
何気なく使う
「ウム」
という言葉には深い意味がある。
漢字では「有無」とかく。
ネットで調べると、仏教用語とある。
インドでは「存在」と「非存在」という対立概念として議論されている。
しかし、釈迦と同一時代に生まれたと言われる老子には少し違う概念がある。
「有無相生ず」
というものだ。
「有」があるからこそ「無」があり
「無」があるからこそ「有」がある
そこで
「ウム」
という時には、あるかもしれないし、ないかもしれない
つまり「いかようなものにも絶対はない」
だから「じっくりと有り無しを考える大切さを自問するときにウムという」
のだそうだ。
紀元前6世紀ころの話である。
人類は2500年以上もこのような「有無」という宇宙観を考えながら、日常的に使ってきたのだ。
ただ、残念ながら、まだ解答はない。
昔、「知恵」という言葉がいつから歴史上に現れたかについて調べたことがあった。
どうも、プラトン、釈迦、老子が三大元締めらしい。
みな同じような紀元前の話である。
そして意味が微妙に違う。
このことが何を意味するのかはよくわからない。
ただ我々の世界は、「偏り」と「均質」を繰り返す傾向があるようだ。
宇宙がこれだけ偏っているのも、閉じていない証拠なのかもしれない。
いまアメリカ大統領選で偏った意見を持つ候補者が多いのも、画一化の裏返しなのかもしれない。
グローバル化が進めば進むほど、社会に対する内向きの力が働くのではないのか。
首を傾けて「有無有無」といいながらもっと事象をよく考えてみたい。