マネる元の作風は一般的な描き方に対して何にオリジナリティーがあるのかを、口で言えたりペンで描けたりするレベルでだんだんと理解できるようになってくる。
ある時、マンガイラストを描いたことがない頃の自分と現在とではずいぶん違うモノを見ていることにふと気がつく。
だからおもしろいのだ。

これはプログラムでも電子回路でも同じようなもので、別にイラストに限る話ではないのだが。



さて。
直近では映像系のMADを作ってニコニコに投稿して遊びはじめた。
今まで動画編集などしたことがないヤツが作ったくらいなのだから、お気楽に作れるものでしかないのだが。

自分で動画編集してみて少しだけわかった。
いったい何がカンタンにできて、何がカンタンにはできないのか、そういう超キホン的なことがようやくほんの僅かばかり解ってきた。
よく「謎の技術」などと書かれるアイマスMADがあるが、何がそう言わせるのかが今まで全くわからなかったものが、ほんの少しだけ理解できるようにはなった。
とはいっても美的感覚のほうは全く備わっていない気がする。

わたしはよく、ティンときた!(※1)というサイトを利用している。
ノベマス系の扱いは悪いものの、秀逸なアイマスMADを厳選して紹介してあり、かたっぱしから見て回るより実に効率が良い。

そこでは美的感覚に優れた作品をよく紹介されているのだが、じつはこれ、見てもよくわからないものが多い。
動画編集の技術的に優れた作品の紹介も同様で、見てもよくわからないものも少なからずある。

こういうのは少し悔しい。
恐らく、将棋の解説で「妙手!」と書かれているのに何が妙手なのか自分だけ解らなかったときと同じ気分だろう。

動画編集のほうは趣味として続かないような気もするが、できることなら意味を理解できるくらいのレベルにまでは達したいものだ。

本職のmura氏(※2)はわたしとは全く違うものが見えているのだろうなぁ、などと思う今日この頃であった。



【※1 ティンときた!】

ティンときた! -勝手にまとめるアイマスMAD-
http://imasmad.blog23.fc2.com/



【※2 mura氏】

個人就活ブログ
http://japanimation.blog72.fc2.com/

ロリコンと小中学校教員

2010-03-06 00:08:38 | オタネタ全般
> 派遣社員の教師を使うとロリコンがやってくる理論
http://m-b4d216a51d67d000-m.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-f68e.html



↑ここにおもしろい記事を見つけた。
派遣社員の教師を使うとロリコンがやってくる可能性があるから反対するヤツがいるのだそうな。

わたしは出身中学でかなりいただけない教員にめぐり合ったおかげで、教員という職業に対して感情論として非常に心象が悪い。
だから教員が暴力ざたなどの事件を冒したところで
「やっぱりね」
くらいの醒めた見方しかしないのだが、この際それはおいといて別のことを記したい。



実はわたしが言いたいことは引用元の著者も既に書いてある。

> 正規の教師にはロリコンはいないということかね?
> 年がら年中ロリコン教師や犯罪教師が新聞に載っているぞ。
> 京都教育大学や大分県教育委員会の例を忘れたわけでもあるまい。
> 単に保護者などが派遣社員を差別しているだけなんだろう。

別に教員に限る話ではないのだが・・・
どの職業でも、滅私奉公だとかボランティア姿勢だとか社会的な義務感とか、そういったきれいごとだけではやっていけない。
正確には、やっていくだけならやっていけるが、そんなものしかなかったとしたら、その人はその業界での優秀な人物には育たない。
その仕事が好きでなければ、人は優秀な人物には育たないのだ。

実はその典型は研究者や技術屋である。
研究者や技術屋になんでその仕事を選んだのかと問うと、例えば
「私の研究はエンジンの燃焼効率を高めることであって、それによって化石燃料の消費を減らし、地球温暖化の防止に貢献する使命がどうのこうの・・・」
と言うかもしれない。
しかし、そんなものだけでは成り立つわけがない。
どうやったってテクノロジーが好きでもないヤツがその分野でやっていくことなどできはしないのだ。

たしかシャドウスキルでもそんなシーンがあったような。
クルダを守るという使命感だけではセヴァールはなれない。
自分が誰よりも強くなりたいと願う男でなければダメなのだ。
正確な文面は覚えていないが、たしかそんな風に書いてあったはずだ。



では、小中学校の教員の場合はどうなのだろうか。

中には教員は待遇が良いというだけでやっているヤツもいるかもしれない。
大方は恐らくそれ「だけ」ではなかろう。
では、そういう職業を選択するインセンティブとは何なのだろうか。

わたしが思うに・・・

(1) 教員と生徒という絶対に逆らえない極端な階級社会の居心地のよさ。
(2) 人に物事を教えてさしあげるという、上から目線の立場の心地よさ。
(3) ロリコン、またはショタコン。

と、どう考えてもそれくらいしか思いつかない。
ちなみにわたしは、当時のわたしの出身中学の教員をやるくらいなら物乞いのほうがマシな職業だと本気で思っているくらいなので、これは一般論としては当てにはならないかもしれないが。

当時のわたしの出身中学では、どう考えても(1)が多数派だったとしか思えないフシがある。
世間はどうなのだろう。
できれば(1)が多数派ではないことを願うしかない。

とはいっても残りは(2)か(3)しかない。
どちらであっても世間的には歓迎されることはない。

どちらがマシかというと、手を出さないならば(3)のロリコンのほうが(2)の人物より遥かにマシである。
わたしは(1)の人物が大勢いる学校は経験したため、(1)の人物が教員に値しないクソであるのは断言できる。

そこで、先の引用元のようにロリコンを排除してしまったらどうなるのだろうか。
何と恐ろしい事になるやら想像もつかない。
そう思うのはわたしだけだろうか。

やたら律儀なスパムもあるものだ

2010-03-05 00:02:52 | オタネタ全般
スパムとは、一般的には迷惑行為のことであり、甚だしくマナー違反である。
不特定多数に一方的に配信するものである。

しかし!

世の中には、やたらやたら律儀なスパムもあるものなのだ。



1年以上前のことになるが、かつてわたしはとあるエロゲの記事を書いたことがある。
記事そのものは↓以下を参照いただきたい。

魔法少女アイ参をムリヤリほめてみる
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20081228

記事の中身そのものはこの際どーでもいい。
問題となるのはそのコメントだ。

なぜか最近になって、この記事だけやたらと迷惑レスがつくのだ。
しかもご丁寧にも、エロゲの記事にエロゲの宣伝限定でレスをつけていくのだ。



一般的には、blogの迷惑レスというものは、記事の内容にかかわらずくっだらないエロ広告をつけて去っていくものだ。
たとえば「エッチしてくれたら10万円さしあげます」的なものがそれだ。

これは誰がどう見ても迷惑行為でありマナー違反のは明白だ。
もしこれがどう迷惑行為なのかわからない人がいたとしたら、きっといつか詐欺に合うだろうからネットにつなぐのは止めておいたほうが良いだろう。

しかしどうだろう。
わざわざblogの記事の中からご丁寧にエロゲの記事を探し出して、そこにエロゲの宣伝限定でレスるというのは、それは果たしてマナー違反になるのだろうか。

一般論としては、広告を勝手に投函して去っていく行為はあまり褒められた行為ではないのは間違いない。

例えばgooのblog等ではフォーマットが決まっている上に専用の検索エンジンまで完備されているため、プログラムで手当たり次第に広告をレスりまくるようにするのはカンタンだ。
恐らく迷惑行為をやっている当の本人たちもきっとそうやって活動しているに違いあるまい。

しかし!

このケースは不特定多数への配信ではない。
同じ分野の記事に対してだけ投函しているのだ。
スパムにしては律儀すぎる。
そう思うのはわたしだけではないだろう。

マナー違反としてはかなり黒に近いダークグレー、まあそんなところだろうか。
ホンモノの迷惑レスなら見た瞬間に削除決定だが、この手の広告ならばウザくなりすぎない範囲でほったらかしにしようかと思っている。

まあ、こんなblogで広告になるとも思えんが。