「生きる」ということは、どういうことなのだろうか。
それは単に「死ぬ」という言葉に相対するものではない気がする。
先日の航空機事故のように、副操縦士の暴走によって死を強いられる場合もある。
戦争では、死ぬことが義務付けられたりする。
理不尽であっても、理不尽であると言えない状況もある。
願わくば、自然の摂理に基づいて死にたいと思うのだが、現実は異なる場合が多い。
私の友人である画家ブライアン・ウィリアムズは、自然を瞬間に捉え、絵画の中に凝縮する。
絵の中の世界は、動かない世界である。
写真のようでもあるのだが、しかし、写真とは純然に異なる。
そこには、作者の精神がこめられている。
時にはその情念が放出され、観る人に感動を与える。
絵は、死んでいるのだが、生きているのである。
もし、魂というものがあるとするのならば、このような情念の世界ではないのだろうか。
不条理な死はやるせないが、納得の死は美しいのかもしれない。
事故や戦争による死は、不条理であって、決して許容できない。
「生きる」ということは、不条理を排除して、摂理に従う、ということなのか。
日々の生活に追われる身だが、なぜ生かされ、かく生き、どう死ぬるのかを、時には考えてみても良い。
絵師ブライアンは、魂を込めて、曲面絵画という作品を作り続ける。
こうした具体的な創作の所作が、「生きる」事の証となる気がする。
羨ましい限りだ。
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