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大正時代の英国
ニューヨークを出た船が、英国のリバプールに着いたのは1週間後だった。ここからロンドンへは列車で移動することにした。
「荷物が多いので、預けましょうよ。」とラウラが言うので、3個の大型カバンをチッキにすることとした。駅員に聞くと、「後ろに連結した貨物車両に自分で積み込んでください。」と言われてしまった。預り証も受取証もない。客が勝手に積み込んで、勝手に降ろしていく。
「本当に大丈夫かな。」
ラウラは「大丈夫よ。」と言うが、晃は心配でならなかった。
列車が止まるごとに小走りに降りては、荷物の確認に出かけた。いい加減疲れた頃にロンドンに着いた。荷物を取りに行くと、少し元の位置はずれていたが、確かにカバンは積み込んだ車両にそのままあった。晃は、英国人を少しでも疑った自分が恥ずかしかった。当時の日本内地鉄道では、考えられなかったことだったからである。
晃は、同じような出来事を、英国のハル港から列車で3時間ほど行った所にあるスカンソープという小さな町のホテルで経験した。
「新聞が欲しいのだけれど。」とコンシェルジュに聞くと、「入り口に積んでありますから、自分でお金をおいて好きな新聞を持っていってください。」と言われた。確認に行くと、新聞の横の小皿の中に小銭が入っていた。
日本という国で、現代のような道徳観がいつごろ形成されたのかは明らかではない。少なくとも、1924年大正13年頃は、あまり道徳的ではなかったようだ。当時を振り返って、「衝撃的な経験でした。」と晃は語っている。
「日本人は世界にまれに見る、礼節をわきまえた民族である。」と記述したのは、16世紀に日本へキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルだと言われている。また、明治の教育者、新渡戸稲造は、日本人の道徳の根底には武士道があると語っている。しかし、考えてみるに、道徳観というのは時代によって変節しているし、一貫したものではなかったのかもしれない。常に軌道修正する教育がなければ、人間は簡単に堕落するようである。
つづく
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