判決下る
1948年11月12日、 極東国際軍事裁判の判決が言い渡される日、晃は法廷にいた。
「今になって私がこのことを語るのは、法廷であった事実を知らせる義務を感じているからです。それは、とても悲しい裁判でした。私は、たまたま通訳兼書記という形でこの歴史的な裁判に立ち会うことになった数少ない日本人でしたが、職務上当時は何も語ることができませんでした。しかし、戦後30年余り過ぎた今、どうしても伝えておきたいことがあるのです。」
ウェッブ裁判長が、東條英機元総理大臣以下六名の名前を次々と呼び上げた。いずれも有罪、絞首刑が宣告された。
最後に、ただ一人の文官、広田弘毅元外務大臣の番になると法廷は一時休止となった。数分の静穏な瞬間が続き、出席者は固唾を飲んで待機した。
再開されたが、ウェッブ裁判長は、判決を言い渡すことができないでいた。しばらくの沈黙の後、隣席の判事に判決内容の確認をするしぐさをした。その時、晃が見たのは、隣の判事が、さいころを転がすしぐさをしたことだった。判決が分かれ、彼らはさいころで判決を決めたようだった。意を決したように、裁判長は判決を宣告した。
「Death by hanging」
傍聴席にいた広田さんの奥さんと娘さんが、ワッと泣き崩れるのが見えた。
「その時の光景を、今も忘れることができません。広田さんは、何十年か前にオランダのハーグで日本公使をしておられて、私は親しくお付き合いをさせてもらっていました。オランダのチューリップが大好きで、とても愛しておられました。温厚な人柄で、とても誠実で立派な人でした。戦争には反対でしたし、平和の維持に最善を尽くしたということは疑う余地がありませんでした。」
そう語った晃の眼には涙が光っていた。
11人の裁判官中、イギリス領印度帝国、オランダ、フランスの3名の判事が無罪を主張したと言われている。一切の弁明をしないで極刑を甘んじて受けた広田の心情は、この軍事裁判に対する無言の抗議だったのかもしれない。
印度のパール判事が展開した500ページに及ぶ日本無罪論は、列強の侵略を受け続けたアジア民族の正義だったのかもしれない。「Justice」のない行為は、大いなる暴力につながることを忘れてはいけない。
つづく
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