DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

遍歴者の述懐 その34

2012-12-10 11:30:53 | 物語

再び海外へ

戦後の闇相場や闇取引が一段落してきて、海外との貿易が始まる機運が高まってきた。三井や三菱といった財閥は解体されたが、戦前、日本で三番目に海外との取引が多かった東洋綿花株式会社は、幸いにも解体を免れていた。この会社は、もともと三井物産の綿花部門が独立して作ったので、三井との関係が深かった。そういう事情もあって、晃はこの会社で働くこととなった。1960年、晃が62歳の時だった。

戦後、我が国の食料品のうち、穀物油脂の大部分は統制されており、輸入依存率が極めて高かった。とくに、米に次ぐ主要な食物原料であった大豆は、国内生産だけでは到底足らなかったので、戦前に満州から輸入したのに代わって、米国から輸入をしていた。

それまでの米食本位の食生活から、パン食や肉食が普及し始めると、高品質のマーガリンの需要が増えてきた。そこで晃は、豊年製油株式会社の杉山金太郎社長に、世界一の油脂会社であったユニリーバとの提携を持ちかけた。豊年製油はこの話に乗ってきた。

そこで、晃はオランダ大使と面談し、ハーグにあるオランダ外務省を通して正式にユニリーバ社への打診を行った。同時に、東洋綿花はロッテルダムに支店を開設し、晃が支店長となって赴任した。約一年半の交渉によって、1963年3月に豊年製油とユニリーバ社との合併が成立し、豊年リーバ株式会社が誕生した。初代の社長には、晃の友人であった平野三雄が就任した。

1966年にはマーガリンの「ラーマ」を販売し、その後、「LUX」や「DOVE」、「ティモテ」、「リプトン」などの販売へとつながっていった。

「戦後、日本が生き残る道は、無から有を作り出すしかなかったのだ。つまり、資源のある国から原材料を仕入れて、生産能力のある国へ運び、そして製品を世界へ売る。いわゆる三国間貿易が最も向いていたのだ。そのために、教育が普及していた我が国の人的資源や人的エネルギーが役に立ったのだ。」

そのように晃は述懐している。

つづく


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