江州之圖というのがある。
1662年に発生した寛文近江・若狭地震の前後に描かれた地図と思われ、歴史的に大変興味深い。
どうやって描画したのかは不明だが、現在の地図と比較して北湖が異様に大きいのと、安曇川付近が誇張されているのが特徴である。
この地図と、我々が1990年代に測量した安曇川付近の湖底図とを比較して欲しい。
安曇川の南で大きな地滑りの痕が見られる。
これは寛文地震で発生したものと思われる。
この時に、白鬚神社の鳥居が湖中へ移動したと言われている。
996年の夏頃、この地を船で訪れた女性がいる。
越前へ下向した父を訪ねた紫式部である。
その時に詠んだ歌が、紫式部集に載っている。
三尾の海に網引く民の手間もなく立居につげて都恋しも
万葉集(1171番)にも
大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思はゆ
とあるところから、三尾や勝野というのは古い地名であったらしい。
今の高島市明神崎だというのが定説だ。
紫式部の一行は、勝野付近で船泊りをしたようだ。
ここで注意したいのは、そこは今よりも沖合であったと思われる点である。
おそらく浅瀬が続く豊かな渚だったのだろう。
高島の阿渡の水門を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
と万葉集(1734番)にもあるように
この地を発った紫式部一行は、竹生島を経て塩津湾に入ったのだろう。
かき曇り夕立つ浪の荒けれぱ浮きたる舟ぞ静心なき
今もそうなのだが、菅浦から塩津湾に入る付近は、風向きが頻繁に変わることから難所として知られている。
ちょうど葛籠尾崎付近である。
この地の湖底には、古くは縄文から近くは平安に至る土器が沈んでいることで知られている。
道シリーズは、100回で終わる。
歴史は繰り返すと言うが、同じような風景を万葉の歌人や紫式部も眺めたであろうと想うと、情感を感じる。
ただ地震があったりすると、少し変化してしまう。
その少しの変化を、きちんと後世に残すことが大切なのだろう。
江州之圖を見ると、そんなこと思い起こされる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます