一昨日、ぎらつく太陽に乾ききった通勤路には、トカゲがいた。
昨日、降りしきる雨の中に、カタツムリの親子が這っていた。
今朝、雨上りの歩道には、マイマイガの幼虫がうごめいていた。
自宅から大学までの道筋には、日替わりメニューのように小動物が登場する。
梅雨から夏へ、みんな忙しそうに移動する。
歩きながら見ている私は、よほど暇人に思われているのだろう。
東京へ行かないときは、こうして自然と触れ合う。
至福のひと時だ。
弱肉強食の世界で種の保存のためにひたすら生き抜いている動物たちを見ていると、人間という存在がいかがわしく思えてくる。
戦わなくてもよいのなら、それに越したことはない。
しかしやがて、嫌でも戦いのときが来るのだろう。
私たちの祖先は、そうやって今を作ってきた。
人生は、ルーレットのようなものだと思う。
そう言えば、ずっと昔、そう1976年の6月。
私はチリのアリカという小さな町にあるカジノにいた。
当時まだ、24歳だった。
生まれて初めてルーレットをした。
そして、それが最後でもあったのだが。
一つの番号にすべての財産を賭けるのが、最も期待値は高くなる。
でも、負けるときは瞬間だ。
すべての番号に均等に賭けると、期待値は低い代わりに、最も長い時間ゲームを楽しむことができる。
予想される国際レベルでのサバイバルゲームに、この国はどちらの道を選択するのだろうか。
今、東京では、国の財産をかけて、ルーレットのようなゲームが展開されている。
集中的な投資だ。
大きく勝つかもしれないし、案外、短時間で崩壊するかもしれない。
夢を見るには、それでも良いのだろう。
しかし、夢だけでは生きていけないことも確かだ。
ギャンブルをするのではなく、一つ一つ生産に向けて努力をすることが大切だろう。
そのためには、国の資本を地方に分散投資すべきなのだろう。
そんな意識は、マネーゲームに明け暮れる政治家にも官僚にもない。
問題は、期待値が高く、持続性のある解が存在するかどうかだろう。