サンバチーム、モシダージ・アレグレで私が13年在籍し続けているアーラ(小集団)のリーダーの息子、ジュニオが火事に巻き込まれて、亡くなりました。33歳の元気いっぱいの兄ちゃんでした。
私がこれだけ長い間、このアーラにい続けているのは、ひとつには、このジュニオのカーニバルへの熱意にあったと思います。
数年前、カーニバルの出発直前、彼がこう言ってチームのみんなを激励していました。
「みんな、今年もこうしてカーニバルに出場できることを感謝して、この一年を振り返って、思い切り歌って、踊るんだ! カーニバルなんだから!」
ふだんの練習でも必ず最後には、アーラのみんなで円陣を組んで、ジュニオが「みんな、ありがとう! 」と閉めていました。
この3年はジュニオがイタリアへ行き、彼なしのカーニバルで、少々さみしいものがありました。
今年のカーニバル直後、結果発表の日にジュニオは本帰国をし、クアドラ(練習場)で1年ぶりに再会しました。
彼は、元コミサン・ジ・フレンチ(先頭隊)のバリバリのメンバーでした。
私は冗談で「ジュニオがコミサンに出なかったから、点数が悪くなったんだよ」と言って、お互い笑っていました。
生まれたときから、お母さん、お姉さん、おじさんたちと一緒にモシダージに通い続けていたジュニオ。
以前は、家族でチームのバール(ビールやスナックを売る店)も運営していました。
12年ほど前、私も夫も所持金を使い果たしてしまい、帰りのバス代がなくなってしまった日があったのですが、そんなときは、ジュニオにお金を借りたものです。
サンバの相談で我が家に来てくれたときもありました。
カーニバル直前のドタバタの時期に、雨が降っていたために、息子と私をわざわざ、自分の家と方向が正反対なのに、車で送ってくれたこともありました。
来年は久しぶりにジュニオがいるカーニバルだと思っていたのに、本当に本当に残念です。
身長180センチの大柄のジュニオが力いっぱい、汗だくになりながら、クアドラで踊っていた姿が目に焼きついています。
チームのみんなに送られて、サンビスタ(サンバ人)が旅立ちました。
(ジュニオのいい写真がないのですが、数年前、雑誌「マンシェッチ」に彼がコミサンで出場した写真のアップがあったので、今度、掲載したいと思います。)
私がこれだけ長い間、このアーラにい続けているのは、ひとつには、このジュニオのカーニバルへの熱意にあったと思います。
数年前、カーニバルの出発直前、彼がこう言ってチームのみんなを激励していました。
「みんな、今年もこうしてカーニバルに出場できることを感謝して、この一年を振り返って、思い切り歌って、踊るんだ! カーニバルなんだから!」
ふだんの練習でも必ず最後には、アーラのみんなで円陣を組んで、ジュニオが「みんな、ありがとう! 」と閉めていました。
この3年はジュニオがイタリアへ行き、彼なしのカーニバルで、少々さみしいものがありました。
今年のカーニバル直後、結果発表の日にジュニオは本帰国をし、クアドラ(練習場)で1年ぶりに再会しました。
彼は、元コミサン・ジ・フレンチ(先頭隊)のバリバリのメンバーでした。
私は冗談で「ジュニオがコミサンに出なかったから、点数が悪くなったんだよ」と言って、お互い笑っていました。
生まれたときから、お母さん、お姉さん、おじさんたちと一緒にモシダージに通い続けていたジュニオ。
以前は、家族でチームのバール(ビールやスナックを売る店)も運営していました。
12年ほど前、私も夫も所持金を使い果たしてしまい、帰りのバス代がなくなってしまった日があったのですが、そんなときは、ジュニオにお金を借りたものです。
サンバの相談で我が家に来てくれたときもありました。
カーニバル直前のドタバタの時期に、雨が降っていたために、息子と私をわざわざ、自分の家と方向が正反対なのに、車で送ってくれたこともありました。
来年は久しぶりにジュニオがいるカーニバルだと思っていたのに、本当に本当に残念です。
身長180センチの大柄のジュニオが力いっぱい、汗だくになりながら、クアドラで踊っていた姿が目に焼きついています。
チームのみんなに送られて、サンビスタ(サンバ人)が旅立ちました。
(ジュニオのいい写真がないのですが、数年前、雑誌「マンシェッチ」に彼がコミサンで出場した写真のアップがあったので、今度、掲載したいと思います。)