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モスクワの春
不思議な光景だった。ドイツ東部からモスクワへの道の傍らには、まだ片づけられていない生々しい屍が累々として横たわっていた。しかし、それ以外は、何事もなかったような日常があった。食事の時に停車するだけで、晃たちを乗せた軍用車は、ひたすらモスクワを目指した。
町々の入り口と出口には、レーニンとスターリンの大きな写真が貼ってあった。夕方になると、大きそうな家の前に停車し、晃たちのためにいくつかの部屋を強制的に徴用し、そのうえ食事まで提供してくれた。どうみてもVIPの待遇である。
ポーランドの首都ワルシャワを通り、やがて山間の田舎町を通り過ぎていく。まるでピクニックをするような旅だった。将校も兵士も談笑しながら同じ席で同じ食事をとっていた。屋外にあるトイレでは、戸を開け放したまま隣り合せで、談笑しながら大小便をしていた。それだけを見ていると、まるで戦争などなかったような、のどかな光景だった。
5月のモスクワは朝靄に包まれていた。軍用車は、他に寄ることもなく日本大使館の前に止まった。受付に通されて応接室で待っていると、やがて一人の男性が出てきた。
「いらっしゃい。みなさん、ご苦労されたことでしょう。ゆっくり疲れを癒してください。」
この男こそ、駐ソ連大使佐藤尚武、その人だった。1945年2月のヤルタ会談で、すでにソ連の対日参戦が秘密裏に取り決められていた。また、同年4月には日ソ中立条約の更新をしない旨がソ連政府から通達されていた。このような緊迫した日ソ関係下で、日本外交の重責を一身に担っている最中の歓待だった。
「佐藤閣下、私は閣下がかねがね提唱されている、平和協調、平等を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和路線の維持、対英米との関係改善の考えに大いに共感しています。ご苦労でしょうが、我が国のために今しばらくご尽力ください。」
晃のことばに、佐藤は微笑んで答えた。
「時代は大きく変わろうとしています。そろそろ潮時なのかもしれません。あなたたちも急いだ方がよいと思います。」
ドイツ軍が敗れて、戦局は極東に移ろうとしていた。モスクワの春は美しい。何事もなかったように咲きほころぶリンゴの白い花の甘酸っぱい香りが、そこかしこに漂っていた。
翌日、白いパンやキャビアなどの食料を10日分ほど買い込み、晃たちはシベリア鉄道に乗り込んだ。目指すは一路、東へ、その先は満州国だった。
つづく
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